地上 その一の三 

 十年前、外の世界から目を背け、一日中コンピューターの画面に並んだ数字と記号ばかりを眺めていたある日。ぽんと肩を叩かれ、振り向いたその先にあった淡い緑色の二つの目。


 ――サトルさん、元気出していきましょう。


 無表情なはずのロボットの顔が、あのときは確かに明るく笑って見えた。だからといって突然目の前に現れた新しい駆動オイルの匂いのするロボットに対して、すぐに警戒を解けるわけもなく、七歳八ヶ月のサトルは、肩にありったけの力を集めて不意の侵入者を睨みつけたのだった。


 ――君は誰? どうして僕の部屋に勝手に入ってきたんだ。


 わずかに首を傾げるロボットは困っているようだった。


 ――私はサトルさんの日常生活をサポートするためにここへ来ました。ノックを三回すれば返事がなくても入室して良いと教えられていました。


 サトルの頭に若い母親の悲しげな顔が浮かんで、消えた。


 ――僕はそんなこと頼んでないよ。勝手にサポートだとか決めないでくれよ。

 ――それは、困りました。


 なんだか間の抜けた反応をするロボットだった。困ったと言ったきり、ロボットの動きは停止してしまった。

 今度はサトルが困惑する番だ。部屋から追い出そうにも、不自由な足ではどうにもならない。


 ――おい、いいかげんにしろよ。僕は君なんて必要ないんだから早くここから出ていけよ。

 ――私はサトルさんの命令に従うよう設定されています。ですが今の命令に従うと、私の存在理由であるサトルさんの生活サポートが不可能になります。サトルさん、教えてください。私はどうすればいいのでしょうか。


 じゃあ、スクラップになってしまいなよ。

 胸の内でそっと毒づいてみた。とたんに気分が悪くなり口にはしなかった。

 それに、どこか調子を狂わされるロボットだが憎めないところがある。


 ――そんなこと、君をここへ寄こしたママに聞けばいいだろ。

 ――はい、了解しました。


 ロボットはサトルの言葉を受け入れ、素直に引き下がった。そのまま回れ右をして、ドアに向かって歩き出す。サトルのロボットとして、最初の命令に従ったのだ。


 サトルはゆっくりと遠ざかるロボットの後ろ姿をぼんやりと目で追いながら考えた。

 僕はどうしてこのロボットに酷いことを言いたくなるんだろう。

 本当は気づいていた。「私はサトルさんの日常生活をサポートするためにここへ来ました」という自己紹介を聞いた瞬間に芽生えた強い反感は、目の前のロボットに対してではなく、その背後にいる母に対するものだということを。


 あの事故以来、腫れ物を扱うような母の態度によって知らず知らずのうちに傷つけられてきた幼い心は、被害妄想と破壊衝動を詰め込んだ破裂寸前の風船となっていた。風船はこれまで一度も破裂したことはなかったが、少しずつ中身は漏れだしていて、日々醜い形に変形し続けていたのだ。

 だからとにかく母親の為すことすべてに反発した。少しでも心が和むようにと部屋に置かれた観葉植物は即座に引き取らせ、代わりに遊びもしないゲームを大量に買わせた。トイレと風呂以外は起きている間中部屋に籠もりきりとなり、運ばれたおやつにも一切手をつけなかった。

 このロボットも高価な買い物であっただろうが、サトルが受け入れを拒否すれば、すべて無駄になる。

 ママなんかうんと困ればいいんだ。それでうちなんかどんどん貧乏になればいいんだ。

 でも……。

 こいつは何も悪くないよな。

 サトルは唇を舐め、唾を飲み込んだ。


 ――ちょっと待って。


 ドアの直前でロボットが停止する。


 ――さっき言ったことは取り消すから、戻っておいでよ。それでもう少し君のことを聞かせてくれないか。


 ロボットは再び回れ右をして、サトルと向かい合わせになった。

 目が合う。

 サトルはロボットの全身をあらためてじっくりと観察した。冷静な目で見れば、約三ヶ月前に発売され始めたばかりの最新型であることがわかった。


 ――ねえ、君。名前はなんて言うの?

 ――名前はまだありません。サトルさんに名前を付けてもらうようにと言われています。


 とくん、とサトルの胸がときめいた。

 ロボットの名前か。

 天井、壁、窓と、順に辺りを探るが何もない。床、机と目で追って、ようやく机の上にあるコンピューターの端末画面が視界に入った。


 ――ねえ、君。計算は得意、だよね。

 ――はい、得意です。

 ――じゃあ、答えて。ボールを三角錐の形に積み上げました。百段の三角錐を作るには何個のボールが必要でしょうか。


 ――十七万一千七百個です。

 ――わ、早い! 


 今日覚えたばかりの三角錐数の計算が一瞬で行われたことに、サトルは感動した。


 ――決めた。君の名前はパスカルにする。いいかい?


 淡い緑の光を放つロボットのカメラアイが四回点滅した。


 ――ありがとうございます、今から私はパスカルです。私はサトルさんの日常生活全般をサポートします。お困りのことがあれば何でも遠慮なくおっしゃってください。何かご質問があればどうぞ。


 ……。

 ……サトルさん? ……サトルさん、大丈夫ですか?


 呼びかけと共に肩に置かれたパスカルの手に揺すぶられ、サトルは長い回想から引き戻された。

 目の前にはいつもの作業デスクがあり、真珠色の燐光に縁取られた空中投影タイプのホログラフィック・ディスプレイが入力を待っている。その斜め横でパスカルが首を傾けてこちらを覗き込んでいる。

 サトルは首をぐるりと大きく回し、固まっていた肩と背中の筋肉をほぐした。


 あれから十年、相変わらず数字と記号の並ぶコンピューターの端末に向かっている。そしてパスカルがいる。それがあたりまえの日常の風景。

 パスカルとのつき合いも長くなったなと、あらためて思う。


 よし、やるか。


 サトルはロボットチェアの座面から背中を浮かせ、その勢いのままキーボードに手を伸ばした。


「お伝えするのが遅くなりましたが、ロビンソンさんからの伝言があります」

「ん?」

「俺と勝負だ――以上です」

「おう! ロビンソンのおっさんにだけは負けないぜ」


 パスカルに覚えた疑念の数々は頭の片隅に押しやった。寝起き早々にこの世のものとも思えない光景に遭遇し、神経が過敏になっていただけかもしれない。そんな理由を思いつき、とりあえずそれ以上のことは何も考えないことにする。

 サトルは再び「絶対負けないからな」と大きな声を出すと、腕まくりをし、キーボードを猛烈な勢いで叩き始めた。

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