芦川ヒカリの憂鬱Ⅲ 17


 ──ああ、どうか。


 なにも面白いことがなくてハルヒが悲しむような世界にだけはならないでくれ。

 どうか、素直じゃない彼がなんだかんだ笑っていられる毎日であってくれ。

 頑張ったらどうにかなるような世界じゃなくても、朝比奈さんが報われるような未来になってくれ。

 頭のいい古泉が馬鹿をやれる場所も残しておいてくれ。

 こんなにぼろぼろになってる長門がさ、納得のいく進化っていうのを、いつかずっとずっと先で、見せてやりたいよ。


 俺はここにいる。そのためにここにいる。


 ──長門。首から下が傷だらけで、無数の槍に貫かれて磔になっている、長門。彼女は左手を力なく垂らしたまま、無造作に右手で数本の槍を身体から抜き取る。いくつかの槍は質量を無視して机に姿を変え、硬質な音を立てて地面に落下する。一本だけは、鋭利な切り口の鉄パイプのような形のままそこに転がっていた。なにか、なにか、ひっかかる。

 俺は痙攣する手を伸ばす。身体が、起き上がらない。長門まではこの手が届かない。空を切る手がかすかにキョンの指に触れる。湿ったそれがぴったりとくっつくように、引っ張られるように、握り返される。隙間なく、ひとつになる。

 彼が俺を振り返る。放心状態のまま、もうダメなのかという顔でこちらを見たのに、急に目つきを険しくして、長門に手を伸ばした。

 キョンが握った長門の手は、夥しいほどの血液を流して“ぬるぬる”としている。なんとかしっかり握ることができたが、彼女は握り返してこない。もう、その力もないのかもしれない。なにかのために残しているのか?

 不思議な感じがする。キョンを通じて、俺が長門の手を握っているような……視界が、俺のと、キョンと長門のと、三つとも見える。それだけじゃなくて、360度を見渡せるカメラが内臓されていて、監視ルームの特等席に座っているみたいだった。この感覚は、さっきも一度感じたものだ。空間とひとつになるような、溶け合っているような感覚。

 キョンが喉を鳴らす音がよく聞こえる。緊張しているんだ。多分、俺と“同じものを見ている”。


 壁にも、上空にも床にも、均等な筋が入っていた。世界は青く、星が輝き、空気が澄んでいる。冷たい冬の朝を落とし込んだ、どこまでも清涼な電子空間みたいだ。雪も降らないしずかな朝、まだ日が昇らない夜との間に閉じ込められているようだった。

 四角いマス目に埋め尽くされた視界は、平面的に見えるがそうではない。正立方体のキューブが重なって空間が形成されていることを表していた。その立方体が一キロ先までびっしりと積まれている。全景としては、塔のような形だろうか。上空まで見上げれば、縦長の直方体だとわかる。

 長門が飛び込んできた上層部分は、修復はされているがヒビは入ったままになっている。外から中へはこれで事足りるだろう。一点突破、脆弱な部分を突いて侵入するなら、それでいい。それでもこのヒビの部分に触られたくなくて、彼女は空間を縦に伸ばしたのだろうか。なら、ここを? いや、これは違うと思う。必要のない時間を使うわけにはいかない。

 もっと、根本的に。そしてシンプルに考えよう。この空間を壊すなら?

 周囲に目を凝らす。いくつかのブロックがズレたり、落ちそうになったりしている。朝倉には情報連結の解除はできない筈だ。なら、これは防戦一方に見えた長門が攻撃した形跡ということになる。空間は揺らいでいる。後一歩でこの状況から抜け出せるはずなんだ。

 長門は機会を伺っている。最後の一手に賭けている。依然、“朝倉の視線は長門に向いている”。長門がそうしろと指示したからだ。それなら、その機会は俺たちが作らなければならない。


 俺が深呼吸して集中しようと瞼を閉じると、長門が小さく息を吸う音が聞こえた。朝倉がなにやら勝ちを確信したように高説を垂れているのがありがたい。本来、彼女はそんなに浅はかじゃないと思う。一度裏をかかれた状態で、朝倉がとどめを刺さずに待っていてくれるのは何故だ? 俺の可能性を見たいと言っていたから、最後の足掻きを見届けようとしているのか? それとも長門にサポートされて、誘導がいつも以上に機能している? 

 いや、考えるのはそこじゃない。早く打開策を思いつかなければ。どうすればいいんだろうか。記憶を手繰る。朝倉はなんと言った? ダメージを負った長門には、情報連結の解除はできない。電話の向こうでは、古泉と“俺”が話している。


「日曜日は楽しかったですね」

「ああ、キョンくんはクレーンゲームが得意なんだ。すごくかっこよかった」


 クレーンゲーム──そうか、クレーンゲームか。横のキョンを見る。誘導で操作して、空間を崩す? たしかに、お菓子の箱がジェンガみたいに積まれているのをゲームセンターでを見たことがある。

 これは長門が見せている彼女の視界なのだろうか? 俺の方の視界では、長門が蹂躙され、血液をまき散らしている。まずい、うだうだ考えている暇はない。急がないと。


「キョン、見えているか?」

「あ、ああ……」

「どこを崩せばいいと思う? 俺は、こういうのは得意じゃない」

「どこっていうか……何か所か弄らないといけないぞ」

「いくつか動かして、一発決めれば全部倒れるようにしたい」

「……わかった」


 空間の膜を切るんじゃなくて、ブロックを引っ張るイメージ。朝倉に気づかれずにそんなことができるのか? しかも、止まっているものを動かすのは結構難しいのに。いや、出来るのかじゃなくて、やるんだ。

 俺は深呼吸をして、キョンに指定されたブロックを慎重にずらしていく。視界が共有されているので、明確な指定がなくてもなんとなくどれを言っているのかはわかった。

 長考はできない。キョンは額から汗を垂らしながら俺に指示を出し、俺は鼻血を流し、咳をしながらその通りに引っ張る。六つ目のブロックをずらし終わったものの、最後に動かしたい場所には楔のようなものが刺さっていて、動かない。


 ああ、まただよ。俺が朝倉の気を逸らそうと取っておいた剃刀の刃が、結局なんの役にも立たなかったその一枚の欠片が、朝倉の足元の地面に突き刺さっている。なんでこう、余計なことしか……いや、でもそこだけ妙に脆くなっているようにも見える。あれなら、ブロックをずらすというより、一個丸ごと壊してしまう方が早いかもしれない。

 俺の逡巡がキョンにも伝わったらしい。そのブロックさえなんとかなれば、最後に長門の一歩前ほどにあるブロックを触って、それで空間を崩すことができる。

 欠片を抜きに行こうとしたんだろう。キョンが腰を上げる刹那、朝倉の鋭い一撃。長門が、わずかに腕を上げてそれを庇う。間一髪でキョンが尻餅をついた瞬間、その陰からもつれる足もそのままに、俺が飛び出す。転がっていた鉄パイプの槍を手に。動いているものなら、そこに力を加えることができる。


 なら、動いている俺なら?


 俺はつま先と膝で滑りながら朝倉の足元に駆け込む。ほとんど人体の動きを無視して空中で身体を捻って朝倉の槍を躱すと、そのまま彼女に突っ込んだ。


「さすがにそこまで近づかれたら、意識操作されていても気づくわ。残念だったね」

「今更だ」

「ほんとうね」


 あと少し、というところで彼女が飛び退きながら放った槍が頬を掠める。だからなんだ。足りなくなんてない。届く。届くんだ。俺の身体を壁にして、鉄パイプを手放す。

 見える。全部見える。滴り落ちる血液に、ありったけの固定を加えて、鉄パイプを誘導する。小さな力でもいい。全然威力がなくてもいい。ただ、情報が乗るだけの質量がそこにあればいい。あとは勝手に運ばれる。俺の能力は全部勝手なんだ。鉄パイプで血液の楔を弾いて、剃刀の刃を、撃ち込む──!


「終わった」

「終わったって、なんのこと?」


 長門が、腹に開いた風穴をものともせず前に一歩進む。肉が抉れる嫌な音と共に、豪快に血液を零しながら。


「あなたの三年余りの人生が?」

「ちがう」


 一瞬だった。膝を折り曲げた長門が踵を振り下ろす。


「情報連結解除、開始」


 それで、最後のブロックが下に抜けて行った。足元が抜けたにも関わらず、崩壊していくのは頭上からだ。閉鎖空間といい、空間にはそういう不文律でもあるのだろうか。辛うじて引っ掛かっていた教室の残骸、星空も花畑もなにもかもが光に収束して、降り注ぐ。


「そんな……」


 地面に伏せたまま、降り積もる粒子を浴びて、まるで雪みたいだと、俺は思った。


「あなたはとても優秀。だからこの空間に割り込ませたプログラムの回収や構築に今までかかった。でももう終わり」

「ほとんどの攻性情報と崩壊因子を彼女に渡していたのね。まさかとは思ったけど。本当にあなたがそんなことをするなんて」


 長門の身体に刺さった槍と、自らの両腕が結晶化していくのを他人事みたいに眺めながら朝倉は呟いた。カメラが頭上の一点のみになり、顔も上げられないので、俯いた彼女がどんな表情なのかはわからない。でも、多分お気に入りの洋菓子が売り切れだった女子高生くらいのショックしか受けていないんだろう。

 降り積もった雪は白い砂になって、俺の視界を埋めていく。目や口に入って来たりはしないし、呼吸も苦しくはならない。そこには、温度もない。


「あーあ、残念。しょせんわたしはバックアップだったかあ。芦川さんなら、膠着状態をどうにかしてくれると思ったのに」


 俺を見たのだろうか。頭上から影が降ってくる。もしかしたら、まだ俺を殺せるんじゃないだろうか、とそんなことを思うと身体が強張った。


「わたしの負け。よかったね、延命出来て。でも気を付けてね。統合思念体は相反する意識をいくつも持っているの。いつかまた、わたしみたいな急進派がくるかもしれない。それか、長門さんの操り主が意見を変えるかも。こんなことが何度も続くんじゃ、芦川ヒカリはきっと帰還まで肉体が保たないでしょうね」


 クラスの委員長みたいな口調で、朝倉は俺に釘を刺した。


「それまで芦川さんとお幸せに。涼宮さんと仲良く。じゃあね」


 最後まで余計なことを言って、朝倉は瞬きの後に消え去った。教室を去って行く時の、いつもの放課後の明るくて優しい声を残して。死の概念がわからないと言った時と、なにも変わらない薄く甘い香りを漂わせて。

 とすん、と軽い音がして、長門が倒れたのがわかる。もう特別なカメラは失われていて、音や元々持っている知識でそう判断する。俺は依然零れる鼻血と、急速に冷えていく身体、そして襲い来る眠気に瞼を閉じた。


「おい、長門、しっかりしろ」

「わたしはへいき。芦川ヒカリを」

「あ、ああ……」


 キョンが駆けてきて、俺を抱き起す。今更ながら、好きな人に見せていい状態じゃないな、俺。さんざん恰好つけてきたのに。

 教室の正常化が始まった。リアルタイムで目にするとかなりのスペクタクルだ。ちょうどよく現れた自分の鞄からミネラルウォーターとハンカチを取り出したキョンが、湿らせたそれで顔をそっと拭ってくれる。へー、キョンってハンカチ持ち歩いてるんだ。好きだ。この達成感も相まって言ってしまいたくなる。そういうとこ意外で好きだよ、なんて。


「あのさ……」

「いいって、しゃべるな。まったく無茶しやがって。朝倉も言ってただろ、こんなこと続けてたら命がいくつあっても足りないぞ。古泉、まだ通話は繋がっているな」

「ええ、もちろん。そちらは終わったようですね。報告になりますが、こちらも異常は解消されています。名残惜しいですが、もう一人のヒカリくんは唐突に姿を消してしまいました。最後に伝言を残して行かれましたよ。“シンデレラには友達がいた”とそれから“記憶は最も近くにいたものに残る”」

「お前が覚えておけよ。今のこいつに少しでもクイズを出せば、血みどろになりながら考え始めるぞ」

「……でしたね。タクシーを回します」


 正しい配列の椅子と机。いつもの一年五組の教室。いつもの、なんて言えるくらいに慣れてしまった、その教室が完璧に元通りになっている。唯一足りないのは朝倉の姿が明日からはないことくらいだろうか。

 いや、唯一じゃない。花瓶に飾られていた造花がなくなっている。


「花は? 花瓶に俺が、あげた……朝倉……」

「お前はな……人の話を一個くらいはまともに聞けよ」


 キョンが答える。長門は立ち上がり、俺をのぞき込むと不思議そうな目をしていた。


「花ってなに」

「ああ。朝倉に造花をあげたら、クラス前のあの花瓶に飾ってて」

「最初からこの空間情報に造花は組み込まれていなかった」


 今朝にはあったはずだ。その後だって、あったと思う。だとしたら、朝倉が抜き取ったんだろうか。なぜ?

 ことん、と音がして、俺の真横に何かが落ちる。


「なんだこれ、くまの人形?」

「……それも、朝倉にやったんだけどな」


 持っていくなら普通こっちだろ。そう思いつつ、新品のようにきれいなマスコットを見上げる。気に入らなかったんだろうか。長門がキョンの背中に手をやった。


「なんだ、長門。寄りかかったりして」

「あなたを通して芦川ヒカリの修復を行う。彼女の額に手を」

「なんで俺を通す」

「不要情報を取り除くため」

「……わからんが、わかった」

「俺の頭だけ終わったら、長門の再構築を優先してくれ」

「わかった」


 長門にゴミ出しをしてもらって、頭の中はもうすっかりよくなった。それでも疲労が全部消えるわけではないから、目を閉じて、彼のあたたかな体温を感じ続けた。もういいよって言えば手を離すんだろうけど、長門が治るまで、ほんの少しだけ。ちょっとだけご褒美をもらってもいいだろう。


「眼鏡の再構築を忘れた」


 すっかり元通りになった長門の顔をしげしげ見て、キョンが呟く。


「……してない方がかわいいと思うぞ。俺には眼鏡属性ないし」

「俺はあるんだけどな~」

「眼鏡属性ってなに」

「何でもない。忘れてくれ」

「そう」


 長門はこちらを見る。


「俺のも妄言だ」

「そう」


 残念だ。とはいえ、この後の長門は眼鏡を掛けていないのが規定だ。俺の趣味を押し通したってしょうがない。

 俺のシャツのボタンを二つほどあけて、濡れたハンカチでキョンは首を拭ってくれた。ちょっと恥ずかしい。ていうか、長門の再構成で血って消えるんだけど。


「あ、キョン」


 のんきに名前を呼んでいる場合じゃなかった。俺は規定の出来事を知っていたのだから、転がり落ちるでもなんでもして、さっさとこの状況から脱するべきだったのだ。


「ういーす」


 扉を足で開けながら、最悪のタイミングで最悪の男が教室に入ってきた。


「わわわ、わすれものー、俺のわすれものー」


 自作の最悪な歌を歌いながら、最悪の表情で固まっているのは最悪な谷口だった。


「すまん」


 聞いたこともないような真剣な顔と声だった。谷口から出力されるとはまさかって感じだ。ちょうど彼が見ている光景は、キョンが俺のシャツに手を突っ込んでいる状態。それを、なぜか長門がしげしげと眺めているという、わけのわからないトライアングルである。

 谷口もまさか教室でこんな珍しい組み合わせの三人が集まっているとは思いもしなかったのだろう。器用に百面相して、バグったゲームキャラみたいに扉に激突しながら叫んだ。


「ごゆっくりーーーーー!!!!!」


 あんな足の速い谷口初めて見た。


「面白い人」

「最っ悪だ……クソ、わかってたのに。あーもー」

「最悪はないだろ、最悪は」

「だってあの谷口だぜ。絶対言いふらすに決まってる。あいつ、急な喉風邪にでもかからねえかな」


 それになるのはだいぶ後の予定だが。当のキョンは全然困っている様子がない。相変わらず俺の頬だなんだをハンカチで拭いている。


「あー、言おうと思ったんだけど、長門の再構築が終われば血とか元通りになるから拭くのやんなくていい」

「そういうのは言ってもいいのか。というか、お前態度が悪くなったな」

「別に。だってもう鼻血出したりよだれ垂らしたり、黒歴史見られちゃったもん。恰好つけてもしょうがないだろ」

「恰好つけてたのか。俺相手に」

「あのな、別に谷口相手に格好つけたりしないぞ俺は。俺はここに来る前からSOS団のことを知っていたって言ったろ。格好つけたかったんだ、ハルヒやキョンには特に」

「……いや、恰好良かったぜ。お前がいなきゃ、長門がいなきゃ、今頃俺はお陀仏だ」

「そもそも俺がいなきゃ長門はもっと簡単に朝倉に勝てたんだよ。俺のせいで状況が複雑になったんだ」

「もうお前はいるんだから、いない時のことをどうこう言ってもしょうがないだろ」


 簡単に言ってくれるよ。まあ、そうなんだけどさ。こんな本気の戦闘に巻き込まれたんじゃ、今更だよな。朝倉が絶対しないって思ってた方法で、長門は俺を頼ってくれた。俺は、一応その信頼に応えられたから、今がある。


「じゃなくて、谷口のことだよ。あいつ黙らせなきゃ」

「いいんじゃないか。別に、今更お前らの仲間入りって言われても俺は困りゃしないぞ」


 意味がわかってて言ってるのかよ、それ。いいのか、お前も明日からBL要員に加えられて、晴れてトリオ結成なんて事態になってしまっても。グロすぎるなそれ。俺の精神が肉体より先に崩壊する。


「……ああ、目の前で信じられないことが起きた後だと些事に見えるっつーことね」

「いや、マジでな。とんでもないもんに立ち会っちまった」

「立ち会ったどころか、解決したのはキョンの尽力も大いにあるぞ」

「……どうすっかなー」

「任せて。情報操作は得意。朝倉涼子は転校したことにする」

「そっちかよ!」

「そっちかい!」


 わかっていたのについツッコんでしまった。

 キョンはああ言うが、俺の方は良くない。谷口に口止めしとかないと、いつハルヒの耳に今日のことが入るかわかったもんじゃないからな。絶対明日買収しよう。

 もうとっくに治っているのに動く気にならなくて、俺はしばらくキョンの膝枕で夕陽を眺めていた。もうちょっとタッチングってやつの効果を高めて、身体と心を癒しておこう。これ、セクハラになる?

 教室がオレンジ色に染まっていく。風もないのに、カーテンがしずかに揺れた。


 長門は相変わらずすたすたと先に帰ってしまい、俺はキョンの質問にいくつか答えていた。大抵は「禁則事項です」と返したけど「学生時代好きなやついた?」なんて質問には無言を貫いた。後にも先にも、お前以外にガチ恋したことなんてないっつーの。そんなことを本人に言えるわけがない。アニメキャラにしか恋してないってのもそれはそれで普通につらいし。

 坂を降りきったところで、タクシーが到着する。古泉が会釈をした。


「やあ、乗って行かれますか。あなたもお疲れでしょう」

「遠慮しておくよ。お前の長話に付き合ったら余計に疲れる」

「確かに」

「ひどいな。それでは、今日はあまり長々と話さないよう気を付けます」

「そうしてやれ。また明日な」

「また明日。今日はありがとう」

「こっちのセリフだ」


 キョンが去って行くのを見届けて、俺はタクシーに乗り込む。ふう、と息を吐いて背もたれに寄りかかった。


「お疲れ様です」

「そっちもな。てっきり今日の異常の件で会議だなんだと帰ってこないかと思ったが」

「そんなに僕に会いたかったんですか」

「……まあ、お前の顔見るとほっとするのはホントだな」

「なんだか素直ですね。少し照れます」


 古泉が苦笑する。なぜだか、長いこと聞いていなかったような気分になる。やっぱり、電話の声って全然違うな。電話と言えば「肯定は時に否定となりうる」「かぐや姫は注文が多い」「ハルヒの願いの強制力は俺を上回る」「言うべきじゃなかった」「俺はここにいる」などと幽霊の俺が話した言葉は未来予知なんだろうか? かぐや姫というワードがやたらに出てくるな。

 それに、“シンデレラには友達がいた”と“記憶は最も近くにいたものに残る”もあったか。記憶は一番近いやつに残る……それは、兄貴で実証済みだ。なぜそれをこうもプッシュしてくるんだろう。iPhoneに手をやると、ジャストタイミングで震えた。着信だ。


「電話ですか?」


 古泉が覗き込んでくる。知らない番号だった。


「そちらは……出るんですか? ヒカリくんって、怖いもの知らずですよね」

「怖いものしかねえよ。でも、一番怖いのは知らないことだ。少しでもなにか得られるなら、出るに限る……もしもし」


 す、と息を吸う音。


「もしもし?」


 鈴が転がるような、軽やかな声。甘くて少し掠れている、可愛らしい声。もう、聞くことはないだろうと思っていた、その声。


「再構築は済んだ?」

「朝倉……!」

「そんなに驚かないでよ。まるでおばけでも見たみたいに」

「おばけみたいなもんだろうが」

「あ、ひどい。別にわたし、死んだわけじゃないのよ。とはいえ、あなたのこれに残ったわずかな情報を使っているだけなんだけど」


 iPhoneにそんなことを勝手にするな。俺の生命線だぞ。


「なんの用だ?」

「そんなに怖い声出さないで。あなたに話しておきたいことがあったの。別に信じなくっても、切ったっていいわ。でも、聞いておいた方がいいと思うけど」


 怖い声なんて出したつもりはない。むしろ、怯えているのはこっちだ。あんな戦いの後でまだ俺にかけたい負荷でもあるのだろうか。でも、あいつだってそんな無駄な時間は使いたくないだろう。


「……話せよ」

「涼宮さんとあなたのことよ。あなた、一気に能力を行使しすぎたからかな。存在を保つための情報がすごく弱くなってる。多分、長門さんが補強したでしょうけど、涼宮ハルヒに否定されれば、一瞬で元の世界に弾かれるかもしれない」

「半分お前のせいじゃねえか」

「そうだけど? でも、この結果は本意じゃないかな。だって、観測できないところにあなたが飛ばされたんじゃ、わたしの行動に意味がないでしょ」


 さっぱりと言い切りやがる。


「お前の為だって言いたいのか」

「わたしっていうか、自律進化のため。涼宮ハルヒはあなたが思ってもいないような願いをきっといくつも叶えるわ。その中にはあなたにとって都合の悪いこともたくさんあるはずよ。でも、しょうがないわよね。無責任なことを勝手に願うのが人間だから」

「……ま、そうかもな」

「わたしとしてはあなたに消えられたら困るの。急進派はまだいるけど、とりあえずわたしはダメだったし。あなたたちを待つことにするわ」

「もう会えないの? お前とは……」

「どうしてそんなことを聞くの? あなたは“知ってる”んでしょう?」


 そうだ。俺は知ってる。だけど、聞きたくなる。人間は勝手だ。お前の言う通り。


「……なんで俺に助言する?」

「何度も言ったと思うけどあたし、本当にあなたのこと気に入ってたのよ」

「待って、」


 朝倉は「じゃあね」と言って唐突に終話した。多分「またね」だって言えたのに。明日の朝、いつも一番に俺を見つけてハルヒの愚痴を言ったり、面倒な圧を掛けてきたりする委員長はもういない。本当の、本当に、もう、いない。

 古泉が俺の掌を握る。心細い時にやってもらったというそれが、すこしだけ俺の心を軽くする。軽くなっていいとは思わない。でも、感傷的になる方が、わざわざあんなことを言って行った朝倉にも失礼な気がした。

 あいつは、潔く引き下がったわけじゃない。自分のやるべきことをやっただけ。勝手に託して行った自律進化の可能性とやらを模索するつもりは今のところはない。俺は、平穏無事にSOS団をやっていたいだけだからな。


「今日は出前でも取りましょうか?」

「好きなものなんでも作ってやるって言ったろ」

「……では、そうですね。親子丼がいいな」

「お前卵好きだよな」

「え? そんなこともご存じなんですか?」


 なんか、それも久しぶりに聞いた気がする。思わず微笑んだ。わざわざ簡単なものを命じた古泉のやつには特別にお吸い物も付けてやろう。

 俺は新川さんにスーパーに寄ってもらうように頼んだが、彼も相当疲れているんだろう、いつものスーパーを平然と通り過ぎてしまった。慌てて古泉が止めて、近くのコンビニで下車する。まだ降りてないのにドアを閉められそうになり、新川さんは平謝りだった。誰か、あの人を眠らせてやってくれ。

 でも、そうだよな。俺は六日目だが、機関や宇宙側や未来側は三年も前から色々と準備してきた。俺なんか今日一日で相当くたくたになったが、彼らはもっと大変な思いをしてきたんだろう。朝倉も、きっとそうだったんだろうし。


 その日、俺は古泉と二人で夕飯を食べた後は軽い雑談だけに留めた。あんまり頭を使わないように気を遣ったんだろう、何が起きたかも詳しくは聞かれなかった。

 寝落ちそうになりながらゆっくり湯舟に使って、アロマオイルでマッサージをしてからベッドに入る。念入りにリラックスの準備を整えて、瞼を閉じる。


 ──今日は何とかなって良かった。本当にそうか? 明日はキョンが朝比奈さんの未来人である証拠を打ち明けられる日だ。そして、朝倉が教室からいなくなる日。古泉がキョンを閉鎖空間にも招待するんだったな。うまくやれるといいけど。よし、今日の憂いはとりあえず、ないということにして眠ろう。それでいいのか? 

 もう疲れた。さすがに、後回しにさせてくれ。大丈夫なのか? マジで、限界なんだよ。この違和感を、放置していいのか? 都合のいいように解釈するのは、手一杯の人間によくあることだ。でも、それじゃダメだから、今までだって、なんども──、いや、こんなこと続けてたら本当に死ぬって朝倉も言ってたじゃないか、でも──、嗚咽がせりあがってきて、俺は電源コードを抜くように、無理やりスイッチを切った。


 ぐるぐると言葉が回る。

 いつかどこかの言葉が回る。


 ──……、──……、あんなこと、言うんじゃなかった。

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