芦川ヒカリの憂鬱Ⅳ 2


「…………はあ?」


 なにを言われるものかと身構えていた俺の緊張が一気に決壊する。

 我ながら余程恐ろしかったのだろう、両手は震えて、握り込んだ拳の中で爪が食い込んでいた。溜息を全部吐きだし終わると、肩が落ちる。こいつが梯子を外すのはいつものことだけど、天然も度が過ぎている。もったいぶるのも話が長いのも結構だが、はぐらかすくらいなら最初から話し始めるな。

 早鐘を打つ鼓動をなんとか抑え込み、一筋垂れた汗を拭う。良かったじゃないか。聞かないで済んで。このまま、得体の知れない不定形の不安を漂わせておけばいい。これでいいんだ。理解しないでいい。


「おや、大丈夫ですか?」


 まるで“キョンに話しかけるような”胡散臭い笑顔を張り付けて、古泉が覗き込んでくる。まったく気色が悪い。違和感が俺の足元を掴む。知らないままでいることを、咎めるみたいに。


「……お前、いくらとぼけるにしたって忘れたはないだろ。なにか途中で言えないことに気づいたのか? だとしてももっとうまく誤魔化せよ」

「いえ、本当に思い出せないんです」


 柔和な表情のまま、眉だけ下げて困って見せる。そして、また眉を寄せてなにか悩むように首を傾げた古泉から、俺は目を逸らす。不都合な真実を、どうしてわざわざ暴かないといけないんだろう。なんで人に冷たくされたり、嫌われたり、しないといけないんだろうか。

 どうしてもそんなことをハルヒが望んだとは考えたくない。というか、あり得ない。ハルヒは欲望に素直だ。それで迷惑もかける。でも、喧嘩した相手をここまでこき下ろすような女の子じゃない。それなら、いつも通り悪いのは俺なんだよ。なんで俺って、ただそこにいるだけでこんなに、悪いの?


 ──人間関係が、煩わしくなることがあった。

 異世界転生なんてものが流行るのはその典型で、最初から努力を省いて強くなりたいだなんて夢の他に、誰も自分を知らないところで一からやり直してみたいという願望が含まれると俺は思っている。特別な人間になって、今までの自分を知らない人たちに囲まれて、仲良くやっていきたい。それは過去からの逃避で、自身の生きて来た時間そのものの否定だ。

 異世界なんかに行かなくても、ハルヒの言う通りどこか森にでも引っ越せばいい。でも、俺には動物とうまくやっていく自信なんてないから、そんなことをすれば敵もいなくなるけど、味方も一緒に失ってしまうとわかっている。ガラスの靴があったとしても、いつどこで落としたかはわからないし、俺を追いかけてくれる人もいない。

 現状維持で、動かないままじっとしているのが関の山だった。自分を守ってくれる人たちのところに帰りたいのか、馴染みのある世界に帰りたいのか、違いはわからない。今度やり直せるなら、俺が人を助ける側に回りたいと思った。積極的に交流して仲間を作りたいと思った。俺を認めて許してくれる友達じゃなくて、俺もそうできるような、仲間が。

 そういう時って、どうすればいいんだろう。俺って、今までどうやって人と友達になってきたんだろう。兄貴の知り合い、友達の友達、元々あるコミュニティに入れてもらっているような、場違い感を払拭したかった。

 でも、それもどうやらおしまいみたいだ。直前まで話していたことを、古泉一樹というやつが、思い出せないわけがない。だから俺は真相に切り込んでいかなくてはいけない。でも、できないでそのままにしてしまう。今までの人生を圧縮して、適当なファイル名にして目を逸らすみたいに。


「はあ……いや、いいよ。理由があるんだろ。つうか、お前相当調子悪いんじゃないか? 俺を気遣ってくれるのはありがたいけど、まず自分をどうにかしたら? 仮眠でもとった方がいい。あと、急ぎじゃないなら場所変えようぜ。今部室は立て込んでるかもしれない」

「すみません……よろしければ少しだけ待ってもらえませんか? なにか重要な話をしようと思っていたんですよ」

「だから、それが思い出せない時点でヤバイだろ。さっきの閉鎖空間のことを絞られたなら俺が代わりに機関に謝るよ。俺みたいにストレスで脳に負荷でもかかってるんじゃないか。ハルヒを怒らせてしまったのは俺だ。しかも、それでなにか問題が起きてる可能性がある。いや、うまく説明できないけど違和感は昨日の新川さんの時から、」

「すみません、今なんて仰いました? あなたが……機関に……?」


 古泉はSiriみたいに同じ謝罪を繰り返しながら、口元に手を当てる。俺の考えを探ろうとするような、そう、まるで初めて中庭で会った時のような警戒心のある顔をしていた。じわじわと予感が忍び寄る。俺はそれを認めたくなくて、会話をスライドさせている。

 多分、あと二手か三手でチェックメイトだ。こいつは頭が良くて、会話を先読み出来て、大抵のことがわかってしまうやつだと、“俺の方は知っている”から。


「……どうにもおかしいな。今、僕はなにかを忘れたことを覚えているんです。これって少し奇妙なんですよ」

「おかしいもんか。ド忘れしたことをなんだったかなって思うのは普通だよ。俺もよくある。そんなに驚くようなことじゃない」


 ──嫌な、予感がする。


「率直に感じたことを言ってもいいですか? あなたの反応を見て確信したいんですが……もしかすると、あなたは傷つくかもしれません」

「……やめろって言っても言うんだろ」

「そうですね。あなたの知る僕がそういう人物であるなら、認識をすり合わせる必要がありそうです」


 あーあ。俺は瞼を閉じた。


「……言えば」

「ヒカリくんは機関のことをご存じなんですか?」


 ひゅ、と喉が勝手に息を吸い込む。頭の中の悩み事が全部ぐにゃりと曲がってしまって、怒りたいのか泣きたいのかわからないままに「はは」と口から笑った声が出た。歯の根が合わない。全身の血が下がっていくような感覚に寒気がする。

 なんか、どっと疲れたな。もう、昨日より疲れたよ。力が抜ける。ここで座り込んじゃおうかな。それか耳を塞いで大声を出しながら、話すのをやめちゃおうかな。そうやって駄々を捏ねている内に誰かが全部解決してくれないだろうか。


「……なに、言ってんだよ。全然笑えねえんだけど」


 言いながら、俺は半笑いで立ち尽くしている。一歩も動けないままで。

 今すぐに古泉に詰め寄って発言の意図を問いただしたいのに、これ以上何も聞きたくない気持ちもある。逃げ出したい。もうなにも考えたくない。逃げるって、どこに? この想像が正しければ、俺は今日どこに帰っていいのかもわからない。全部の辻褄があってしまう。そんなのは嫌だ。


「……やはり、そうでしたか。あなたは知っているんですね。それに、先ほどの口ぶりから機関に協力をしていることがわかる。もしかして、あなたもSOS団の団員なんじゃないですか。そうだな、異世界人……とか。僕とあなたはそれなりに親しい間柄にいますよね。なんとなく、昔から知っているような気はするのですが」

「なんでそんなこと聞いてくんの? まるで……まるでさ、この七日間がなかったみたいじゃないか」

「そうか……そうだったんですね」


 待ってくれ。言わないでくれ。それを聞いたら、俺はダメになるかもしれない。俺は今きっと、人生で一番情け無い顔をしているのに、古泉は容赦なく口を開いた。

 知っている。こいつは他所者には冷たいやつなんだ。


「違和感の正体が掴めました。僕は、あなたを忘れているんです」


 ああ、やっぱり、と。わかっていても衝撃は確かにあって、それは無音のまま俺の頭や胸を撃ちぬいて、大事なものを粉々に砕いていった。最初からやり直しになったんだろうか。朝倉がいなくなったように、俺も。

 もう一度、最初に戻る? それを、俺はもしかして望んだことがあったんじゃないか? だから、こんなことになっているのだろうか。小さな願いも、不都合な願いも過不足なく叶えるのが神様なのだとしたら、そんなことも起きるのかもしれない。朝倉の警告通りに。本当に?

 俺は息を吸う。泣くなよ、と自分に言い聞かせる。


「……ほん、ほんとデリカシーのないやつだな。見ればわかるだろ、ショック受けてるんだよ、今……お前、お前さ……ちょっと黙れよ」


 なあ、俺がこんだけ必死なのも珍しいだろ。たまには自分自身に言い聞かされてくれよ。こんなに声が震えて、いい年した大人が泣くかもしれないなんて、そんなの困る。忘れているんです、じゃないだろ。なんだよ、忘れてるって。意味わかんないよ。

 朝倉の言っていた「存在を保つための情報がすごく弱くなってる」ってこのこと? なんだ、そうかよ。そりゃみんな冷たいわけだよ。この七日間のことがなければ、俺は転校生してきて誰とも交流してない人間になるんだもんな。谷口だって急に飯に誘われて困惑するのが当然だ。ハルヒだって団員でもないやつが話しかけてくれば無視もしたくなる。コンピ研の部長も、そういうことだったなら。

 なら、名前だって、朝から誰にも呼ばれないわけだよ。ん? 名前……? こんなに虚しくて悲しくても、頭は勝手に回り出す。身体とこころがちぐはぐで、ばらばらで、他人のものみたいだ。もうこれ以上壊れるものがないみたいに、俺はしずかに息を吐いた。


「……おい、古泉。お前、俺の名前は覚えてるんだな」

「覚えているというより、着信履歴に名前があったのでそこから推察しました」

「違う、お前だけは朝から俺の名前を呼んでいたんだよ。なにかあったら電話しろって言ったのは……きっと昨日、お前は俺からヒントをもらっていたからだ。いや、俺って言うか……説明しにくいんだけど、まあ俺でいい。でも、一個疑問が残る。新川さんの昨晩の行動。他の生徒もだけど、俺の声が聞こえない、っていうのは忘れていたからじゃ片付けられない。別の問題なのか、根底から問題の捉え方が違うのか……どう思う?」

「なるほど。新川さんに関しては後程伺います。そうですね、具体的に言うとどのくらいまで僕は覚えていそうでした?」

「俺の名前を呼んだのは、教室の前で弁当を渡して別れる時だ。でも、思えばお前は今朝からおかしかった」

「と、言いますと」


 古泉が聞き役に徹しているのも珍しい。こんな機会もそうそうないので、俺は長々と推理を披露した。内容はこうだ。

 多分、古泉は朝起きた時点で一回俺を忘れていた。起こしに来なかったのも、コンビニで朝食を用意したのもそれが原因だ。俺が来る前までは自炊とは縁がなかったって言ってたからな。

 なにかのきっかけで俺を思い出した古泉は、もう一度コンビニに今度は俺の分の飯も買いに行った。で、ここで一つ問題が生じる。買いに行ってるって時点で、俺のことを思い出していたにしても、俺が朝食をいつも作っているって情報は抜けているんだ。

 レシートが二枚テーブルに置かれてたから、きっとその時もう一回俺を忘れてたんだと思う。なんで二回も買い物に行ったのか思い出そうとしてレシートを並べたって言うなら、あの謎の行動にも説明がつく。朝出会った古泉はもう一度俺を思い出し、忘れていたことを悟られたくなくて、レシートを隠した。

 登校中は俺を忘れているような素振りはなかったが、弁当を渡した時に妙にいつもより嬉しそうだったから、いつも弁当を渡していることもきっと覚えていなかったんだろう。


 ──、忘れたり思い出したりを繰り返すのは脳にとってよくないと、そういえば長門が言っていた。状況が解決するまで、古泉には余計なことは思い出させない方がいいのかもしれない。そういうふうに、割り切らないと、いけないかも、しれない。


「僕の今朝の行動を全て記憶しているんですか?」


 そう聞かれるのも久しぶりだ。


「……そうですか。あなたの記憶力がいいことは、僕たちの間では織り込み済みのようだ」

「お前の身の安全のために言うけど、あまり思い出そうとしない方がいい。この状況を解決するための策だけ取り急ぎ練ろう。俺はそれで、へいきだから」

「……わかりました。では、これは仮説ですが。先ほど電話をかけた時には、きっと僕はあなたのことを思い出していたんでしょう。だから僕は、あなたに何かを伝えようとここまでやってきた。なんだか汗を掻いているので、よっぽど急いでいたんだと思います。そして、その間に、伝えようとしたことがなんだったのか……それどころか、あなた自体のことまで再度忘れてしまったというところでしょうか」

「……電話か。お前って、俺のことを芦川ヒカリで登録してるの?」

「どうやらそのようです。そして、そのことについてなんです、僕が不思議だったのは。僕はついさっき、覚えていない筈のあなたを下の名前で呼びました。まるでそれが当然のように」

「……ああ、お前って普段人のこと苗字で呼ぶもんな」

「ええ、それに閉鎖空間発生直後からの着信履歴でしたからね。なにかしらの関係があると……、立ち直りが早いですね。僕としては助かりますが……」


 古泉は言葉を切る。今俺はどんな人物に映っているんだろう。冷静で、きっちり仕事のできるやつに見えているのかな。それなら、その方がいいんだろう。


「あなたは……大丈夫そうには見えない」

「……そりゃそうだよ、大丈夫じゃない。めちゃくちゃ泣きそうだよ。考え事でもしてないとやってられないよ。よりにもよって、お前は忘れんなよ……なんで、ああ……、うん、でもお前が賢くて助かったよ……だから、いいや、話を続けよう」

「ああ、本当ですね……混乱していますよね。無理もありません。親しい間柄だとすれば、尚更同性である僕の前では泣きたくないのもわかります。ただ、もしかすると物理的な距離が記憶と関係するのかもしれないので……すみません、席を外すことはできないのですが。現状あなたとの会話で推察するしかないもので、この七日間にあったことをかいつまんで話してはいただけませんか?」


 ──ああ、ダメだ。こいつ、マジで覚えてないんだ。


 俺は口をぽかんとあけて、古泉を見上げている。意外と涙は出てこない。心に穴が開いたみたいに呆然としてしまう。あー、違う。考えないと、考えないといけないのに。俺の思考が纏まらないのは、俺もなにか忘れている可能性があるってことを、念頭において。

 この一週間の間に起きたことを、かいつまんでなんて話せない。たくさんのことがあった。古泉と俺だけのことに限定したって、そんなの明日までかかっちゃうよ。

 お前は驚くだろうけど、俺は古泉が寝ぐせがひどいことを知っている。朝はぼんやりしているのも、卵料理が好きなのも。敬語が外れる時があったり、ちくちくと嫌味を言ってみたり。心配性で、意外と怒りっぽくて、ふざけたやり取りをすると楽しそうにする。最近料理にも挑戦していて、スキンシップが好きなくせにこっちからやると照れることも──、あ。


 古泉、俺のこと好きだったのも、忘れちゃったんだ。


 なんでだろう。これが正しいはずなのに。古泉は俺を好きじゃない方がいいと思うのに、どうしてこんなに心臓が痛いんだ。

 この七日間のことなんて話したくない。俺が言ったことを、そのままお前の感情として記憶されるのが、嫌だ。


「……あー、じゃあ、手っ取り早いから電話試してみるか。電話の時はお前言いたいこと、覚えてたんだし……説明するまでもなく、思い出すかもしれん。iPhoneとか関係なくさ、電話というのが俺にとって意味のあるアイテムなのかもしれないよね。これについての説明は省くけど、とりあえずやってみる? 条件同じにするならお前からかけた方がいいけど、俺からかけようか?」


 古泉は答えない。なんとも形容しがたい、泣きそうな顔をしている。なんでお前の方が、と思った。ああ、でも、もしかすると。

 

 好きだった人を忘れてしまうなんて、古泉の方が辛いんじゃないんだろうか。

 

 よくわからないけど思い出せない、それなのに名前を呼んでしまうなんて、こいつの方がよっぽど混乱しているんだろう。俺、自分のことばっかりになっていたな。

 俺は、古泉に何をしてやれるんだろう。何度も助けてもらったのに。本当にこのまま忘れられて、いなくなって、元の世界に返却されて……それでつらいのは俺だけじゃないんじゃないか。

 そうだ、今はみんな忘れていたって、谷口だって国木田だって仲良くしてくれていた。古泉は言ってくれたじゃないか、俺になにかあったら大声をだして怒ってくれるって。キョンは言ってくれたじゃないか、代わりにハルヒに文句を言ってくれるって。朝比奈さんは、俺を手助けできないことを悩んでくれた。長門だって昨日あんなに怪我してまで俺を守ってくれた。

 ハルヒだって、お前が俺を呼んでくれたんだ。不思議生物と交渉する俺がいないと、困るかもしれないよな。

 落ち込んでる場合じゃない。解決しないと。


「……」

「お、おい……真面目な顔して黙るなよ。もしかしてまた忘れた? さっきも喋ってて、急に黙った後忘れたよな。それ、なにかのトリガーだったり……、」


 人が話しているというのに、古泉はいきなり俺の腕を引いた。決意を固め直して鼻息も荒く意気込んでいた俺はと言うと、すっぽりとやつの腕の中に納まる。は? なんだよ。この状況は。次から次へと、何が起きているんだ。

 瞬きをしてもぞもぞと顔を動かす。視線は古泉の襟を捉えている。改めて思うけどこいつ背でけえな。意外と筋肉があることは知っていたけど、背中に回された腕に力が込められると、ちょっと苦しい。苦しいけど、照れくさいけど、思ったより嫌じゃない。

 ただ、やたらと良い匂いがして腹が立ってきた。いや、マジでなんなんだ。何も覚えてないんだよな? なにやってんのこいつ。


「……なにがしたいんだよ」


 俺は古泉の胸に頭の重みを預ける。疲れて、抵抗する気もおきない。そのまま瞼を閉じる。古泉の心臓の音は、やっぱり自分から抱きしめた癖に早かった。


「お前覚えてないんだよな? じゃあなに、胸で泣いていい的な? しないけどな。俺、落ち込みやすいけど、回復だって早いんだ。だから別に、」

「……自分でも、よくわかりません。でも、あなたの言葉を聞く限りこれで合っているんだと思います」

「ん? トリガーがこれに関係あるってこと?」

「いえ、そういう話ではなく」


 じゃあマジでなんなの!?


「お前はなんでそう毎度コケさせようとすんだ。意味がわからん」

「覚えてないのに、と言いましたよね。今も嫌がってはいないみたいで安心しました……そうですね。きっと僕はあなたにこうするべきだったんです。なんだか妙にしっくりきますし、僕たちはいつもこういうスキンシップをしていたんですか?」

「いや、ここまではしてない」


 じたばた暴れる俺の頭に、古泉が顎を乗せる。しっくりきてしまったらしい。


「……ああ、なるほど。本当に思い出してきました」

「ええ!? なんだよ、そんなんで思い出すのかよ。返せよ俺のシリアスな空気を。えっ? いや、じゃあもしかしてこのまま喋るってこと? なにイベントだよこれ、強引なフラグ成立だなおい」


 仕方なく、俺は古泉にハグをされた体制のまま会話をすることになる。あー良かった。涙がもったいなくなるところだった。うー、本当に、良かった。今回ばかりはメンタルがぽっきり折れかけた。いや、これはこれで今も折れそうだ。このまま真面目な会話しなきゃいけないの? どんな拷問?


「でも、由々しき事態には変わらないんですよね。ずっと触れ合っているわけにもいきませんし。僕としては役得でもあるんですが」

「その言い方だとマジで全部思い出したの?」

「ええ、おそらくは。なにか懸念するところでもありますか?」

「いやだから、その……俺のこと……」

「なんでしょう」


 妙にゆるゆるとした笑顔で古泉が俺を覗き込んでいる。下から見てもイケメンで忌々しい。


「絶対思い出してるからもういい」

「残念です」


 もお、俺本当にさっき絶望しかけてたんだけど! しかし、冷静になって考えてみると九組の女子も触った時に俺に気づいたから、触るっていうのは重要な意味を持つのかもしれない。いや、気付くって変だよな。そうだよ、そこは変だよ。


「確かになんの解決にもなってない。ああ、それで気になってたんだけど、新川さん。いや、新川さんだけじゃなくてさ。声をかけて無視されるっていうのは、忘れるって言うのとちょっと違うだろ、ベクトルが」

「僕も思っていたんですよ。あなたからの着信に気づかなかったことが疑問でして」

「朝倉に昨日言われたのは、“存在を保つための情報がすごく弱くなってる”“涼宮ハルヒに否定されれば、一瞬で元の世界に弾かれる”あと関係しそうなのは“あなたに消えられたら困る”かな」

「涼宮さんを怒らせた、と言っていましたよね。そのことによって、元の世界に帰されようとしているんでしょうか。あなたにとっては千載一遇の機会かもしれませんが、僕には涼宮さんがあなたを簡単に手放すとは、この状況にいおいても納得ができませんね」

「“話を合わせているだけ”とか“顔色を窺っているだけ”とか。“反吐が出る”まで言われた」

「ですから、あれほど言ったじゃないですか。あなたは本心を話すべきだと。僕たちにはそれぞれ役割があるんです。ご機嫌伺いをするのは僕の役割ですよ」


 キョンを見つめていたいとか、あの状況で言える? 一応ギャルゲーイベントに遭遇してみたいっていうのも嘘じゃないけどなあ。俺だって朝比奈さんの胸に飛び込んでみたいと思うことがあったっていいじゃないか。古泉に寄りかかる。全然倒れないんだなこいつ。


「うーん? 存在を保つ情報……ってことは、俺を認識できなくなっているってことかな。だとすれば気づかないっていうのはわかるかも。俺を構成する情報が薄れている。だから、忘れているんじゃなくて、俺自体が欠けてる? もしくは、昨日俺の情報を閉鎖空間に飛ばしたみたいに、元の世界に飛ばしてるとか?」

「危機回避のための自動的な措置ですか。あり得ない話ではありませんね」

「本当にくっついてるといつもみたいに話せるんだな。俺、人と話す度にそいつとくっつかなきゃいけないってこと?」

「接触によって感知を促し、あなたの情報を一時的に相手に流し込むということでしょうか。ちょっと嫌ですね。言ってる場合じゃないんでしょうけど」


 ちょっと嫌とか言うな。やっててきついのはこっちだぞ。顔を上げると古泉と目が合う。普通に喋ってる声だと思っていたのに、表情がしょぼくれていた。


「……ちょっと嫌ってそういうこと?」

「そういうことです。でも、躊躇してもいられないでしょう。幸い海外にご両親がいる設定ですし、ここはいっそ気軽にハグをしてみなさんと会話を楽しんでみてはいかがですか」

「海外に親が転勤するのと、海外で生まれ育った陽キャは別ものだからな?」


 ん? さっきからなにか引っ掛かるな。そう言えば、古泉はここに走って来た時に手を離さないで喋りたがっていた。こいつは、その時にはもう気づいていたんだ。


「じゃあ……別にハグじゃなくてもよくね?」

「あ、気付いてしまわれましたか」


 こいつ……。

 ゆっくりと腕が離れる。その手が俺の肩を滑って、腕を通って、掌まで移動していく。存在を確かめるように手の甲をなぞった古泉の指が、俺の指の間に差し込まれる。


「ひっ……ちょっとぞわってした、今」

「すみません。我慢してください。さて、触れて会話をするというのは対症療法に過ぎません。僕たちが目指すのは根治……要するに、今まで通りあなたを認識できる状態に戻ることです。涼宮さんと言い合いをしたとのことですが、僕にはその出来事が決定的な決裂には思えないんですよ」

「うん、俺もそれは感じてたんだ。ハルヒがこうあればいいのに、という願いは後ろ向きな発生じゃないと思う」


 例えば、なにか勝負事をしていたとする。ハルヒは「相手に負けて欲しい」じゃなくて「自分が勝ちたい」と思う。結果に違いはなくても、そこに至るプロセスは全然違う。俺と喧嘩した内容だって、嫌いになったって言うよりも腹を割って話したい、というものだった。

 主治医である古泉によれば、ハルヒのストレスはせっかく呼んだ異世界人が面白そうにしていない、という不満からきている。勿論なんでもかんでも話すわけにはいかないし、忙しいのは俺がここにいる以上起きる逸脱事項の解決に勤しんでいるからだ。

 それでも、喧嘩自体は収めることができると思う。話し合ったり、思いをぶつけたりして。ストレスも、俺が楽しんでいる姿を見せることが出来れば減るのだろう。問題は、ハルヒも俺を認識できなくなっていくという点にある。このまま俺の存在証明が捗らなければ、仲直りなんて夢のまた夢だ。


「なにか他に実行したいことがあって、あなたを忘れているこの状況は単なる副産物なのかもしれませんね」

「ああ、元々俺が蒸発しかけていたことが問題の最初にあって、そして、俺とハルヒの願いが合致しているのかもしれない。俺に起きてるってことからも、俺が願ったんだ。それが、どんなにわずかでも……」


 こんこん、と内側から部室の扉が叩かれた。

 俺たちは会話を止める。訝し気な顔をしたキョンが、扉を開いて俺を見た。考え込むように頷く。


「長門の言う通りだな……まあ、入れ」


 俺たちが手を繋いでいるのを見て、キョンは眉を顰めた。


「気色の悪い奴らだな。そんなところで何をしているんだ」


 昨日、俺たちの仲間になってもいいと言った彼が、心底嫌そうな顔でそう言ったのを、俺はなんとか苦笑いでやり過ごした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る