芦川ヒカリの憂鬱Ⅲ 16


 上履きに几帳面な字で書かれた「長門」の名前を眺めることしかできないでいる俺を、瓦礫越しの朝倉が目を丸くして一瞥する。我がことながら「あの朝倉」が本当になにが起きたのか理解できなかったとは驚きだ。

 朝倉は優秀なヒューマノイド・インターフェースであるはずだ。人間とコンタクトをとるという面で言えば、長門よりも愛想よくこなしていたと思う。だからこそ最重要人物であるハルヒのいるこのクラスで、委員長なんて役職を任されて潜入していたに違いない。


 その彼女が、単純に俺の誘導能力に引っかかったとは考え難い。


 俺とキョンだけで逃げ回っている中、なぜいつになっても長門が仕掛けてこないのかという戸惑いが彼女にはあったはずだ。俺から既定の記憶を奪った朝倉からすると、例え劣勢でも何かするはずの長門がいつなにをしてくるのか把握できていないというプレッシャーを感じ続けていたんだと思う。

 その上、この土壇場でまさかキョンが重要な役割を担うなんていう不意を突かれたこと、そして死にかけで何もできないはずの俺が少年漫画よろしく、ぎりぎりの状況で能力の解釈を広げることに成功した奇跡。この三つが偶然にもうまく機能したおかげで、長門は今ここにいる。

 規定事項の情報を盗まれたのは、今となっては幸いだった。あの通りに攻めてくるという固定観念を植え付けられたこともだが、彼女が俺を侮ってくれなければ確実に負けていただろう。


「一つ一つのプログラムが甘い。情報封鎖も、芦川ヒカリの能力への認識も。だから彼女に破壊される。わたしの侵入を許す」

「邪魔する気? あなたが彼女を使ってこんな大胆なことをするなんて思わなかった」

「芦川ヒカリとは事前にすべての工程を確認した。その上で、彼女の提案でわたしはその記憶を封鎖した。あなたに手の内を全て明かし、これ以上はなにもできないと油断させるべき。芦川ヒカリがそう言った。わたしは情報処理を引き受けただけ。あなたは有機生命体の能力を過小評価した」


 長門の言葉に当てられて、金庫の鍵が開いたように唐突に記憶が戻ってくる。


 ──今朝のことだ。朝倉に情報を奪われて長門の元へ向かった俺は、長門と綿密な打ち合わせを行った。

 第一に長門と俺の間にパスを通し、朝倉の制御空間の解析、俺が使用する能力の負荷をすべて彼女に任せたいと頼んだ。

 第二に、予め空間を制御しやすくするためのソフトウェアを長門からもらっておいて、俺がそこに権限を通して、解析を終了した長門から送信してもらったデータを元にして空間を掌握、固定すること。

 第三に、その実行タイミングは俺がすべての能力を一度オフにした時に自動でなされるようプログラムしておいてもらうこと。ブラフとして、俺は長門の解析中に自分の力で空間固定を試み、権限のみ入手するに留める。

 第四に、朝倉が俺の行動を把握していると油断をさせるために、俺の取れる行動を彼女に筒抜けにすること。

 そして最後に、今の打ち合わせの記憶をすべて封鎖して、俺は何も知らなかったようにしてもらう。自力で足掻いているように見えなければ朝倉の油断を誘えないから。


 俺は長門に記憶を封印してもらう前に、事前に古泉に連絡を取り「これから自分は記憶を失う。もう一度電話をかけると思うが自然に対応してくれ」と頼んだ。それから長門にも俺になにか聞かれても答えないように、はぐらかすようにと口を酸っぱくして言った。突破口にするため、iPhoneからかけられる携帯電話を長門の手元に用意してもらうことも、ついでに。

 この提案に対し、一度記憶を盗まれている状態で短期間に連続で記憶を弄ることは、脳に多大なストレスがかかると忠告された。また、この作戦中にiPhoneが壊れれば、状況的に長門にサポートはできず、本当に元の世界の記憶を失う可能性があるとも言われた。さらに、それどころか長門から情報を送り返された時、その情報量に脳が耐えられず現在の記憶を失ったり、今後会話すら困難になる可能性も指摘された。

 それでも、長門も確率的にはこれが一番高いと言った。俺は了承した。きっと、長門は間に合ってくれるだろうと思っていたから。


 朝倉のナイフには、もう光の粒子は灯っていなかった。既にこの空間の制御は彼女よりも俺の権限が上だ。彼女に俺の能力を流用する権利はない。

 しかし、それだけだ。朝倉は俺の能力なんて使わなくても元から人間とはスペックが違う。彼女から空間の制御権を剥奪するまでのことは、俺にはできない。そんな余力があるはずもないし、なんなら今すぐにでも意識が飛びそうで、視界に靄がかかり始めている。

 ナイフの刃を握った長門の血液が俺の顔に滴る。他人の血を浴びるなんて初めてだ。朝倉は力を込めて得物を取り戻そうと引っ張っており、そのぎざ刃が長門の柔らかい掌を抉っていく。対する長門は決してその手を離さない。

 こんなに血が流れているんだからきっと痛いんだろうな。痛みの概念が彼女たちにあるかはわからないけど、見ているだけで痛い。それでも、怪我をしている彼女も、させている朝倉も平然とした顔をしていた。

 非日常なこの光景にあって、欠伸が止まらない俺も相当だ。多分酸欠と疲労の結果なのだろうけど、どうも緊張感がなくなる。


「芦川ヒカリがダメなら、彼でもいいけど?」

「あなたは私のバックアップのはず。独断専行は許可されていない。わたしに従うべき」

「いやだと言ったら? この空間の情報制御はまだわたしに許されている。彼女、もうなにもできないでしょ」

「情報結合の解除を申請する」


 長門の言葉一つで、ナイフは塵になってさらさらと俺の顔に零れてくる。朝倉は虚を突かれたように得物を手離し、鮮やかな宙返りと共に飛び退く。これ、この粒子みたいの、俺に降り注いでるけど害ってないよな? いかん、集中力が途切れてきている。


「朝倉涼子の意識誘導を、わたしに」


 くだらないことを考えていた罰だろうか。長門は指示と同時に俺の胸ポケットにiPhone滑り込ませたかと思うと、ベルトを掴んではるか後方へぶん投げた。ちょうど人心地ついて机の山から下りたキョンに突っ込む形で、二人まとめて倒れ込む。

 教室は辛うじて部屋の体裁を保っているものの、明らかに空間が拡大していた。多分、長門から距離を取るために朝倉が広げたんだろう。これはこのままの方が俺たちにとっても優位だ。固定しておこう。


「朝倉涼子を敵性判定。当該対象の有機情報連結を解除する」

「あなたの機能停止のほうが早いわ。それとも、」


 朝倉はこちらを見る。


「彼女の機能停止かしら?」


 長門に頼まれた通り、朝倉に誘導をかけて長門を狙う様に仕向ける。なんか非道っぽいが、最適解はこれだ。

 朝倉の指摘に、今更になって頭が割れそうだったのだと脳が気づき始めた。まったく、気づかなくてもいいことばかり気づくから嫌になる。

 頭蓋骨を直接叩かれているような激しい痛みと三半規管の狂いで平衡感覚が失われていく。けれど、俺の手は頭を押さえるような動きすらできない。消耗が限界を超えている。身体が鉛のように重いというのはこういうことを言うのだろう。勉強になった。

 神経が繋がっていないみたいに、手足を別の無機物に挿げ替えられたように、まるで自分のものじゃないみたいに全身が動かない。


「芦川!?」


 下敷きになっていたキョンが、俺の顔を見て声を裏返らせる。長門の血を浴びているからか……いや、さっきから鼻血が止まらないからかな。必死になってシャツの袖で拭いてくれているところ悪いが、頭を揺らされると吐きそうだ。そう伝えたいけど、自己主張するだけの余力はない。

 力なく垂れ下がった手が床に触れると、じわじわと温かくなってくる。やがてそこが痺れるような熱を持ち始めた。感電しているような、火傷するようなほどの熱さは拷問のようだ。

 さっきまでは何かが抜け落ちていくようで寒気がしていたのに、今度は逆に流れ込んでくるものが熱くて、血液の代わりに溶けた鉄が身体中を巡っているみたいだった。その鉄は棘を帯びていて、内側から俺の皮膚を突き刺して回っている。

 それでもどうしてか床に触れていないといけない気がして、身体が反射的に離そうとする手を必死に床にくっつけている。抱き起そうとするキョンに表情だけでやめてくれと頼んでみる。


「なんだ、声がでないのか? どうすればいい?」


 俺は目線を床に向ける。こんなので伝わるかはわからない。彼には不安そうな顔ばかりさせてしまう。大丈夫だと、そう言えたらいいのに。


「……床が冷たくて気持ちいいのか?」


 キョンはそっと俺を床に寝かせてくれた。真逆の意味だが結果オーライだ。でかいフライパンに入れられて炒められているように体中が熱いが、なんとなくこうしていた方が“早い”気がする。中腰の彼が、いつでも俺を抱えて逃げてやろうという目をしているのが頼もしい。

 手持無沙汰なのか、キョンが俺の片手を握って何度も力を籠める。重傷者みたいだな、と俺は笑いたくなった。身体中の焼け焦げるような痛みが、彼が触れているところだけ妙に鈍い。彼がいなかったら、俺は今日だけで何回死んでいたんだろう。


「……ありがとう」

「おい、こんな時に礼を言うやつがあるか。そういうのは無事に帰って後日ゆっくり聞くから……、」


 彼の言葉が途切れ、乾いた笑いになる。そりゃ、一か月過ごした教室が幾何学模様のスライドショーみたいになっていたらそういう反応にもなるだろう。

 内視鏡画像にだまし絵と蓮コラを乗算で重ねたみたいなブラクラ映像が周囲をめまぐるしく変動している様は、風邪を引いた時に見る悪夢より酷い出来だ。

 例えるなら、ゆめにっきとムーンライトシンドロームと東脳を三窓プレイしているみたいなわけのわからない情報過多。好きな人は好きな光景だろうね。俺も嫌いじゃないは今は眩暈がしてきた。

 そのイカれた空間をこよりのように捩じって作った槍が、俺たちの前方にいる長門に向かって絶え間なく放たれている。それらは長門に触れる前に分解され、光の砂になって弾け飛ぶ。衝撃破じみた風圧は長門のカーディガンを肩まで捲りあげ、キョンは顔の前に腕を出してなんとか堪えている程だった。防戦一方の長門に、朝倉は好き放題に槍を捻出しては投げつける。

 壁に風穴が開くと、広大な夜空から星が真横に降る。床が叩き壊されて、水面が露になり雨が噴きあがる。黒板が真っ二つになり、異様な虹彩を映したそれが回転扉みたいに迫って来る。長門が展開した不可視の防護壁に阻まれ、それらは俺たちまで到達しない。

 彼女は一歩も動かず、止むことのない強襲を一つも漏らさず迎え撃っていた。


「あっ……? あっつ! お前……熱あるんじゃないか?」


 キョンが俺の額に触れる。もう、床には“目ぼしい情報はない”みたいだった。まだ人肌みたいなぬるい温度は感じるのに、これ以上吸い上げることはできない。でもそれでいい気がした。これはこのまま残しておくべきなんだ、多分。俺はなにも不思議に思わず、そのまま空間に微熱を維持させる。

 身体は残りのエネルギーを全部を取り込んだように熱がこもって暴れている。感覚的に39度以上はありそうだ。人間って何度になるとやばいんだっけ?


「芦川、このままじゃ脱水になるぞ。くそ、鞄も全部どこかに行っちまってるしな……何か水分でも、……?」


 彼の言葉に呼応するように、机の山から羊羹が転がってくる。こんな偶然があるだろうか。あるわけがない。というか、どうしてこれは朝倉の制御空間で形を変えなかった? もしかして、変えられなかったのか? 俺の世界にあったものだからだろうか。それとも異世界トンネルみたいのを通り抜けたからか。

 キョンは悩みながらもそれを拾い、封を切った。おいおい、嘘だろ。そんなもん今食ったら口の中の水分全部持ってかれるって。それに、それって食べるとお腹壊すんじゃなかったっけ?


「これって、お前の世界のものなんだよな。長門は食えるんだったか。お前もいつか食えるかもしれない……みたいなことを言われてなかったか?」


 俺のお株を奪う様に記憶を披露する彼に、俺はその続きを待つことにした。脳の消耗を少しでも抑えよう。


「よくわからんが、今お前は長門の不思議なパワーが加わってるんだよな? 今なら食えるんじゃないか? 疲れた時は甘いものがいいと言うだろ」


 と、言われても咀嚼できるかな、今の俺に。確かに脳がこんだけ疲労状態なんだ。糖分はありがたいが。


「……緊急事態だ。悪く思うなよ。お前、自分で噛めなさそうだからな」


 まさか、と思うより先にキョンが俺を抱き起こして背中に腕を回す。そのまま顎を固定され、少し上を向かされた。


「ま、」


 静止も聞いちゃくれない。彼は目を瞑って身体中を強張らせた俺を他所に、あろうことか羊羹の包装を握りつぶしやがった。勢いよく喉に突っ込んできたぐちゃぐちゃのそれに意表を突かれながらも、閉じきった喉を無理遣り開いて何とか飲み込む。

 なにをされるのかと思ったが、ある意味想像より酷い目に遭った。


「……げほ、お、鬼」

「悪かったよ。でも、断っただろ」


 急速に上がる血糖値に眩暈を覚えながらも、脳は消化よりも先に喜び勇んで回転し始める。これ、結果的に良かったのかもしれない。


 原作の長門はこの空間に入る前に崩壊因子とやらを仕込んでいた。攻勢情報を使い果たした長門は、防戦一方だったが間一髪のところで朝倉に勝つことが出来る、というのが本来のシナリオだ。

 はたして、この場合はどうなんだろうか。長門はほとんど俺の補助に回っていたはずだ。空間に崩壊因子を割り込ませている暇があったのだろうか。さっきはこの空間を破るのに長門に電話をかけた。俺は、このままここで見ているだけでいいのか? 本当に長門はそれでいいのだろうか。ちら、と長門が俺を振り向く。

 彼女の打ち漏らした一発──、基、俺が誘導ミスした槍がキョンの頭めがけて飛んで来た。一点集中。済んでのところで俺はそれを空中に縫い留める。鋭利に切られた鉄パイプの先が、キョンの額の手前で急静止して、地面に硬質な音を響かせながら落ちる。

 やばい、また鼻血がひどく、やばい、耳鳴りが止まらない。羊羹なしじゃ、今の一撃は危なかったかもしれない。


「……っ、し、死ぬところ、……芦川……?」


 半開きの口のまま俺は液体の羊羹を啜る。今一度脳みそに動いてくれ、と頼み込んだがどうだろう。いけそうか?

 長門が迎撃に手こずっているということは、やはりまだなにか一手足りないんだ。それはわかる。じりじりと彼女が下がってきた。その身体にひとつ、またひとつと傷口を増やしながら。

 キョンが悲鳴のような声で、彼女を呼んだ。


「長門!」

「あなたは動かなくていい。へいき」

「その二人を守りながら、いつまで持つかしら? 空間の侵入に構成情報を使い果たしているみたいだけど?」


 その身体は既に数本の槍に貫かれ、血まみれになっていた。彼女の血液が血だまりになって、傾斜もないのにこちらにどんどん流れてくる。長門はなぜか片手で朝倉と対峙しており、半身を引いてもう片手を後ろに下げている。

 腕が折れたのか? 片手で俺たちを庇っている? いや、なぜ彼女は掌をこちらに向けている? なにか意味があるんじゃないか?


「SELECT シリアルコード,パーソナルネーム FROM データベース.有機生命体 WHERE データベース,コードデータ=有機生命体,コードデータ AND 情報操作=“パラレルモード” OREDER BY パーソナルネーム。パーソナルネーム芦川ヒカリを重複次元存在と認定。当該対象の情報操作を開始、および廃棄情報の一時的結合を開始」


 早口で長門が呪文を唱える。心臓が、火に巻かれるように熱くなっていく。

 キョンが俺の背を支えて息を呑んだ。そして、深呼吸を一つ。


「……なあ、俺にもなにかできることはないのか? 今のところ、無傷なのは俺だけなんだが」


 多分、長門の差し出した手になにかする必要がある。それを彼女は気づかせたいんだろう。そして、強化されている朝倉相手ではそんな暇がない。というか、口で言えないのか? 原作より追いつめられているから? 俺が考え事を朝倉に開示しているからかもしれない。長門が誘導を俺に指示したのは、こちらに意識を向けた分、朝倉が俺を解析してしまう恐れがあるからか。

 突破口になるのは、俺と、そしてキョン。はたしてそうか? もっと、もう一手……。いや、二手でも、三手でも……! 捻りだせるだけの提案を並列化しろ。朝比奈さんは介入できないかもしれないな。古泉は? 閉鎖空間内だろう。ハルヒがいれば心強いが、あいつは体調不良で帰宅中。でも、本当に手を借りられないのか?


 でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば。

 そうすりゃ、世界が変わる。


 ──考えろ。考えろ、マクガイバー、だ。


 俺がすべての能力を切った時に長門のプログラムは自動で起動するようになっていた。なら、タイミング的に俺から出て行って空間に広がって行った網みたいなあれがそのプログラムだったはずだ。つまり、今戻ってきたこの熱いものが、長門のプログラムである可能性が高い。

 長門は俺の額に触れることで情報を廃棄していた。ならば、長門に触れることでそれを返す? いや、なんだか違う気がする。それなら、今一歩長門が後退してくればいいだけの話だ。彼女はそれをしていない。彼女に渡す前に、なにかすべきなんだ。

 ああ見えて長門の肉体的損傷は回復に時間を要するものではない。ただ、後回しにしているだけだ。指示を出そうと思えば簡単に俺に指示を出せる。それをしないのは何故だ? その行動は一瞬で決しなければならないもので、指示を出している間に朝倉に邪魔をされては意味がないからだ。


 原作で長門が用意していた切り札は崩壊因子──。


 崩壊。崩壊因子。空間を切り裂く時に使用するもの。外からの侵入では壁を壊したりできるが、今この空間では果てが見えない。どこを引っ張って切り崩すかがわからない。壁も、天井も……。床は? 床はあるな。崩すなら、足元だ。

 空間と空間を繋げるのがiPhone。古泉は、別の空間に入るのに使用するかもしれないと言った。実際これが手助けになり、長門と電話することで一度目の機器は脱した。古泉様様だ。古泉──、そういえば古泉は今どこにいる? 閉鎖空間だ。閉鎖空間はハルヒの許した、俺に許された、異空間──。

 俺の手は動かない。身体も動かない。出来るのは喋ることと、能力を使うことだけ。


「……キョン、近未来ガジェットに古泉の番号を打ち込んでくれ。番号は俺の携帯にある。それから、もしも電話が繋がったらそのまま君が長門にこれを渡すんだ。繋がらなかった場合は、掛け続けながら。どんなことがあっても、落とすな」


 キョンが俺の胸ポケットからiPhoneを取り出すと、嘘みたいに身体の熱が引いていく。

 さすがに二回目なのでわかった。プログラムが移動したんだ。長門の作った対朝倉制御空間解析用プログラムだって保存できる。そう、iPhoneならね。


「めちゃくちゃ熱いけど頼んだ」

「なんだか知らんが、任された。好きにやれ……っ、つう!?」


 キョンは頷いて、一瞬びくついたもののしっかりと手から離さずiPhoneに古泉の番号を入力する。こんなこと願いたくないが、どうか神人に手こずっていてくれよ、機関の超能力者諸君。離れていたってハルヒの力を借りることはできるはずだ。

 俺もキョンも、朝倉にとってはハルヒの鍵となる重要人物。逆に言えば、ハルヒは俺たちに死んで欲しくないと思っている。間違いなく。彼女が願って、俺が願えば、ただの願望はたちまち現実になる。ハルヒの精神世界と繋げることで俺は能力をこの状況よりも幾分使用しやすくなる。そうやって生存確率をあげつつ、負荷を減らす。俺の負荷が減れば自然と長門も動きやすくなるだろう。

 そして、この場所と閉鎖空間を繋ぐってことは空間を突き破って向こう側に情報が出る道を作るということになる。その「異世界破り」の情報を乗せたまま、長門に記録装置と化したiPhoneを渡す。

 俺は古泉に電話をかけた。コールは一つ。すぐに「つながった」。長門の時といい、この世界に存在しないはずの機械だが、元の世界には繋がらなくてもこの世界の人間には繋がるみたいだ。キョンと俺は互いの顔をiPhoneに近づけて、古泉の返事を待つ。


「……もしもし」


 場にそぐわない、爽やかな声。


「……古泉か」

「ああ、キョンくんでしたか。ヒカリくんと一緒ではありませんか? ちょっと、相談したいことが」

「相談だ? そんなもんこっちがしたい」

「いえね、ちょっと懸案事項を抱えていまして。多分、“倒したのに割れない”と言ってもらえればわかると思います」

「そうか。それは俺としてはありがたい」

「……なるほど。ではもう一つの方を。現在、僕の目の前にはあなたがいるんですよ。っと、待ってください。ヒカリくん、さっきもお伝えした通り勝手にどこかへ行かれては困ります……」


 向こう側から録音したような自分の声が聞こえる。「肯定は時に否定となりうる」「かぐや姫は注文が多い」「ハルヒの願いの強制力は俺を上回る」「言うべきじゃなかった」「俺はここにいる」……なんだ? なにが起きている? 俺が二人いる?


「芦川が二人いる……?」

「ええ、いるはずではないのに、ここにいる。なにかお気づきになりませんか?」


 長門は朝倉の生み出した一際太い槍を弾き飛ばす。余波で飛びそうになる俺とiPhoneを、キョンが必死に抱え込んだ。くそ、さっさと長門に戻したいのに、何が起きているんだ? 分裂には早すぎるぞ。


「すごい音ですね。そちらは大丈夫ですか……なんて聞くのも憚られますが」

「気づき、閃き。当然のようなことでも、当人は意外とわからない。好意の向かう先が誰かも。俺は謂わば現象であり、装置に過ぎない」


 その言葉に、俺はピンときた。市内探索の日。川沿いのフェンスによりかかっていた、兄貴の形をしたナニカ。


「幽霊……俺の廃棄情報……待てよ、廃棄……」


 長門がさっき、早送りみたいに言っていた呪文だ。たしか「パーソナルネーム芦川ヒカリを重複次元存在と認定。当該対象の情報操作を開始、および廃棄情報の一時的結合を開始」……あの時点では古泉にまだ電話をかけていない。なら、何と繋がった? 俺が何をした後だった?

 ──、羊羹を、食べた。元の世界の分解できない情報。それを取り込んだことによって、もしくはiPhoneにでかいプログラムを入れたことによって、俺の記憶が外に出た。それを長門は結合した。消えないように。長門は異空間を越えられない。なら、俺が自分で“逃がした”のか? 危機回避ってやつだろうか。

 自動で起動した能力でも、さきほどまでの激痛は感じない。ハルヒのおかげだろうか。


「古泉、その俺がどっかに行くと俺の記憶がかなり駄目になる。そこから絶対逃がさないようにしてくれ。羽交い絞めにしてもいい。あー、でも情報は引き出さないで」

「……難しい注文ですが、やってみましょう。それでは」

「待て、古泉。切るな。そのままだ。なんだかわからんが、芦川はお前と電話を繋いでいる状態の方がいいらしい」

「了解しました。ヒカリくんのことは頼みましたよ」

「俺に頼まれてもよ……!」


 電話をつないだまま、震える手でキョンはiPhoneを握りしめている。きっとすぐに離してしまいたいくらいに熱いのに、耐えながら長門にバトンを渡した。


「そのまま。空間解析情報の再インストールを実行」


 長門が呟く。キョンは呻きながら、長門とiPhone越しに握手し続けるが、片手で頭を押さえ始めた。


「……ぐ、な、なんだ……頭が痛ぇ……!」

「情報の一部が芦川ヒカリを通じてあなたに流れ込んだ。修復しつつインストールする」


 事も無げに言うが、その間にも長門はどんどん身体に風穴を開けていく。

 頭が、動く。足も、動く。今、手が空いているのは俺だ。

 この空間は既に存在する情報を使用することを許容している。結合を解除するための命令、ってどうやって書き込めばいいんだ? 地面に手を置く。──破る、この膜を破る。力を伝える。誘導して、壁も天井もない。それなら、足元を。


「攻勢情報の再インストールを実行」


 新たな槍に突き刺されながら、長門が振り向く。ようやく手を離せたキョンや、長門の手の中にあるiPhoneを守るためには、彼女が一歩も動けないことに変わりはない。俺は長門に向かっていく無数の剃刀の刃を方向転換させ、朝倉に一つを除いてすべて撃ち返す。たった一欠片だけ、俺の手元に誘導しておく。

 朝倉は柔和に微笑んだまま、スキップするように軽やかに全弾回避した。


「無理よ。それだけダメージを受けたら、例え崩壊因子をもう一度手にしたとしても、空間に行きわたらせることはできな、」

「崩壊因子の再起動を実行」

「そう、侵入用ってだけじゃなかったのね」


 長門が空中に飛び上がりながら朝倉の背後に回る。これで、朝倉は俺たちを攻撃しようとこちらに意識を向けると、視界の外に出てしまう長門に警戒しなければならない。長門はようやく朝倉の攻撃を分解し始め、膠着状態にまで戻ることができた。


「返す」

「おわっ」


 長門が投げたiPhoneを、朝倉の生み出すピアノ線のような細い攻撃からすり抜けさせ、キョンの手元まで誘導する。


「もしかして、あなたが拡大を停止しているんですか? 神人を倒した後もわずかに広がっていたはずなんですが」

「俺は情報が形を取っているにすぎない。実行しているのは“あいつ”の方だ」

「なるほど。となると、もしかするとこれは悪手だったのかもしれませんよ」


 古泉とは通話が繋がったままだ。素っ気ない方の俺と、なんとか会話を繋いでくれているらしい。

 大事そうにiPhoneを両手で持ったキョンが、俺の顔を覗き込みながら聞かせてくれている。


 俺は掌の中の刃を見ながら、考えていた。

 閉鎖空間は通常半径五キロ圏内。この空間もそうだとして、俺はその中では神のごとく振舞える。神人の注意を誘導しながら、空間の拡大を停止、維持、固定することができる。今思えば、古泉の名前を呼んだ時に咄嗟にあいつが動いたのも、誘導能力だったのかもしれない。

 俺は今、閉鎖空間と繋がっている。それどころか、多分元の世界も近いままだ。今日はまだ満月の日だ。人間は満月にはパフォーマンスが落ちると言うが、俺はどうなんだろうね。この後は長門がなんとかするだけの筈だが、情報を取り戻したとは思えない程、朝倉の言う様にダメージを負い過ぎな気もする。

 朝倉が首だけでこちらを振り向いた。俺が結合解除とかいうのをしたら困ると思ったんだろう。残念ながら俺はそのやり方を知らない。破るっていうのも、千切るというのしかできない。長門も詳しく教えないってことは、多分俺がやる必要はないことなんだ。本当にそうか?


 ていうか、ごめん、もう無理かも。


 俺は朝倉に動きを封じられ、背筋をぴんと伸ばしたまま頭から床に倒れ込んだ。後頭部を強かに打ち付けて、くぐもった呻き声が出る。キョンに降り注ぐ瓦礫を誘導で横っ飛びにスライドさせて、いつの間にか現れていた花畑に向けて移動させる。その轟音と爆風に紛れて宙に“浮いてしまった”剃刀の刃を移動させたが、朝倉はこれを避けもせずに粉砕した。

 閉鎖空間に繋いだのはいいが、問題が生じてしまった。どうやら、俺は向こうの方も勝手に制御していたらしい。道理でパフォーマンスが改善しないわけだ。また鼻血がでてきた。キョンがなにか言っているが、よくわからない。

 床の熱にかけていた維持を解くと同時に、空間の固定を放棄する。これで崩壊因子が行きわたったままの状態で長門に権限は移り変わったはずだ。ていうかどっちにしろもうなにもできない。


「空間に崩壊因子を仕込んでいたのね。どうりで弱すぎると思った。でも、長門さんが機能停止した後なら、あの二人を消すくらい普通の教室でも問題ないわ。とどめね」


 キョンが、俺を庇う様に前に出る。朝倉が両腕をうねらせて変形させているうちに、長門は飛び上がり、俺たちの前に戻ってくる。彼女が身体から引き抜いた槍は、たちまちのうちに机へと姿を戻した。なにか、おれになにか、できること、は、


「ないわ。死になさい」


 心の声に朝倉が答える。

 血だまりにふらふらと立ち尽くす長門が、朝倉の伸び切った触手のような両腕に左右から貫かれる。眼鏡が落ち、血液に濡れる。さらに、二本。もう二本、際限なく繰り返される拷問に、長門の頭が俯く。

 なにか、おれに、


「なが、と……?」


 返事はない。力なく垂れ下がった長門の掌が、見える。ぴくりと小指が動いているからまだ死んではいない。でも──。


 いつもならすぐに「へいき」と答える長門が、無言で血液を滴らせる光景。

 それは、俺に絶望的な結末を想起させた。

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