軌道上 その一の二

 その異変に、最初は気づかなかった。

 いや、コツンという軽い衝撃が窓から額へと伝わったのだが、それの意味するものが何であるのか、ということに意識が向かなかったのだ。


 コツン。コツン。カツン。コツン。コツコツカツン……


 さすがにここまで来ればおかしいと気づく。

 原田は足側の壁にあるハッチの開放レバーを踵で軽く蹴ってロックを解除すると、両手で窓を押しやり、足から居住モジュールのパブリックスペースへ漂い出た。その勢いを殺さぬよう対面の開口部から連絡通路へと飛び出すと、ほぼ同時に、壁に二メートル間隔で埋め込まれた赤色灯が一斉に点滅し始め、原田が密かに〈地獄のラッパ〉と呼んでいる耳障りな警報音が心臓に突き刺さされとばかりに唸りだした。


 ランクBの非常事態である。


 原田は左右の指先を壁の突起に引っかけて、十メートルあまりの距離をミサイルのように突き進んだ。そのスピードを維持したままオペレーションルームに飛び込むと、長谷川が大きな背中を丸めて集中監視モニターにしがみついているのが目に入った。ふわりと浮かんだ下半身を捻り、右足でインターフォンを壁から外そうともがいている。


「班長! 原田来ました」

「お、早いな。今、呼ぶところだった」

 長谷川は監視モニターに顔を向けたまま、少し掠れた声で答えた。

 何だ? 何があったんだ。

 長谷川の黒く強情そうな癖毛を乗せた頭に遮られて、原田の位置から監視モニターの画面は見えない。

「機器の障害ですか?」

「左翼の第二太陽電池パネルの出力が、突然七十パーセントも低下した。その二十秒後に地上通信用のメイン回線が切れた。今、システム監視装置が原因と影響範囲を自己診断中だ」


 ということは、さっきのはデブリだったか?

 原田は先ほど額に受けた軽い衝撃の連打の感触を思い出し、スペースデブリとの衝突という状況を考えた。そのことを長谷川に伝える。

「だとするとやっかいだな。じゃあ君の方は、船外カメラで太陽電池パネルとアンテナの目視チェックを頼む」

「了解です」


 オペレーションルーム内部は一辺が三・五メートルの立方体で、船外カメラの操作卓は、長谷川の取り付いている監視モニターのちょうど対面の位置にある。原田は壁に張られた移動用ロープを伝って、あちこちから草の根のように伸びるコード類を避けつつ、操作卓を目指した。

 目的地にたどり着くと、壁に収納されている簡易チェアを引き出し、背もたれに繋がるマジックテープを腰に巻きつけ身体を固定した。自動的に四十インチの大型ディスプレイに電源が入り、つい先ほどまで眺めていた夕景の地球が画面いっぱいに映し出された。一瞬現状を忘れ、思わず見入りそうになるほどの美しい光景だった。


 原田は軽く頭を振って誘惑を断ち切り、二本のジョイスティックに手を伸ばす。ディスプレイの輝度を調整しつつ、カメラの方向を変えようとしたとき、ゆっくりと流れ始めた映像の右隅、完全に夜の地帯にある地球の上空を映した部分に、白く短い軌跡が走った。

 今のは何だ?

 カメラを再び地球へと向ける。暗闇の底に沈む地球に向かって、いくつもの白い発光体が短い尾を引いて落ちていく様子が画面いっぱいに映し出された。

 ん? これは……。

 原田は目の前の光景に見覚えがあった。

 確か、宇宙飛行士養成の訓練中に見せられた映像に同じものがあったはず。

 原田は目を閉じ記憶を探った。

 たしか衛星軌道上から見える各種発光現象識別用の教材だった。オーロラから夜間飛行の旅客機、雷の放電、各種高度を周回中の人工衛星まで、様々な発光現象の事例を学んだ。その中に、今見ているものとそっくりな発光現象があったはずだ。

 そうだ、これは流星だ。

 教材ではしし座流星群の映像を見たはずだが、今回の流星は、記憶にあるものより遙かに数が多い。原田はその意味するところを瞬時に理解した。とたんに心拍数が跳ね上がる。


「班長! デブリではありません。〈もちづき〉は流星群の中に突入したようです」

「なに? 今の時期に活発化する流星群なんてないはずだが」

 反応が早い。さすがベテラン班長だと原田は密かに舌を巻く。

「この映像を見てください」


 原田は華奢な上半身をのけぞらせ、ディスプレイの全面を長谷川に開放した。こちらを向いた髭面の長谷川と目が合う。黒々とした濃い眉に強靱な意志を乗せ、大きく見開かれた目には知的な光を宿している。動揺はない。その表情にはまだ十分な余裕が見て取れる。それだけで原田の動悸は速やかに収まった。


「むう、間違いないな。となると、まだ被害は拡大するぞ。被害確認の前に、まずは太陽電池パネルの保護だ。できるな?」

「やります」


 原田は腰に巻いたマジックテープを引きちぎるようにしてはずすと、頭上に位置する太陽電池パネルの制御装置へと飛び移った。目まぐるしい移動の連続は、無重量環境に慣れた身体にも結構きつい。原田は制御装置の前で一つ深呼吸をした。

 その時――

 ゴン。

 明らかに〈もちづき〉の外壁に固体が衝突したと思われる音と振動がオペレーションルームの空気を震わせた。原田と長谷川は同時に、同じ壁の一角に目をやった。

 思った以上に悪い状況かもしれない。

 原田の胸に暗い影が差した。漆黒の宇宙を背景に、青い光を撒き散らしながら次々に砕け散っていく太陽電池パネルの映像が頭に浮かぶ。

 だからこそ迅速な対処が必要なのだ。

 原田はふんと鼻から太い息を吐き、制御装置のロックを端から順に解除していった。


 三十分後には、この緊急事態に対して取り得る処置はすべて終了した。合計十二枚の太陽電池パネルは、自動太陽追尾機能を解除した上で、その受光面が流星の進入角と平行になるように揃えられた。もし外壁に大きな破損が生じれば内部の空気が漏れ出す恐れがあるため、二人は簡易型宇宙服を身につけ、さらに〈もちづき〉の各ブロック間に設けられた隔壁をすべて閉鎖して万が一に備えた。皮肉なことにこれらの作業が終わるのとほぼ時を合わせるようにして、流星群の活動は、その出現と同様、唐突に終了した。


 引き続き行った船外カメラによる被害状況確認作業で、メインアンテナに繋がるケーブルのコネクタ部分が破壊されていることが見つかり、長谷川によって予備アンテナへの切り替えがすぐさま実施された。次いで電波の射出角や出力の調整が行われ、今は最後の調整段階に入っている。


「もうすぐ地上との通信が回復するぞ。最初に必ず工場の稼働状況を聞かれるからな。監視装置にエラー表示はないし、電源も落ちなかったはずだが、念のため現場を確認してきてくれるか」

 長谷川の指示に原田は「了解」と短く返し、オペレーションルームを出た。


 赤色灯の点滅も消え、青白く静まりかえった連絡通路は、つい先ほどまでの騒動がまるで夢であったかのような錯覚を誘う。原田は水族館の水槽を悠然と泳ぐ巨大魚になったかのような気分を味わいながら居住モジュールを通り過ぎ、連絡通路の終端に接続されている工場モジュールを目指した。


 直径十五メートル、長さ三十メートルの巨大なドラム缶といった形状の工場モジュールは、〈もちづき〉最大の構造物で、かつ最重要の施設である。外壁は三重のシールドに守られ、居住区よりも安全性は高い。ここでは日本宇宙機構と契約を結んだ国内三十数社の企業による新素材の生成実験、および商業ベースでの製品生産が行われていた。〈もちづき〉の無重量環境で生産される各種化合物や結晶は、その純度と均質性の高さが世界最高クラスにあり、かつまだその生産量が限られているため、市場では地上品の数倍から十数倍の価格で取引されている。天然資源の乏しい日本にとって、この〈もちづき〉の宇宙工場における新素材の開発・生産は、官民の枠を越えた国家的一大事業として位置づけられていた。


 工場モジュール入り口にある集中監視装置のモニターは、各生産ラインの稼働率がすべて六十パーセントにまで低下していることを示していた。現在は太陽電池パネルからの給電がないことによる省電力モードへ移行しているから、これは仕様通りの正常な数値である。その他、モジュール内の気温や気圧などにも異常はない。


 原田はほっと息をつき、入り口のロックを解除した。巨大金庫の扉を思わせる直径二メートルの円盤型ハッチがゆっくりと手前に開く。その奥に見えるモジュール内部の空間は薄暗く、各種インジケーターの何色もの光がそれぞれ非同期のタイミングで瞬く様子は、まるでそこにもう一つの宇宙空間が広がっているかのように見えた。


 原田は一旦呼吸を整えてから、そっと体をモジュール内に滑り込ませた。入り口付近にあるきらびやかな制御パネルの一角を抜けると、大小の球形タンクとそれらを結びつける何本ものパイプが縦横に走る広大な空間に迎えられる。暗さに慣れない目には二メートルより先の世界は闇に溶け込み、進行に伴って、各種バルブや操作ハンドルが突然目の前に現れては背後に消える。それはまるで海藻の繁茂する夜の海をゆくかのようであった。


 そのままゆっくりとモジュールの中間点あたりまで進み、手近なパイプをつかんで身体を静止させると、目を閉じ、ポンプや冷却ファン、駆動ベルトなどの作動音に耳を澄ませた。巨大な動物の体内に入り込み、生命の刻むリズムに自身を同調させるイメージで異変をの有無を探る。次に、鼻からゆっくりと息を吸い込み、匂いに意識を集中させる。顎を引き、うなじで気温と空気の流れを感じ取る。そうして待つこと五分、全身の皮膚から芽を出し無数に枝分かれした神経が、その鋭敏化した先端をモジュール内の隅々にまで張り巡らせてゆくような感覚が生まれる。仮に工場の片隅にある換気口で数ミクロンの埃がフィルターに引っかったとしても感知できると思えるほどに、感覚が研ぎ澄まされてゆく。

 単調な機器の作動音が広大で複雑な空間に満ちている。空気の動きに乱れはない。

 さらに三十を数えてから目を開くと、工場の全容がほぼ見えるまでに視力が闇に馴染んでいた。最後に、体を前後左右の軸を中心に回転させ全方位の目視チェックを行う。

 異常なし。

 長谷川に教えられた点検方法だった。高感度のセンサーや障害検知機能で異常なしとされた初期の障害を、この方法で何度も発見してきたというのが長谷川の自慢であり、人間の感覚を馬鹿にしちゃいかん、というのが長谷川の持論だった。


 原田は一旦工場モジュールの終端まで遊泳し、壁を軽く蹴って出口へと体を反転させた。

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