芦川ヒカリの憂鬱Ⅲ 8


 俺が着替え終わるまで、朝比奈さんはひたすらに涙目で平謝りをしていた。おっちょこちょいなことこの上ないが、ある意味これで良かったのかもしれない。嘘など吐くイメージのない彼女の言葉には思わず信じたくなる魔力がある。朝比奈さんを騙しているのではないかと言われればそれまでだが。

 さて、信じるか信じないかはキョン次第だがこれで彼に性別がバレてしまった。そうなってくると、近いうちに古泉にも言わないと不公平だろうか。俺が元の世界では女だったとわかったら、古泉は気持ちが変わったりするのかもしれない。それはなんかちょっと、ちょっとだけ嫌な気がする。

 俺は俺で、今までより一層キョンへの感情を制御していかなくてはいけなくなった。きっと気が引き締まるいい機会だったのだ。アクシデントへの対応に必要な心得は「なんとかなるさ」と「これはこれでいいさ」だ。そして何より大事なのが「潔く諦めよう」である。


「おまたせ。鞄持って出なかったから帰れなかっただろ」

「……お前、大暴露しておいて普通だな」

「キョンこそ普通だね。そんなことは信じられんって言うかと思ったよ」

「さっきも言った通り、そんな気はしていたからな。もしかして女なのか? もしくはそう思わされているのか? とな」

「さすがに幻覚とか使い出したら強キャラすぎるよ。まあ、これからも普通に接してくれ。今が男であることにはなんら変わりないし、女だった証明もない。そして、ハルヒの前では性別なんて歯牙にもかからないどうでもいい差だからね」

「五日で性別の変化に慣れちまったっていうのか? いつもは隠れて着替えるのに、なんでさっきは涼宮みたいに脱ぎ始めやがった」

「いや、俺が脱ぐのはまあ、平気と言えば平気なんだ。元の世界では男兄弟もいたしさ。ただ、大人として高校生男子の着替えを見るのは、法律の力に負けてしまうというか……」


 俺はショタコンじゃない。断じて。まあ、キョンくんのショタならきっとかわいいんだろうけど。十五、六の少年を捕まえてどうこうしようなんてつもりはないが、法律ってのは厳しいもんだからな。いや、俺も今はその少年なんだが。


「そっちは気にするのか。変なやつだな。いまだにお前が大人だというのは……少しわからんが。大抵のことは飲み込むことにするよ」

「なんで大人は飲み込めないの!? 二十歳だよ!? 酒も飲めるんだよ、俺!」


 キョンは微妙な顔で笑った。し、失礼なやつ~。朝比奈さんはというと、メイド姿でしょぼんとこっちを見ている。


「気にしないでくださいよ朝比奈さん。起こってしまったことは仕方がない、の精神です」

「わ、わたし……芦川さんの力になりたいって言ったのに……邪魔ばっかりしてる気がします……」

「結果論かもしれないけど、これにもメリットはあるんですよ。隠し事がなくなれば彼と腹を割って話しやすい。だから信頼もして貰いやすいです。自分で言い出すよりは朝比奈さんにああしてバラしてもらう方が、信憑性もありますし」

「そうかなあ……わたしのこと慰めてますよね」


 朝比奈さんのジト目とは貴重なものを見た。かわいいな。


「うう……あ! あ~! わ~、わたし……着替えるの忘れちゃってたので、二人で先に帰ってて! 鍵は、ちゃんと締めますから!」

「……朝比奈さんはいいこなんですね」

「ふえ!?」

「ありがとうございます。撫でちゃいます」

「え? え? え?」


 頭にハテナマークを浮かべる朝比奈さんを撫でくり回し、同じく頭にハテナマークを浮かべるキョンを伴って俺は下校する。バレバレな演技だが、好きな人と二人で帰るなんて時間を彼女は演出してくれたのだと思う。好感度が高くならないと普通は発生しないイベントだ。いやあ、朝比奈さんにもバレちゃってたかあ。参ったな、これは。

 こんなになんでもかんでもバレるなら、もう全部言っちゃってもいいんじゃないだろうか。なんてちょっと投げやりになってくる。


 長い長い坂を下る間、俺たちはなにも喋らない。同じ男子の制服を着て、ただ隣を歩くだけだ。かったるそうに首を鳴らす彼の横で、俺は路駐している車の窓ガラスで前髪を直した。

 なにやってんだかと冷静になりたい自分と、キョンくんに美少女と呼ばれて舞い上がっている自分がいる。なんともまあ安いもんだ。

 橙色に埋め尽くされていくような夕方の道には、タイミングがいいのか悪いのか、俺たち以外に歩いている人は殆どいない。感動だよなあ。キョンくんの隣で、二人きりで下校出来るなんて。この先一生の思い出になる。

 振り返ると目が合って、一瞬二人で立ち止まる。キョンがまた前を向いて歩き出したので、俺も同じようにする。無言の空気に耐えられなくなったのか、彼が先に口を開いた。その横顔を、俺は見ている。ちょうど目の高さに彼の口がある。喉仏もよく見える。


「……古泉には言ってないのか。その、女だってことは」

「うん。やっぱり身近で生活してるからさ。俺たちってハルヒにコンビ扱いされてるだろ。このこと聞いたら色々と……そういうネタとかやりにくいかもしれんから」


 ネタじゃなくてガチだと今朝知ってしまったことだし。

 でもキョンに言って古泉に言わないのはなんか、あとで情報を流していないっていう不信感に繋がると嫌だしなあ。あいつにも女だったって言うしかないか。頼むから、ぎくしゃくするとか、仲が悪くなる方向にだけは転ばないでほしい。


「そうか? 俺が古泉の立場なら尚更ラッキーだと思うが」

「えー。キョンって結構スケベだよね」

「すっ、スケベって……お前な」


 キョンは睨みながら抗議してくる。ちょっと照れているみたいで、俺のいる右側の顔を腕で隠してしまう。それとも見間違いで、夕日が頬に当たっただけなんだろうか。ああ、悲しんだり喜んだり忙しい。彼の隣にいると、自分が自分じゃないみたいだ。


「……本当に、俺の心は読めないんだよな」

「読めないよ。でもデータは多分にあるからね。そこから分析して、想像することはできる。朝比奈さんのラッキースケベに遭遇してる時とか、こういうこと考えているんだろうな~って」

「おい、もしかして俺は今脅されているのか」

「わは。脅さないよ。ていうか、この世界の鍵でどうこうなんて任務はキョンだって大変だろうしさ。これから先、うまく助け合っていきたいと思ってる」

「そんなもんはやりたくないんだが。涼宮のお守りなら、お前の方がよっぽど適任に見える」


 みんな揃いも揃って俺に投げるんだから。


「勿論、出来るだけ俺がなんとかしようと思ってるよ。言い忘れてたけど、俺は元々この世界にいないから、いるだけで問題が起きるらしくてさ。それはやっぱり俺がどうにかしないと申し訳ない感じがある。だから解決して回ってるんだ。一応、いまのところ世界は平和だろ。やることはやってるんだぜ、こう見えても」

「お前はこの五日、その問題解決をこなしてたってことか? 勝手に連れて来られて、勝手に年齢も性別も変えられて、その上いるだけで問題が起きるってそんな酷い話があるのかよ。そうまでして涼宮のいるこの世界に、お前はどうして来たかったんだ」

「さすがに俺も自分が当事者になるとは思ってなかったよ。まあ、それは古泉や朝比奈さんや長門もそうらしいけど。でも、SOS団に参入するためにすべき課題があるのなら、大いにクリアする価値がある。俺は頑張れる。仲間に入りたかったんだ、俺はずっと」


 十年だ。十年、待っていた。

 ずっと憧れていた女の子と一緒に不思議な体験ができる。頑張り屋さんの未来人が気に掛けてくれる。少しづつ変な挨拶を覚えていく宇宙人がいる。実は見た目ほど完璧じゃない超能力者が見られる。大好きな君の隣で話しができる。

 こんな幸運、俺の人生にきっと二度とやってこない。その時間を大切にしたい。そのためにできることなら、なんだって安くつく。


「だから、キョンくんがやりたくないことをしないで済むならいくらでも俺は頑張れるよ。せっかく不思議な能力を与えられてエージェントらしく使いこなせるようになってきたことだしね」

「別に、俺のやりたくないことをお前がやる必要なんざどこにもないだろ」

「誰かがやらなくちゃいけなくて、俺にできることならってだけだよ。当然俺じゃ君の代わりにならないこともたくさん出てくる。君の重要度ってすごいんだから。俺もさ、五日目にしちゃよくやってるってだけで、それなりにミスも多いんだ」


 キョンは溜息を吐いた。鞄を担ぎなおす。その手首に浮き上がる筋一つだって、君がここにいることを俺に実感させる。これを幸福と言わずして、なんと言うだろう。胸が締め付けられる思いだ。多分、俺は今とんでもなくだらしない顔をしているんだろうな。朝比奈さんの前で、キョンがするような顔を。


「お前ってデスゲームで最初に死にそうだよな」

「おいおい、やめてくれよ。俺はこの世界と一蓮托生なんだ。俺が死んだらヤバイらしいんだぞ」

「世界がヤバイことの方が優先みたいに言うから、最初に死ぬんだろうが」

「だって世界がなくなれば俺の命を優先してもしょうがないじゃない」

「お前、異世界人なんだろ? だったら自分の世界にトンズラすりゃいい」

「でも、帰る方法知らないし。やっぱりハルヒたちのいる世界に何かあるのは嫌だ。いや、ほんと進んで犠牲になるとかって話じゃないよ。マジでそれは全然違うよ。すげー釘刺されてるんだもん。俺は自分の命を大切にしなくちゃいけないんだ」

「だからそこじゃねえだろ。古泉のやつもお前や涼宮になにかあれば世界はおしまい、だなんて言いやがって。そういうことじゃねえんだよ。ん? そういや、異世界人ってことは古泉と幼馴染っていうのは変だな」


 キョンくんは訝し気に俺を見る。そこに気づいてしまったか。なんだか、気に食わないようで鼻を鳴らしている。


「ああ、あんなん嘘だよ。ハルヒがそう思っているみたいだから話を合わせただけ。古泉も俺も初対面で隣に引っ越したのも必然だ」

「機関ってやつに用意されてか。涼宮のためならなんでもやるんだな。ほとんどカルト教団だ」

「まあ、機関としてはハルヒのためってより世界を守るためって感じなんだろうけど。俺は転校前日の夜に長門に拾われたんだ。色々長門にこの世界にいてもおかしくないように情報をいじってもらって、転校してきた。それが古泉と同じ日だったから、機関も慌てたろうね。ハルヒは謎の転校生が二人も来た、関連性があるって騒ぐしさ」


 考えてみるとあの夜に長門が現れなかったら、俺はありもしない自分の家を探していつまでも彷徨っていたんだろうか。それはぞっとしないな。交番に行ってもそんな人はいませんとか言われて、記憶喪失かなにかだと思われて病院か施設かなにかに連れていかれたかもしれない。そうなったら、俺の存在を良く思わない一部の人間にとってはかなり有利な状況になっていたことだろう。

 長門にはやはり、感謝しかない。


「つうと、あの電波話で長門が俺を呼びだす前日か」

「そうだよ。俺もあの電波話を聞かされた。俺が世界の鍵? 特殊能力持ち? なんだそれって感じだったよ。俺だって元々はキョンみたいに普通の人間だから信じられなかったけど、長門がヒューマノイド・インターフェースであることは事前に知っていたからね。長門が言うならそうかなって多少納得した。で、今じゃ完全に納得。なんせこの五日間で超常的なこともいくつか目にしたし」

「たった五日で、なんでもない普通の人間がそんな状況に溶け込めるもんかね」

「まあ、そうせざるを得なかったって感じもあるけどさ。元々流されやすいのかも」


 溶け込むシュミレーションも十年してきているんでね。あー、痛々しいことこの上ない。キョンは立ち止まる。俺も立ち止まって彼を見上げる。目を合わせるには、ほんの少し首を傾けないといけない。

 彼は説教する教師みたいな顔をして、俺を真剣な目で見た。


「じゃあ、この世界のことを知らないお前を、どいつもこいつも利用しようとしているとは考えないのか?」


 それは、古泉だけでなく長門や朝比奈さんをも指すような言い方で、俺としては意外なセリフだった。キョンはそういうことを言わないと思っていた。小説を随分と読み込んだものだが、まだまだ彼のことをわかっていなかったみたいだ。


「考えたよ。でも俺はみんなのこと信じたいし。団員は俺にとって信じるに値するだけの愛着がある」

「会ったこともないのに、情報を持ってたってだけでか。お人好しなやつだ」


 キョンはまた歩き出して、つまらなそうに道端の小石を蹴った。ちょっと機嫌が悪いみたいだった。そんなに親身になってくれることないのに。俺、そのうち帰っちゃうんだよ。


「両親の話も嘘か。なぜお前は、家族と連絡も取れない状況で平然としていられる。想定外の出来事だったんだろ」


 俺は立ち止まる。それは何度も考えた。考えたけど、どうにもならなかった。元の世界に帰る方法なんて知らないし、その宛が一切ない。家族がどうしているか知ることもできない。なので、考えないようにするしか、ない。

 彼の言葉に導かれるように、俺はiPhoneの電源を入れた。青いのがいいからと、ちょっと無理して12Proにした。母には「新しいものばっかり買ってないでもっと貯金しなさい」と叱られた。父は「俺にもカメラの性能を試させてくれ」と喜んでいた。兄は「お前が11から12にするメリットは青いだけだぞ」とか言っていた。使いこなせないと思ってるんだろうな。その通りだったけど。

 充電は56%。相変わらず圏外。マンションで少し試したけど、Wi-Fiでも通信は不可能だった。もしかすると5G回線がどうのとかいう問題じゃないのかもしれない。

 本当は、長門に聞けば元の世界のことがわかる可能性も残されている。でも、ちょっと怖くて、聞けない。


「……それはなんだ?」

「俺の世界の携帯電話。多分未来にはこの世界にも似たようなのが出来るよ。高性能で最新型なのに、家族とか友達とかバイト先とか、誰も出ないんだよね。15万もしたのに、最悪。見てて」


 兄に電話をかけようと、画面をタップする。表示された「芦川朔」の番号を押すと、ネットワーク接続なし、とポップアップが出る。まあ、普通に考えて精密機械なのだ。時空を超えて壊れないわけがない。


「いや、わかってるんだ。もしかしたら長門に聞けばなにかわかるんじゃないかって。でも、ちょっと怖くてシュレディンガーにしてしまっている。家族になにかあったらとか、あっちの世界に俺が最初からいなかったことになってるとかだったらどうしよう……って思ちゃってさ。あ、でもどうせだから今聞いちゃおうか。一応長門の家電メモってあるんだ」


 機関から支給されたスマホを取り出した手を、キョンが掴む。


「……すまん。平気なわけないよな。失言だった。なあ、こんなに手だって震えてるのに、どうしてお前は平気なフリをするんだ」


 うまく返事ができない。俺とキョンは黙り込んで、お互いの困った顔を見合うだけだ。握られた手から力が失われることも、離されることもない。いつまでもこうしているわけにもいかないので、俺はようやく口を開く。


「……だって、大人が泣いちゃ恰好付かないだろ。それに俺、本当にハルヒを恨んだりしてない。ここに来れて嬉しいのも本心なんだ」

「恰好なんざつけんでいい。お前の代わりに俺が涼宮のやつにキレてやる」

「やめてくれよ。仲の悪いSOS団なんて見たくない」

「……じゃあ、心の中でキレてやるよ。注文が多いやつだな」

「それも嫌なんだってば」

「これ」


 涼やかな声が割り込んできて、俺は慌ててキョンの手を振り払う。彼に関してだけは、あらぬ噂を立てられたら困る。国木田はよくても。

 なんというタイミングだろう。長門有希が相変わらずの制服姿のまま立っている。まるで最初の日の再現みたいに眼鏡を光らせて、微動だにせず。キョンはむっとした顔をして、長門の出現に思わず彼女の名前を呼んだ。


「長門……?」

「びっくりした。キョンくんごめん、思わず。どうした長門。一回家帰ったのか」

「そう」

「その荷物はなんだ。宅配業でも始めたのか」


 キョンの目線の先には、長門が持ち歩いていた記憶のない肩掛け鞄がある。彼女は紐を肩に掛けず、それを両手で抱えていた。アニメでも長門がそんなものを持っていたことはないが、俺には見覚えがある。


「それ、俺がバイト行く時の鞄だ! あれ、でもあの日俺は持ってな……あ! そ、そうだよ、コンビニのロッカーに置いて帰っちゃってたんだ……うわ、このこと今まですっかり思い出せなかった! こわ!」

「十一分分六秒前。あなたの世界からこちらに出現した荷物を回収した。世界間のゆらぎが重なることは、予期できていたこと」

「そんな、本当に宅急便みたいに。こいつの元の世界から荷物が届くってのかよ」

「すべての軸がなる条件下なら、重複した次元断層を越える無機物の分解と再構築はそれほど難しいことではない。芦川ヒカリはその条件を発生させることができるから。既に四度あなたがアクセスしたことで、世界間の揺れが観測されている」

「まーた知らん能力でてきたな。じゃあ、俺の部屋から何でも持って来れるわけ? その、長門が分解と再構築をしてくれたら」

「それはできない。一度でも涼宮ハルヒとあなたが相互干渉した地点だけ。あなたがあの日出現した地点は、涼宮ハルヒが世界間における次元断層の予兆を生み出していた地点」


 あの日俺がいつもの帰り道だと思って歩いていた場所。ハルヒと俺が相互干渉した場所、と長門は言った。あの日、近くにハルヒがいたってことか? まったく、そんなこと一言も言わなかったじゃないか。俺が久しぶりにハルヒを読もうと思った時、ハルヒも異世界人のことを考えていたのだろうか。


「あなたはその稚拙な情報網に世界間、時空間の隔たりを一定時間解除する属性を付与したに過ぎない。あなたの誘導能力では世界間を超えて物体の移動を操作することは不可能」

「じゃあ、俺がやってきたあの場所に鞄がなかったら、それはこっちに来なかったのか」

「そう」


 なんで店の中に忘れた鞄がそんな場所にあったんだ。店長か誰かが俺を追いかけてきて道に捨てたのか? 疑問は尽きないが、長門から鞄を受け取る。中には走り書きの「この荷物が届いた翌日はiPhoneの電源を入れておけ」というメモ。そのiPhoneの充電器が入っていたのは光明だった。

 そして、この筆跡が妙に懐かしい。間違いなく兄貴のものだ。俺が好きな羊羹がアホほど入っているが、あいつ……もっと他に入れるものあっただろ。せめて小説の一巻でもあればマシになったかもしれんものを。向こうの世界での記憶がどんどん消えていくなら、そのうちハルヒを読んだ記憶も薄れていくはずだ。ヒントなしでやっていくにはきつい仕事だぞ。

 でも、良かったこともある。兄が無事だとわかった。俺のことも忘れていないとわかった。しかしなぜ、兄貴がこんなメモを? つまり、この鞄をその地点に置いたのは兄貴ってことになるのか? 一体どうしてそんなことが出来る。


「長門は俺の世界に干渉できないのか?」

「できない」

「じゃあ、兄貴と会ったわけじゃないんだな」

「そう」

「みんなが無事かとか、俺を覚えているかとか、わからないんだな」

「わからない」

「俺を放置して話を進めるな。どういうことか説明してくれ」


 長門にわからないんじゃしょうがない。俺はなんとか気持ちを切り替えて、キョンくんに説明する。一応兄貴は無事だとわかったことだし、いつまでも自分の心配ばかりもしていられない。


「兄貴の書いたメモが入ってたんだ。この鞄を送るためにその、ハルヒと干渉できる地点とやらに置いたのは兄貴ってことなんだよ。でも、どうやって? なんで兄貴はそんなことが出来た? 偶然? 誰かに言われなきゃ難しいと思うが」

「つーかそもそも、次元の隔たりを解除だなんだっつーのはなんだ」

「それ」


 長門が指さしたのは俺のiPhoneだ。充電は54%。長門は四度、と言った。着信履歴はこの五日の間皆無だ。発信履歴には、手あたり次第掛けた記録が残っている。その中で条件に合致するものを、俺は見つけた。


「もしかして、兄貴に電話を掛けようとするのがトリガーか……? いや、待て。世界とか時空ってものが、こんな指先一つでそうそう簡単に揺らいじゃダメだろ」

「そう」

「う……だ、だよなあ。もう二度とやっちゃダメ、みたいな? でも、電源を入れておけってことは、多分明日使うんじゃな……い、か」


 ちょっと嫌な予感がしてきたぞ。ここに来て新しい情報が長門から開示されるなんて、それも、明日電源を入れておけ? よりによって明日かよ。


「短期間での連続的な世界間干渉は推奨できない。けれどあなたはその情報網を手離すべきではない。あなたが存在していた世界での情報の多くはその中に蓄積されている。有機生命体の情報処理能力を超えて脳を使用した場合、バックアップとして機能しているその情報媒体を失えば、あなたの記憶領域は著しく損壊する可能性がある」


 なんかわからんがめちゃくちゃiPhone12が優秀なのはわかった。やっぱり最新型は違うぜ。冗談はさておき、短期間でのって言い方をしたってことはこれに頼る時も来るんだろう。記憶自体は既に壊れている部分もあるんだけど、これを持ってなかったらもっとやばかったってことかよ。ていうかやっぱり異世界はスマートフォンとともに、ってことなの? 便利すぎるだろ、スマホ。


「前に廃棄って言ったな。バックアップがあるから、俺は無意識に情報を選んで廃棄しているのか。これがなかったらとっくに箸の使い方すら忘れててもおかしくないって」

「そう」


 助かった、というべきだろうか。俺が生まれてからここに来るまでの情報なんて全部スマホに残せるとは思えないから、やっぱり限度はあるだろうけど。やっぱり大容量の512GBで正解だったのだ。ふふん。


「なんだそれは」

「ああ、俺って元の世界のことを少しづつ忘れていくみたいでさ。一番付き合いのあった兄貴の顔とかもあんまりわからないんだ。でも、さっきメモを見て思い出したよ。俺と同じ猫っ毛で、眼鏡、変な話し方をする、オタクなのにそこそこイケメンな男だ」

「おかしいだろ。なんだそれは。どうして忘れないといけないんだよ。それでSOS団なんてわけのわからん集まりに入れられて、釣り合いが取れるって……そんなことをお前は本気で思っているのか」

「思ってる。異世界ってどう考えても普通は来れない。それだけのことで済んでいるのがおかしいくらいだ」

「ったく……そういうことを言ってるんじゃないんだがな。涼宮信者め。それで、その廃棄ってのは勝手に起きるのか?」


 そこなのだ。


「それ、ちょっと俺も思っててさ。長門、意図的に行えないものだろうか。お前は俺にそれを促すことが出来ると言ったが、今ちょっとしてみてくれるか」

「必要ない。現時点で蓄積してる不要な情報はない。既に分解されている」

「廃棄じゃなくて分解?」

「そう。あなたが意図的に行った」


 またオート迎撃システムですか。勝手に動くと頭が……いや、頭が痛くなったのは部室で力を使った時だけだ。今日、全然しんどくないな、そういえば。

 まあ、部室はほとんど異界みたいなものらしいし。だからこそ俺もあそこで能力を使ってみたんだけども。


「ヌーン。よくわからんが、知覚できてないだけで意図はしていたってことなんか」


 知覚しないのに意図的。無意識に命令。これらはありえないようでいて、実際はありえることだ。俺が異世界転生だなんだと言っていたのに自らが異世界人だと気づかなかったように。朝比奈さんが心の声に従えと言ったように。

 意識していないけれど気づいている目の前の脅威や、認めにくいのでつい排除してしまう正解というのが、人間の頭を通り過ぎたりぐるぐる回るという状況には、誰しも覚えがあるんじゃないだろうか。


「そう。一度行えば情報の分解や廃棄はあなたの支配下で操作できる。精神的な負荷が不要情報の蓄積を引き起こしやすいなら、逆のことをするだけ」


 俺は今日、なにかストレスが軽減することでもしたんだろうか。ストレスを溜めないのが一番。たしかに言われればそうだ。苛々したり悲しかったりすれば、俺はただでさえ多い考え事を増やしてしまうということになる。当然、脳には負荷がかかる。

 つまりは、ゆっくり寝てたくさん飯を食って好きなことをする、なんて谷口の言ったようなことがマジで俺を救うのか。

 好きなことをする。好きなこと。


「なんだ」


 キョンを見る。みるみる顔が熱くなる。うああ、嘘、マジかよ。キョンと一緒に帰るなんて、そんなことで俺はなんでもうまく行ってしまうというのか。馬鹿みたいな話だ。けれど、確かに前回兄貴の偽物が現れた時、俺はその廃棄ってやつをやったじゃないか。キョンがいた時だ。

 ああ、もしかして今日能力を使って見せたというのに、その変な情報っていうのが溜まってないのもキョンがいたから? ハルヒと俺にとってキョンが鍵っていうのはこういうことか? なんつー恋愛脳だ。大概にして欲しいねまったく!


「なにを面白い顔をしているんだ、お前は」

「自分の単純な脳みそに嫌気がさしているところなんだ、邪魔しないでくれ」

「聞いてるだけでも十分難解だがな」


 ていうか、それなら。SOS団のみんなと楽しくやれりゃ俺は無事安泰ってことなんじゃないだろうか。大好きな仲間と幸せな時間を過ごす。この上ないストレス発散だ。人間って複雑なつくりの癖に、こういうところ雑だよな。でもまあ、ついでに古泉を指差して笑うのも精神にいいってことだな。よし、どんどんやっていこう。


「因みにこの羊羹って食っても平気?」

「推奨はしない。現在のあなたでは分解不可能な情報が混入している」


 兄貴さあ。


「長門はできるの?」

「できる」

「じゃあ、やるよ。俺の兄貴、長門推しなんだ。お前が食ってくれたら喜ぶんじゃないかな」

「推しってなに」

「えーと、そうだな。応援していて、大好き……みたいな」

「そう」

「現在ってことは、いつか分解できるの?」

「可能性はある」


 長門は両手に大量の羊羹を抱えて、うまいこと片手を挙げて去って行く。この時間に会うことがわかっていたのにさっきも同じ挨拶をしたなんて、長門もどんどん俺のてきとう情報操作に染められてきたな。

 俺は一つだけ羊羹を持って帰ることにした。いつか成長したら、食べられる日が来るかもしれない。


「送るか?」

「いや、ここでいいよ」


 古泉からメールが入る。夕飯の買い出しはしなくていいみたいだ。そのために先に帰ったのか。でも、先に買っておいてくれてあとは作るだけっていうのは効率いいかもしれないな。


「古泉か。なんだって?」

「なんか買い物してあるって。食いたいものがあるなら、確かに買っておいてもらう方が合理的だな」

「毎日毎日、よく野郎に飯なんざ作れるな」

「お前の親も作ってるぞ、野郎に毎日毎日。古泉はなんでもうまいうまいって食うから作り甲斐あるよ。細かく褒めてくれるし、洗い物もしてくれる。めんどいって言ったら出前にしてくれるし。いやー。良物件だ。どこに出しても恥ずかしくないね。俺が育てました」

「……家まで送る」

「なんで!?」

「うるさい。どんないいマンションに住んでるのか見てみたくなっただけだ」

「あーね。結構いいマンションだぞ。お茶でも飲んでく?」

「お前な……」


 夕暮れの道を、キョンくんと二人で帰る。途中自販機でサイダーを買って、ラベルの絵柄の都市伝説を教えてもらう。炭酸ガスの採取中に溶けて亡くなった作業員が、ラベルに暗号を仕込んでいるとか、なんとか。馬鹿馬鹿しい話だけど、二人してツッコミを入れて笑っている時間は、なるほどストレスなんてなくなっていく気がした。

 それから少しだけ歩調を緩めて、他愛もない話をする。ゲームの話や、本の話。キョンくんが聞きたがったので、俺は特に元の世界の話をした。

 あーあ、寂しいけど、着いてしまった。


「異世界って言っても、こっちとそう変わらないんだな」

「まあね。同じ漫画もあるし。良かったよ、俺も派遣先がドラゴンが火を噴き散らかしているところじゃなくて」

「お前の兄貴は眼鏡で、お前みたいな猫っ毛で、オタクで変な話し方をする。顔がいい……だったか」

「うん。さっきメモを見たら、急にちょっとだけ思い出したんだ。そんなだった気がするね。多分、うーん? ああ、なんかまた朧気に。でもきっとそう」

「……まあ、覚えられたら覚えておく。眼鏡のオタクな」

「なにが?」

「お前の世界のことだ。お前の、大事なやつのことだよ」


 じゃあな、と手を振ってキョンはあっさり来た道を戻って行った。なんでもないことみたいに言う彼の態度に、小さくなっていく背中に、ちょっとだけ泣きそうになる。

 そうか、俺が覚えていられなくても。キョンくんが覚えていてくれるなら、それはすごく安心するな。例え彼のテストの点数が俺と変わらないくらい低くたって。例え俺の方が記憶力に自信があったって。

 例え、キョンくんに一生会うことがない人の特徴だったとしても。


 覚えているって言ってくれるのがどれだけ救われたかなんて、彼は知らないんだろうな。

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