芦川ヒカリの憂鬱Ⅳ

芦川ヒカリの憂鬱Ⅳ 1


 いつもと違う朝だった。

 古泉の整った顔で始まらない朝。つまりは、一日のスタートをいい感じにきれたってことだ。


 昨日の朝倉戦後から古泉はあまり話しかけて来ない。どうやら俺の体調を相当気遣っているらしい。その証拠に昨晩から鉄板ネタを一度もやらず(やりたいって意味じゃない)、朝も起こしに来なかった。

 朝食はコンビニで買ってきていて、自分の部屋で俺が起きてくるのを律儀に待っていた。なぜか、朝から二回も買い物に行ったらしいレシートが机に並べてあって、俺を見るなりあいつは慌ててそれを隠した。

 なんでもないと言い張るので聞かないでおいてやることにして、俺たちは惣菜パンを黙々と食べた。黙々と言うだけあって、会話は全然本当にマジでない。古泉がそうなので、俺もパンを食べることに集中していた。

 記憶を参照する限り、古泉がこんなに俺を放置して考え事に集中するなんて珍しい(構われたいという意味じゃない)。優秀が祟って周囲に気を配り過ぎるところがあるから、雑に扱う相手がいるのはいいことだとは思う。その相手が俺っていうのも、気を許してくれているんだなと思うと嬉しいくらいだ。でも、キャラ的に古泉が俺を放置するか? あの古泉一樹だぞ。しかも、どうやら俺のことを好きらしいのに。いつもうざいくらいに絡んでくるのに。

 もしかしてこいつ、結構やばいのかもしれないな。新川さんといいい、疲れすぎてボケてしまっているのだろうか。意外と古泉がうっかり屋で朝がダメなぼんやり野郎だということは知っているが、なんだか心配になる。

 登校中もなにやら思考に忙しいらしく、話しかけても相槌は曖昧だった。問題を抱えているなら相談してくれてもいいと思うのだが、もしかすると幽霊の俺に予言でもされて動きにくいのかもしれない。なにか気づいても、未来を変える可能性のあることは言えないってのは仕方がないことだ。その気持ちは痛いほどよくわかる。規定の出来事を知っている俺には尚更言えない、そんなとこだろう。

 それでもこいつは演技がうまいので、疲れも焦りも隠して、弁当をありがたそうに受け取って教室に去って行った。最後に「ヒカリくん、なにかあれば連絡を」と添えて。


 戸を引いた一年五組の教室は、もう俺を拒んだりはしなかった。変な膜もなければ、頭痛に襲われたりもしない。朝倉の席には誰も座っていなくて、昨日と変わらず花瓶は空っぽだ。

 思い思いのグループを形成して話に花を咲かせる学生たちの声。昨日のテレビ番組や、雑誌の話──当然、前日の争いの痕跡はどこにもなくて、そんな頂上決戦の話は誰もしていない。女子の何人かは無遅刻無欠席の朝倉の様子を気にしていて、そんな彼女にお熱だった谷口に、俺はさっそく捕まることになる。


「おい、朝倉風邪か?」

「なんでそれを俺に聞くんだよ」

「だってお前ら……仲良くなかったか?」

「そんなことないって。あれじゃないか。寝ぐせにでも手間取ってるとか」


 さらっと嘘を吐いた。彼女と戦って、倒して、そんな手伝いをしましたなんて言えるはずもない。これにはキョンも肩を竦める。国木田がしょうがないとでも言いたげな顔で振り返った。


「ほら谷口、聞きたいことがあったんじゃないの?」


 はっとした顔の谷口は俺の耳に手を当てて、内緒話をするように声を潜める。俺は腕組みをしながら首だけ傾けた。


「なんだっけか……あ、そうだよ。どういう進展の仕方したらああなんだ? 俺はお前が心配だぜ。キョンって結構手が早いんだな……しかしよ、なんで長門の前でだよ?」

「ばっ……馬鹿言うな、そんなんじゃない! あれは、具合が悪くて長門とキョンに介抱してもらってたんだ」

「昨日保健室行ってたもんね。もういいの?」


 身体を捻って椅子の背もたれに寄りかかる国木田に、頷いて返す。ちらと見た花瓶には、やはり造花はない。結局、くまのマスコットは長門が持ち帰ったので、まるでこの教室で過ごした朝倉との日々なんてなかったように感じてしまう。

 ハルヒがかなり遅めに登校してきて、谷口とひそひそ話をしていた俺のブレザーの裾をひっぱって席に引き戻す。ほんとこいつに冷たいよな、ハルヒ。


「ねえ、なんか面白いことない?」

「急だな。今期一押しアニメってこと?」

「そういうオタク話じゃなくて」

「うーん……そう言われても、特にないなあ」

「あっそ。あんたにないんじゃおしまいね」


 おしまいなんて怖い話をするな。口を開こうとしたところで担任岡部が登場。ハルヒはつまらなそうに溜息を吐いて席に戻って行った。

 岡部は非常に困惑した様子で「朝倉なんだがな、父親の仕事の都合で急遽外国に引っ越した」なんてことを語る。俺は「えー」なんて言いながら話を合わせているが、クラスの連中にとっては寝耳に水だ。みるみるうちに教室はざわつき始め、泣きだしそうな女子たちまでいる始末だった。

 隣の席の佐伯さんが「急だよね」と悲しそうに俺を見て言う。俺が転校してこなければ、彼女はこの席に座っているはずだった。一つ分ズレたせいで彼女は朝倉の真後ろの席に変わっており、そのせいか佐伯さんと朝倉は休み時間によく話していた。彼女と仲良しの、阪中さんや成埼さんも朝倉とは親しくしていて、ボウリング場で朝倉を見かけた時もそのメンバーだった。俺は、何も言えずに佐伯さんに頷くことしか出来ない。自分の友達を守るために、彼女の友達を殺してしまったみたいな気になった。

 ハルヒがキョンの背中を小突いて、隣なのでその風景が見えていた俺も振り返る。必然的に阪中さんと成埼さんが視界に入る。そのショックを受けている阪中さんたち女子グループは、朝倉と仲が良かっただけじゃない。俺の髪の毛をいじったり、朝倉と一緒になって転校早々SOS団に引きずり込まれた俺を、よく心配してくれたりしていた。この一週間世話になったことを思い出して、次々と罪悪感が襲ってくる。


「これは事件だわ」

「そうか?」

「謎の転校生が来たと思ったら、次は理由も告げずに転校していく女子までいたのよ。あんたは何か聞いてない?」

「お前まで俺と朝倉が仲良しだとでも言うのか?」

「その逆よ。あんたたちって相性悪かった気がするのよね。その割にはよく喋ってたように見えたわ。多分、恋のライバルとかだったんじゃないかしら? だとしたらこういう時、ライバルにだけはなにか残していくもんでしょ」


 絶妙に当たらずとも遠からずなことを言ってくるからハルヒってやつは怖いね、まったく。俺は肩を竦めて返事に代える。


「あんた、あんまりショック受けてないのね」

「まあ、びっくりはしてるけど。そもそも俺は転校してきてようやく一週間だぞ。まだ学校にも慣れてねえよ」

「そんなの理由にならないわよ。たった一週間ってあんた、アホの谷口とは毎日弁当食べてるじゃない。それに、朝倉は外国に親が転勤したんでしょ。あんたんとこの親みたいに親だけ行けばよかったじゃない」

「そりゃそれぞれの家庭の事情があるんだろうさ」


 キョンが助け船を出すと、ハルヒは納得行かないように口をへの字に曲げた。


「でも、おんなじ境遇なのよ。なにか聞きたいことくらいあってもおかしくないじゃない。なんでこいつに何も言わないのかしら。これは調査の必要ありね」


 もしかして俺も一緒に放課後調べに行くのだろうか。参ったな。長門と朝倉は同じ統合思念体の下で働いていたからか、同じマンションに住んでいた。初日に長門のマンションに行っている俺としては、管理人には顔を見られている可能性がある。うまい言い訳を考えないとな。


「あんたもそう思うでしょ」

「まあ、調べてもいいんじゃない。ちょうど何も面白いことないって嘆いてたんだろ」

「意外ね。あんたなら止めると思ったけど」

「俺が止めて聞くのかよ、涼宮が」


 ハルヒは眉を寄せて難しい顔をしたかと思うと、ふん、と鼻を鳴らした。その日のHRは爽やか眼鏡の榊くんと、学級委員の後藤くんが前に出てしきり始めた。朝倉も転校してしまったし、席替えを行うのだと言う。アニメでは朝倉と共に前に出ていたのは榊氏だったが、彼は学級委員でもなんでもないんだな。単純にクラスをひっぱるタイプの人気者キャラみたいだ。後藤氏も一人で委員を務めていくのは大変だろう。まあ、彼のことを好きな葉山さん辺りが学級委員に立候補するとは思うが。

 席替えで、ようやく五月現在の席に戻る。これも、ある意味逸脱事項を解決した効果なんだろうか。キョンとハルヒは窓側の席。俺は──、なぜか変わらずキョンの隣で、ハルヒの斜め前の席。谷口と国木田はちょっと離れてしまった。これによって、朝倉が俺の席をキョンの隣にしたという線は消えた。となると、やっぱり俺の願望をハルヒが深層心理で理解し、隣にしてくれているってことになる。

 自分だってキョンの後ろをキープしているんだ、きっと彼女にもなにかしらの感情があるはずなのに。それこそもしかして恋のライバルとして俺を見ていて、キャットファイトしようってんじゃないよな?


 授業の合間、シャツのボタンを二つ開けて手持ち扇風機を回す俺を、ハルヒが恨みがましい顔で睨んできた。

 まだ五月だというのに、梅雨の前の湿気が教室に吹き込んで蒸し風呂みたいになっている。自然の涼しさには限界があって、風が吹いてもじめじめした熱風を運んでくるだけだ。職員室にだけクーラーがついているなんて汚いよな。替えのTシャツ持って来たし、昼に一回着替えてしまおう。


「なんだよその目は。貸して欲しいならそう言え」

「当てて」

「自分で持てよなー」


 言いつつ、俺はハルヒに扇風機を向けてやる。「あー」なんておじさんみたいな声を出しながらハルヒが前髪をピンで止めた。イチゴだ。


「それ使ってくれてんだね」

「ちょっと子供っぽいけどね。髪の毛が留まればなんでもいいわ。そういえば、あんたはキョンからもらったの着けないわね?」

「だっ、大事に保管してるんだ……」

「なによそれ。ところであんた、シンデレラって知ってる?」

「話が飛びまくるな。まあ、大抵のやつが知ってるんじゃないか」

「キョンに聞いてない。こいつに聞いてんのよ」

「俺? まあ、もちろん知ってるよ。何版にせよ名作だからね」


 ハルヒの言葉に返事をしながら、俺とキョンはぴくりと反応する。つい昨日聞いた単語だ。シンデレラか、ここで出てくるとは。たしか“シンデレラには友達がいた”だったよな?


「あたし思うのよ。シンデレラには動物の友達がいたじゃない?」

「あー、いたいた。ネズミとか犬とか。名前なんだっけなー」

「あの子たちって最後、お城に行くシンデレラを追いかけながら見送るでしょ」

「そんな終わりだったか?」

「そうよ。キョン、あんたちゃんと観てないんでしょ。あれって寂しくないのかしら」

「たしか、シンデレラⅡではお城に住んでるんじゃなかったっけ?」

「そうなの? でも、お城に住んだってシンデレラとは今までみたいな関係ではいられないでしょ。シンデレラのために頑張ったのよ。なんか納得いかない」

「涼宮がシンデレラだったら、城の中で動物の権利向上運動とか始めそうだよな」

「だからね、あたしは思うの。動物たちはガラスの靴を隠しちゃえばよかったのよ。そうしたら王子様にシンデレラを取られたりしなかった。森にでも行って動物たちと楽しく暮らせたんじゃないかしら」


 キョンが首を傾げる。


「結局お前は何が言いたいんだ。シンデレラのストーリーがめちゃくちゃじゃないか」

「別に恋しようと勝手だけど、今まで仲間だったやつを疎かにするのは違うでしょってこと。わっかんないやつね」


 俺はまるで釘を刺されたような気分だった。思わずキョンから目を逸らして、黙り込んでしまう。わかってる。昨日のことがあったからって、俺がキョンと特別仲良くなったなんて勘違いはしちゃいない。


「……ねえ、なんでこんなに事件が少ないのかしら」

「おい、ついさっきまで騒いでいたことはどうした。朝倉の転校のことはもういいのか」

「それはそれよ。おっかしいなー。絶対不思議なことをして自分たちだけ楽しんでるやつらがいるはずなのよ。あたしに隠れて秘密の話で盛り上がってるの」

「お前が何を言っているのか俺にはさっぱりわからん」

「透明人間の集会とかがあるんじゃないのって言ってんのよ。まったく、あたしに招待状も出さないでどういうつもりかしら」

「つまり、涼宮は透明人間に会いたいのか」


 やっと会話に参戦する。ハルヒはかったるそうに俺を指差した。


「話が早くていいわ。あんた、探せる? オブジェも見つけたじゃない。とっ捕まえて部室に放り込んでおいてよ」

「えー、オブジェを見つけたのはお前だろ。まあ、善処はしてみるけど……難しいんじゃないかなあ」


 古泉の代わりにイエスマンになっておくのもたまにはいいだろう。昨日の今日で閉鎖空間はさすがに遠慮したい。

 機関の疲労は今や新川さんや古泉を見るに限界のところまで来ている。かと言って俺が手伝うにも、朝倉曰くこのまま能力を使いまくるのはまずいらしい。今日、古泉が止めるならキョンくんについて閉鎖空間に入るのも我慢しようかと思っている。だから神様のご機嫌を伺っておきたいが、俺がハルヒに気を遣うとそれはハルヒに伝わるらしい。いや、俺どうやって喋ればいいんだよ、それじゃあ。


「またなんでもかんでもお前は涼宮に甘い顔しやがって。それともなにか? 本当に透明人間がいるとでも思ってるのか」

「いるんじゃないかなあとは思う」

「いた方が絶対良いわよ。そういう不思議お色気成分が足りないのよ、今のSOS団には」

「見つけたら部室に連れていけばいいわけね。ただ、ホントに期待しないでくれ」

「するわよ。あんたには目をかけてるんだから。そいつを新しい団員にするか検討しなきゃね。SOS団の未来はあんたにかかってるわ」


 宇宙人や未来人や超能力者、そして異世界人がいるのだから、ちょっと透けてるくらいのやつならいてもおかしくはない。突然消える人の形のやつなら一応見たしな。まあ、その正体は俺の頭から出たゴミの集まりだったわけだが。

 そういえば同じようなことが昨日あったな。俺にとって助言をするのは兄の姿で、古泉にとっては俺の姿なのか。森さんとかでも良かったと思うが、多分話した内容によるのだろう。その話をする上で違和感のない人物として現れるのが、俺の漏れ出した情報の性質なのだと思う。古泉は“俺”から一体何を聞いたら、あんなに考え事に忙しくなってしまうのだろう。


「透明人間になったら、あんたなにしたい?」

「え? 俺? そうだな……」


 これ以上属性を盛られても困る。既にキャラクター性過積載で警察に呼び止められるレベルなんだ。さて、透明人間にお色気か……属性としてはやっぱりラッキースケベに活用するんだろうか。ギャルゲーの定番イベントだから、そこはオタクとしてもスチルを回収しておきたいよな。

 他にも泥棒とか悪戯とかに使えそうだが、悪いことに使うのはやめた方がいいだろう。ギャルゲーのギャグ世界感でぎりぎり許されるレベルに収めるのがいいかな。まあ、俺としては何も知らないキョンくんの横顔を小一時間くらい眺め続けるのもいいけど。いや、今の思想は犯罪だな。すみませんでした。


「……女湯を覗くとか? さすがに空き巣とかに使うのは良くないし」

「いや女湯覗くのはいいのかよ」

「はあ……もう、全然ダメ! てきとうなことばっかり言って。真剣に考えてないじゃない。あんたは、あんただけは……」


 ハルヒは拳をわなわなと震わせて俯いてしまう。え? まさかここで地雷を踏むなんて。キョンはちら、と俺を見る。昨日の今日だ、彼も俺を心配してくれているんだろう。


「……涼宮?」

「あんたはいつも、あたしの話をわかってくれると思ってた。でも違う、あんたはあたしに合わせてるだけ。顔色を窺ってるだけ。そうやって何も言わないでへらへら笑ってるとこ、反吐が出るわ」


 この一週間、ここまではっきりとハルヒに拒絶されたのは初めてだった。まずい、もしかして本当に朝倉の言うようなことが起きるのか? 元の世界に、弾かれるのか? よくわからないが衝撃に備えて目を瞑ってみる──、何も起きない。

 ハルヒはもう窓の外を眺めている。話なんかしたくないって感じだった。俺は「ま、なんだ。どんまい」と雑に励ますキョンに肩を叩かれる。ハルヒと付き合いの長い谷口なんて「ほっとけ」とジェスチャーしている。首が、ひりひりと痛んだ。


 昼休みになると、朝比奈さんの大人バージョンに呼び出されているキョンはすぐに教室を出て行った。机にうつ伏せているハルヒに会話を試みたが完全に無視されて心が折れそうだ。

 閉鎖空間が発生したはずなので電話をかけてみたが古泉は出なかった。なにかあれば連絡しろと言ったのはお前じゃないか。それとも対応に出て行ってしまったんだろうか?

 谷口と国木田は声を掛けたのだが、聞こえなかったみたいで二人で机をくっつけている。

 なんだか、違和感がある。今日の朝から何かがひっかかる。いや、考えてみれば昨日の新川さんからだ。あの時からずっと喉に魚の小骨が刺さっているような嫌な感覚がある。


 ──もしかすると逸脱事項だろうか。

 それにしては本編の通り進んでいる気がする。朝倉は転校したことになっているし、キョンは朝比奈さんからの手紙を受け取っているから教室を出て行ったんだろう。

 違うことと言えば、ハルヒを怒らせてしまったことだけだと思うが……いや、新川さんと古泉の様子がおかしいのは昨日からだ。ハルヒの機嫌が墜落したのとは関連づけられない。

 でも、俺が気付かなかっただけでなにか伏線となる出来事があったのだとしたら……?

 頭は痛まないが、なぜだか思うように思考が働かない。まだ本調子じゃないってことか。こういう時はとりあえず食事だな。


「谷口、国木田」


 二人は答えない。いくら昼休みで賑やかだからって、そんなに聞こえないってことあるか?


「谷口、国木田ってば。さっきから呼んでるんだけど」

「誰が?」


 とうとう目の前まで行って、俺は声をかけた。谷口がわかりやすいボケをかまして教室のドアを見る。


「いや、俺がだよ。飲み物買い忘れたんだけど、お前らの分も買って来ようか?」

「……は? お前が? どういう風の吹き回しだよ。急になんか奢ろうなんてよ」

「谷口。そういう言い方はないだろ。僕たち、飲み物はあるから大丈夫だよ」

「そうか。じゃあ買ったら戻る」

「いやいや、つーかなんでんなこと俺らにいちいち断るんだよ?」


 男子同士の付き合いってそういうの言わないものなのか。やっぱりこの二人から得られる情報は多いな。さっと行って戻って来よう。


「じゃあ、俺の分も机くっつけておいてくれ」

「え? 一緒に食べるのかい? あ、嫌ってわけじゃないよ。びっくりしただけ」


 ああ、もしかしてこいつらまだ昨日の夕方の話をしてるのか? キョンとのことを勘違いしてるらしい。いや、揶揄っているだけか? まあでも、この話をハルヒに聞かれて誤解を受けるのも困るしなあ。


「お前、転校してきて誰も仲良いやついねーの? わざわざ俺たちに声掛けて来てよ」

「別にいいじゃない。まだ一週間だもの。誘ってくれて嬉しいよ。僕たちと食べよう」


 確かにSOS団に関連する面子としかあまり絡んでないな。女子とはそれなりに話すけど交流が浅いように見えるんだろうか。さっきみたいにハルヒにどやされていたのを見れば、他にも友人を作っておけと思うのかもしれない。

 いや、そうか? 急速に鼓動が早くなる。違和感がある。ずっと、なにかがひっかかってるんだよ。いつもの谷口なら「また涼宮にキレられたのか。災難だったな」って先に机をつけてくれる気がする。国木田だって、さっきから谷口の発言が俺を傷つけないようにと、妙に気を遣っているような感じがある。

 この距離感はなんだ? そう、そうだ。距離だ。なんだか二人が遠く感じる。会話のテンポや内容、態度が俺のそれとまったく噛み合わない。席が遠くなったから? それだけで、こんなことになるだろうか。ていうか、俺は俺で気づくのが随分遅くないか? なんだ、何が起きている?


「谷口、国木田……お前ら、なにかあったのか?」

「はあ? そりゃこっちのセリフだぜ。なんで俺たちがお前と飯を食うんだよ。お前女子にモテんだし女子と食えばいいだろ」

「あーあ。谷口のやつ拗ねてるよ。でも、僕もその方がいいと思うよ。谷口や僕と食べるよりは、女子と食べる方が建設的で面白みがあるんじゃないかな」

「それはそうかもしれないが、なんか……俺のこと避けてる?」

「避けてるもなにもお前と仲良くなる未来が見えねえっつの。ったく、嫌味なやつだぜ。ほら、向こう行った行った!」


 しっしっ、と谷口が俺を追い払う。あまりのことに俺は声が出ない。なんだって急にそんな態度が変わるんだよ。目当ての朝倉が転校したら、もう俺と喋ることはないのかよ。毎日一緒に飯食うのが当たり前って思ってるのはこっちだけか? 俺は下唇を噛み締めて、もう一度谷口を見る。


「な、なんだよ……もしかして、マジで他に食ってくれそうなやついねえの? おいおい、なんだよやめろよ。俺がいじめたみたいだろ」

「……なんでもない。わかったよ。誘って悪かった」


 俺は弁当を持って教室を出る。相当ショックだった。急に余所余所しい態度を取ってきてさ。仲良くしすぎてハルヒを怒らせないように画策しましたって感じじゃなかった。スベったみたいな雰囲気が教室に流れてて、居た堪れなかった。

 一年九組に顔を出すと古泉はいないみたいだった。電話にも全然出ない。あいつはあいつで何かに巻き込まれてるのか? 俺はその辺の賢そうな生徒に声をかける。普通に無視された。なんなんだ、今日は。もしかして俺ってやっぱり怖がられてるの? 金髪だから? それともネガキャンでもされたのか。学校の裏掲示板に変な噂でも流れてる?

 通りすがった女子の肩をとんとん、と叩く。きょとん、とした顔をした女子は俺をゆっくり見上げた。


「わ、びっくりした」

「驚かせてごめん。古泉どこ行ったか知らない?」

「古泉くん? なんで?」


 なんで、とは。未だに俺と古泉の仲を勘繰っていない生徒が九組にいたとは驚きだな。奇跡すぎる。天然記念物に指定して大事に保護したいくらいだ。


「一緒に飯食おうと思って」

「へー。友達だったんだ。古泉くんは用事があるみたいでいないよ。なんか、電話してたよ」

「そうか。ありがとう」


 彼女は返事もせずに席に戻って女子同士で談笑を始める。ちょっと冷たいんだな、特進クラスって。でも、電話か。やっぱり閉鎖空間は発生しているってことだよな。俺を巻き込まないようにしているんだろうか。もう一度電話を掛けてみるが、やはり出ない。掛かっているので通話中ってことはないと思うが、そう何度も掛けるのも迷惑かな。

 行く当てもなく弁当を持ったままふらふらと歩いていた俺は、気付けば部室棟まで来ていた。


「あ、こんにちは」

「ああ……どうも……」


 廊下を歩いていたコンピュータ研の部長が、首だけで会釈して去って行く。SOS団のメンバーだとわかってしまったからか、彼も態度が冷たい。

 なんかなあ。今日は人とうまく喋れない日だな。俺は今朝からのことを思い出してみる。なにか嫌われるような態度をみんなの前で取っただろうか。朝倉の転校の話題に反応しなかったこと? それか、ハルヒに怒鳴られたことだろうか。いや、そういう問題でもない気がするんだよな。朝は谷口の方から話しかけて来ていたし。

 今日行った会話を全て最初から反芻する。反芻する。反芻する──。

 そういえば。朝倉のことを話した時の谷口とハルヒは少し自信がなさそうだった。それはちょっとらしくない感じだったな。二人ともその後にバッドエンド直行みたいな会話をしたからつい掻き消されていたが……うん、あれはおかしかったと思う。

 はっきりとみんなが冷たくなったのは、やっぱりハルヒを怒らせた後だ。でもハルヒがいくら世界を自分に都合の良いように変えられるとしたって、ハルヒが俺を嫌いになったからみんなも嫌いになるだなんて改変が起きるものだろうか? 自分で考えておいてなんだが、ハルヒに嫌われたって精神に来るな……。あ、ついでに思い出したけど、今日古泉に一回名前呼ばれただけで、みんな俺の名前を口にしなかったな。関係あるか、それ。思考が茶々を入れて来てまったく脳内会議が纏まらない。

 まだ部室の中ではキョンと朝比奈さん(大)が話しているだろうか。仕方なく、俺は廊下で弁当を広げて食べ始める。脳を動かすにはまず食事だ。

 と、電話が鳴った。着信は古泉。


「ああ、古泉。ようやく電話気づいた? 閉鎖空間は大丈夫だったのか」

「……ヒカリくん」

「え、う、うん……」


 寝起きみたいな低い声だった。俺は気圧されながら返事をする。


「今……どこにいますか?」

「部室棟だけど」

「そこを動かないでください。すぐに行きます」


 なんだなんだ、なにかあったのか? やっぱり古泉は古泉で懸案事項があって電話に出られなかったのか。いや、今古泉が来るのはまずい。朝比奈さん(大)がもしも部室の中にいたら彼女が出てくる時に鉢合わせてしまう。まあ、古泉ならなんとなく匂わせれば勘づいてくれるだろう。


「あー。それはやめた方がいいかも。俺が九組にいくよ。だから、」

「いいから。お願いします。動かないでください」


 食い気味に言うだけ言って、古泉は一方的に終話した。珍しい。珍しすぎる。どいつもこいつも態度がおかしい。なんだって言うんだ。誕生日のサプライズパーティーを企画してくれているとしたら、生憎今日は違うぞ。

 古泉は、怒っているような切羽詰まっているような声だった。人前だからなんとか抑えたかのような、それでもかなり感情が表に出た声をしていた。あいつがそんなわかりやすい反応をするなんて、なにかあったなら余程のことなんだと思う。

 嫌な汗を掻いてきた。弁当の味がわからなくなってきて、俺は片付けることにする。


「、……ヒカリくん」


 古泉は息を切らして、かなり緊迫した表情で現れた。どうやら走ってきたらしい。そんな顔で古泉が走っているのを、俺もだけど、きっと誰も見たことがない筈だ。

 なりふり構っていられないといった様子に、だんだんとこっちまで緊張してくる。古泉は俺の前までやってくると、唐突に俺の手を握った。


「えっ! な、な、なに?」

「芦川ヒカリくん……ですよね」

「なんの確認だ?」

「答えてください」


 有無を言わさぬ態度に、俺は小さく頷く。握られた手が痛い。


「ちょっと、なんだよ古泉。痛いって。離して」

「すみません。このままでお願いします。僕も半信半疑で何が起きているか……いえ、今、理解しました」

「落ち着けって。せめて力を弱めろ。痛いんだって、自分でわかってないだろ。痕つきそうなくらいだぞ」


 古泉は、はっとして俺の手を離す。本当にちょっと俺の手が赤くなっていた。どんだけ焦っているんだ。くそ、こいつが冷静じゃないなら俺が落ち着かないと。


「……あなたこそ、落ち着いて聞いてください。こんなこと、僕も言いたくはありませんが……」


 古泉は躊躇う様に視線を彷徨わせて言い淀む。近づけてきた顔は何か俺を説得しようとしているような雰囲気を醸し出していて、前髪の間から覗く目が怖いくらい真剣だった。


「…………」


 そのまま石像にでもなったかのように古泉が固まる。眉根を寄せて、考えるような、不思議そうな顔をした。


「いや、なんなんだよ。覚悟はできたからさっさと喋れよ」


 その古泉の目が、俺のツッコミと同時に瞬きの間に険しさを失い、きょとん、と柔和ないつもの表情に変わっていく。決定的な単語を突きつけられる。そんな気がして、俺は黙り込んでしまう。本当は気づいている。違う。なにを言われるかわかっている。そんなはずない。


「……すみません。今、なんの話をしていましたっけ」


 照れたように距離をとって、古泉が苦笑した。俺が吐いたため息は、どっちの意味だったんだろう。

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