軌道上 その一の一

 ただ眺めているだけで涙がこぼれそうになる景色があることを原田が知ったのは、四年前、国際宇宙ステーションへの研究員搬送シャトルに副操縦士として乗り込んだ、二十七歳での初フライトだった。


 当時、日本宇宙機構に所属する宇宙飛行士の最年少記録を塗り替えたこのフライトは、原田にとって輝かしい経歴を刻むと同時に、その後の偏執的ともいえる彼の趣味を確立するきっかけにもなった。

 厳密には趣味というより習慣性のある性癖に近いそれは、ただひたすら地球を眺めることである。原田の言葉で言うなら〈地球鑑賞〉であり、周囲の目から見れば〈地球中毒〉であった。宇宙飛行士にはさほど珍しくない症状なのだが、原田のそれは重症だと皆が笑った。初フライトにおける極度の緊張感の中、シャトルの小窓からふと見た地球の姿にやられてしまったのだろう。原田は、そう自己分析をしていた。


 地球。それが球形の天体であることは、地上約四百キロメートルの衛星軌道上にまで来て初めて実感できる。小さな窓を通して眼下に見る景色の七割以上が、太陽光の生む陰影によってダイナミックな立体感を見せる純白の雲であり、沸き立つ白い塊が自然界に内在するリズムを体現するように整然と並んでいる。対して、時折雲の隙間から覗く青い大洋や茶の大地は皺ほどの凹凸をも感じさせず、滑らかな球面に描かれた彩色地図のように見えた。


 ゆっくりと流れ去るこれらの景色の来し方へと視線を向ければ、視界の端から端まで伸びるゆるやかな薄青の円弧が暗黒の宇宙空間に迫り出すように横たわっており、その存在感には、無限の虚無を押しのける頼もしさが備わっていた。


 これらのスケールの大きな景色を眺めているとき、同時に原田の脳裏に浮かぶのは、自宅マンションのエントランス脇にある小さな亀裂で巣作りに励む、赤褐色の小さな蟻の姿であった。火山の噴火口のように巣穴の周辺に積み上げられた微細な砂粒と、一見無秩序に見えるが実は統制のとれた蟻たちの動き。生命の巧緻さとそれを生みだした自然の偉大さ。蟻と地球。原田の中でミクロとマクロの対比が妙なる調べを生み、胸が揺さぶられ、気づけば視界が滲んでいるのだった。


 以来、年に四回のフライト任務において、睡眠時間以外に唯一与えられた一日三十分間の休息時間の全てを、原田はシャトル操縦席の側面にある直径二十センチ足らずの窓に額を押し付けて過ごすことになる。写真やビデオ撮影は一切行わず、ただひたすら窓越しの地球を眺め続けるのだ。その際、前髪が邪魔になるというそれだけの理由で、原田は頭髪を五分刈りにしている。同僚たちには、いずれ額に地球ダコができるんじゃないかとからかわれるが、原田はその都度、少年のようにはにかむのだった。


 今回、原田は初めて日本の国産宇宙ステーション〈もちづき〉の搭乗員に選ばれ、シャトル操縦士としての勤務以上に多忙な毎日を過ごしていた。

〈もちづき〉での一日は、起床直後の機器点検から始まり、星座観測による座標測定、朝食、長谷川班長との二人でのミーティング、植物栽培プラントの環境調整、新素材工場における生産物の生成量チェック、トレーニングマシンによる運動、定時通信による各種報告等々、分刻みのスケジュールが三ヶ月後の帰還にいたるまでびっしりと詰まっている。


「原田君、あと三十分で地上との定時映像通信の時間だ。今回のプライベート通信タイムは三分間の割り当てだそうだ。接続先はユウちゃんでいいか」

「あ、今回、私はいいです」

「本当に? 前々回もパスしていたけど、そういうことを続けていると間違いなくふられるぞ」

「大丈夫です。っていうと自信家みたいですが、そういうのではなくて、メールは毎日やりとりしていますし、もともと地上勤務の時もそんなに頻繁な連絡を取っているわけではないので、三日に一回だと話題が無くて、大半が気まずい沈黙で終わってしまうんですよ」

「今の世代はそんなもんなのか。俺なんか相手はくたびれた母ちゃんと生意気な娘だけど、三日に一回の映像通信が待ち遠しいがな」

「でしたら私の三分間も長谷川さんが使ってください。貴重な時間ですから有効に使っていただくのが一番です」

「では遠慮無く使わせてもらおう。あとでユウちゃんに恨まれなきゃいいが」

「それはもう、全くあり得ません。ご心配なく」

「まあ、これ以上はお節介だからあれこれ言わんがね。地球鑑賞もいいけど恋人も大事にな」

「恐れ入ります」


 原田の地球鑑賞は、昼食を含めた一時間のフリータイムに、居住モジュールの片隅に個室として与えられている窓付きのコンパートメントの中で行われる。〈もちづき〉は進行方向に沿って長さ三十メートルの細長い連絡通路があり、その先端にオペレーションルーム、中程に居住モジュールが接続されているのだ。


 工場生産物の原料在庫チェックを終えた原田は、固形食料と栄養ドリンクだけの簡単な昼食を五分足らずで済ませると、家族との団らん中にある長谷川に一声かけて、オペレーションルームを出た。

 顔を上げ狙いを定めてから軽く壁を蹴る。すばやく両手を体の側面に沿わせ、白く清潔なトンネル状の通路を慣性で真っ直ぐに突き進む。このときできるだけ体を伸ばすのが原田のひそやかなこだわりだ。それでも終端まで軌道修正なしに行けるのまだ三回に一回くらいの確率だった。


 すぐ目の前をパイプの走る白い壁が流れてゆくのをぼんやりと眺めるうちに居住モジュールの区画に到達した。ENTERの赤い表示を通り過ぎる直前で入り口の枠に手をかけ、運動エネルギーを筋肉で相殺し、そのまま枠をつかんだ腕の力で室内に体を送り込んでやる。入り口の対面にある自分専用のコンパートメントはあらかじめハッチを解放してあるので、そのまま頭から滑り込む。コンパートメント内部は棺桶よりも一回りほど大きい、といった程度の円筒形の細長い空間で、身長体重ともに日本の成人男性の平均値をやや下回る原田の体格でも、姿勢を変えるにはひと苦労する。原田は身を捩り、足元のレバーを爪先で器用に操りハッチを閉めると、いつものように額を窓に押しつけ、夜と昼の境界に浮かぶ赤錆色の雲海を眺め始めた。

〈もちづき〉での滞在開始から一ヶ月、地球をほぼ五百周したことになるが、同じ景色は二度となく、見るたびに新鮮な感動が湧き上がってくる。そしてなぜか泣けてくる。今も、原田の少しぼやけた視界の向こうで、地球は夜へと姿を変えつつあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る