芦川ヒカリの憂鬱Ⅰ 13
冷静に、冷静に。心拍数を悟られずに返事をしなければならない。時間を空けすぎても怪しまれるから、すぐに「何言ってんだよ」って笑い飛ばすんだ。こういう場合の攻略法って、どうしてファミ通にのってなかったのかな!
「は? はあ!? 違いますけど!? はあ!? 何!?」
俺は渾身の力で暴れ回った。ところが、谷口は慌てるものの俺の首に回した腕を離すことはない。というか、全然振りほどけない。ヘッドロックって決められるとこんなに抜け出せない技なのか?
「おい暴れんなよ。誤魔化すの下手くそすぎねえか」
はあ? 誤魔化してなんていませんけど? 事実ですけど?
「落ち着きなよ芦川。多分、みんな気づいてないからさ。特にキョンはそういうの鈍いし」
「ちが、ちがうし! 別にそういうんじゃないし!」
「わかったわかった」
谷口はよちよち、と言いながら俺の頭を撫でた。こいついつ殺そう。身体中の血液が顔に集まるように熱い。俺がキョンのことを好きなわけがないだろうが。二次元のキャラなんていつまでも好きでいるわけにはいかないんだ。俺は立派な大人で、あんなのはただの過去の初恋なんだ。それなのに、心が二つに分裂したみたいに何度も問いかけてくる。
──本当に? 今は隣にいるのに? 話しかければ、答えが返ってくるのに?
何言ってるんだよ。だって、ダメだろ。キョンはダメなんだよ。俺は二人の邪魔をするためにこの世界に呼ばれたわけじゃないんだから。俺は二人のことが、二人が繰り広げる青春劇が好きだったんだから。
思わず鼻を啜る。なあハルヒ。なんで俺をキョンの隣の席にしたんだ。お前が本気で願えば、朝倉が監視のために動かした席なんて簡単に変えられたはずだ。なんでお前は、わざわざ自分がイライラするってわかってて、俺をあの席に置き続けているんだ。
なんでだよ。あんなに近くで見てたら、誰だってキョンが本当は優しいやつだって気づいちゃうじゃないか。やれやれって言いながら付き合いがいいことも。男と距離が近いなんて気持ち悪いって言いながらも、気に掛けてくれることにも。押しつぶそうとしている自分の気持ちにも、気づいちゃうじゃないか。
「お、おい泣くなよ芦川。俺らが悪いみたいだろ」
「……バラしたら許さない」
「大丈夫だよ。言わないからさ」
「絶対、絶対に、キョンくんに言わないで」
「言わねえって。男と男の約束だ。しかしキョンになあ、惜しいよな。お前顔だけはAランク並みにいいのに」
「……じゃあ、俺が傷心したら谷口はもらってくれんの」
「一生女装するなら……あるいは……?」
俺は拘束が緩んだすきに谷口にチョークスリーパーをかけた。
「まあまあ芦川。そこはほら、古泉くんがいるじゃない」
「あれが本気に見えるのか」
「見えないけどさ」
俺はまだ谷口にチョークスリーパーをかけている。ギブ? 知らん。谷口が大げさな動きをするものだから、さすがに目に付いたらしい。ハルヒがこちらに気づいた。すると、授業中だというのにハルヒはこちらにずんずん歩いてくる。まあ、その辺はサボっている俺たちも人のことは言えないが。
「あんた、なんで谷口とは絡めて古泉くんとは絡めないのよ。なんのためのBL要員なわけ? 谷口となんかじゃ不思議なことが萌えて寄って来るわけないでしょ、この馬鹿!」
ハルヒは俺のほっぺを両手で勢いよく挟んだ。解放された谷口が肩で息をしている。なにそれは。お前のいう不思議って腐女子のことを言うわけ?
「俺ってBL要員以外の道はないのかよ」
「……別に、ないってわけじゃないけどね。あたしが言ってるのは、SOS団としての矜持を持ちなさいってことなの。なんにせよ団員にしなさい、せめて!」
そのままハルヒの顔が近づいてくる。俺が驚いた顔をしていると、なんてことはない。彼女は俺の頭蓋骨をかち割らんばかりに盛大に頭突きをかまして、バスケのコートに戻って行った。キスでもされるのかと思わず瞼を閉じた己を恥じる。悔しい。
「ひでー。聞いたかよ今の。はん、古泉なんかのどこがいいんだっつの。なあ、芦川」
「顔かな」
「てめーはどっちの味方だよ!?」
「あはは。まあ、芦川は涼宮さんの味方だもんね」
「……決めた。俺は芦川の味方だぜ。涼宮のあの言い草にゃ腹立つしな。キョンとうまくやれ。俺は応援するぜ」
「マジで余計なことしたら、一生彼女できないように呪うから」
「こえーよ?!」
騒ぎに気付かれ、俺たちは三人揃って体育館裏を逃げ出す。古泉がダメならせめて団員にしなさいって。まさか、マスコット同士でイチャイチャしろということだろうか。
それ、朝比奈さんが困って泣いちゃいそうだな。もしくは変に張り切りすぎて空回る未来が見える。ありありと見える。あの人ドジっ子属性だからなあ。いや、していいんなら全然イチャイチャするけどね。したらどうせ怒るんだろ。俺は詳しいんだ。
昇降口まで逃げてくると、キョンくんは水飲み場の影に座っていた。考えることは皆同じだ。
「お、キョンじゃねえか。なんだ、お前はここでサボってたか」
「お前らもか。まあ、岡部はうちのクラスだけ張り切りやがるからな」
「逆に贔屓だよねえ」
そう、一年五組の担任である岡部教諭の担当教科は体育である。なぜだか自分のクラスの男子には厳しいそうだ。熱血らしい教育理念があるのだろう。ここに来る前までは体力をつけなければと思ったものだが、いざ自分が学生になると昔と同じ授業態度に戻る。そんなもんだ。
俺は手で顔を仰ぐ。五月でこんなに汗だくになってたら、夏の体育はさぞかし地獄だろう。汗でべたべただ。なあ、ていうか、おい。谷口の方が絶対顔に出てると思うんだけど。お前、マジで何も余計なことすんなよ?
「なあ、芦川」
「んー?」
俺はキョンくんを視界に入れないように空を見上げていた。シャツをはためかせ、服の中に空気を送り込む。視界の端で彼がこちらを見ていることに気づいて、今度は違う種類の汗が出てきた。え? うそ、違うよね? いや、まさか。マジで気づかれてたら終わるんだが。俺がというより世界が終わるんだが?
「いや、なんでもない。行儀悪いぞ」
キョンくんは立ち上がると、俺の頭をぽんと叩いて先に走り出した。こん、なの……普通やるか? 同級生相手に頭ぽんするか? いや、やるのがキョンなんだよな。天然でやってるんだろうな、許せないんだけど、マジで。
ああもう、そんなの狡い。なんでそんなことするんだよ。好きになるなって言う方が、無理じゃないか。
その後は、もう午前中の記憶がまるでない。俺はひたすらに机に向かい、一生懸命ノートを取った。キョンくんにぽんぽんされた感触がまだ頭に残っていて、それを振り払うのに必死だった。
どうして谷口と国木田は俺の気持ちに気づいたんだろう。あいつらにわかるようじゃ、ハルヒにも簡単にバレてしまうかもしれない。それだけは避けないと。クールになれ、芦川ヒカリ。
そう、例えば兄貴ならどうする? あの人はどうしようもないキモオタだが、いつだって俺の指標だった。兄貴なら……どうもしねえよなあ。2秒で長門の匂い嗅いで逮捕だよあいつは。参考にならん。
まあ、昼になればとりあえず離れられるし、一旦落ち着けるだろう。
と、思っていたのに。古泉のやつ、クラスメイトに誘われたとかでそいつらと食うというメールが入っていた。まあ転校二日目だもんな。俺との変な噂や変なクラブに入っていることで、クラス内で孤立していないとわかっただけ安心なのかもしれない。クラスのやつとも仲良くした方がいいだろう。
そう、転校二日目なんだよな。色々なことがありすぎて、展開が早すぎる漫画を一冊読んだくらいの疲労感がある。やっぱりどうしても気になるんだが、転校二日でどうして谷口と国木田に気づかれたのだろう。マジでなぜだろう。もっとちゃんと否定しておけばうやむやになったのかな。
「ヒカリ、お弁当は?」
意外にも、ハルヒは古泉と一緒に食べないことを指摘してこなかった。
「あるよ。涼宮、卵焼き食べたそうだったから別に分けて持ってきた。お弁当一緒に食う?」
「あたし忙しいのよ。そんなちっちゃなタッパじゃなくてお弁当の方ちょうだい」
「涼宮、お前は舌切り雀のお話を知っているか」
「あんたは弁当箱にゴミとか虫とか入れて持ってきたわけ? 違うでしょ。中に入ってるのがいいものってわかってれば、そんなの大きい方を取るに決まってるじゃない」
「や~、そんないいものってわけじゃないけど~」
照れている内に弁当箱は奪われた。謎の頷きをしている谷口に手招きされ、俺は机をくっつけに行く。
なんだか、ハルヒがやたらに単独行動している気がするんだが、あれも逸脱事項ってやつなんだろうか。見張ってなくて平気なのかな。まあ、部室に行ってるなら長門がいるだろうけど。あ、時間軸的に今日は写真部か。じゃあしょうがないな。
「お昼とられちゃったね。キョンが購買に行ったから、頼めば一緒に買ってきてくれるんじゃない?」
「国木田。俺を甘く見ないでくれよ。このルートに入ることも予想してなかったわけじゃない。ちゃんとどら焼きを持って来てある」
「芦川、どらやきはご飯じゃないよ」
「六個もあるのに……?」
「六個あってもご飯じゃないよ。ちゃんと食べないともたないよ」
国木田までおかんみたいなこと言う。
「しょうがない。谷口」
「どら焼きと握り飯交換しろって? やだね」
「いや、俺の手作り卵焼きとそのいちご牛乳を交換してくれ」
「なんで糖を増やしにいくんだよ。減らせよ。せめてどら焼きと交換にしろ」
俺は谷口と等価交換したいちご牛乳にストローを差し込み、声を潜めた。くう~、糖分が染みわたる。
「これは後学のために聞いておきたいんだが、お前らはなにをもって俺のその、あれに気づいた?」
「ああ、まだ自覚ないんだ。まず呼び方が違うよね。キョンだけくん付けだし。口調も柔らかいよね。格好つけたいんだなあって思う」
キョンくん呼びに関しては反論がある。俺は初めてキョンくんをテレビ画面で見た時、ほんの10歳だったのである。妹ちゃんと一番年が近かったのだ。キョンくん、と呼ぶのは全然普通だった。それを説明するわけにはいかないが。
が、それはそれとして「格好つけたいんだなあ」が思いきり胸に突き刺さった。く、悔しいがその通りだ。いや、だって、憧れのアニメの主人公だぞ。ここで滑降つけなくていつつけるんだよ。
「あとな、キョンへのリアクションがでけえ。お前一回キョンと話してるときの自分の顔、鏡で見てみろよ。めちゃくちゃ挙動不審だから。こっちとしちゃ、潔く告ってみろよって思うぜ」
「谷口は自転車で轢かれるとしたら、上半身と下半身どっちがいい?」
「どっちも嫌に決まってんだろ!?」
「谷口はバイト先の男に言い寄られたらどうする?」
「バイト辞める」
「忌憚なき意見をありがとう。下半身にする」
「なんでだよ!?」
自転車買わないとなあ。
俺はどら焼きを二つに割って口に放る。つぶあんがほどよい甘さで口当たりもさらっとしていて食べやすい。噛み応えのある栗が触感にアクセントを加えており、皮はしっとり蜜が染みて、ふっくらとしている。
親戚が職場からもらってくるお土産とかお中元とか、そういうののグレードが高いバージョンって感じ。絶対皇室御用達だ。うまい。
「よくどら焼き5個も食べられるね。僕なら見てるだけでもたれちゃうよ」
「我が家では和菓子は俺以外好きじゃない。優先的に俺に割り振られるんだ」
「じゃあ、独占できるから好きなの?」
「え? うーん。そんなこと考えたことないな。そういうことじゃないと思うが。まあ、得ではある」
「ところで芦川は魚好き? 僕は好きなんだけど」
国木田は確か、魚の小骨を上手に取れるみたいな器用で細かいという設定ではなかったろうか。あれ違うっけ。同人設定とごっちゃになってるか? しかし、国木田の問いは一体なんなんだ。なんかの心理テストか? 勝手にサイコパスですとか言われて笑われるのは好きじゃないんだが。とりあえず、素直に答える。
「うん。干物とか好きだよ」
「それも、家族はあんまり好きじゃなくて一番に選べたの?」
「そう」
「それって、家族に遠慮して芦川が和食を好きになったのか、芦川が好きだから家族がそういうことにしてるか、そういう可能性もあるよね」
なんだなんだ。お前まで古泉や朝倉のような腹芸を好むのか。ああ、でも確か国木田ってうちのクラスの中じゃキレモノの立ち位置だったな。
「……俺は今叱られているのか?」
「いや、ただ僕なら身内に遠慮されたら気持ち悪いな~って思っただけ」
そんなこと、考えたこともなかった。
まあ、家族が俺に好きなものをあげようと思ってみんなでそういうフリをしているっていうのは、無い話じゃないかもしれない。それを享受しているのって、甘えていることになるんだろうか。家族も本当は和食が好きで、なのに俺を優先してくれていたんだろうか。今となっては、尋ねる術もない。
俺はどうだろう。誰しも「それって本当に好き?」と聞かれると自信がなくなるものじゃないだろうか。特に好きな食べ物とかって、突き詰めていくとそんなに意地張るほど欲しいとかじゃなかったりしないか? そりゃ、あれば嬉しいけど絶対食べたいとか、譲りたくないとか、そこまで思うことってなかなかないと俺は思うけど。
だから、もし家族が和食が好きなら。俺に譲らないで、言ってほしかったとそう思う。なるほど、国木田が俺に伝えたいのはそういうことらしいが、前提として俺は好きな和食を分けることに抵抗はない。その辺、また別問題なのか?
「じゃあ、国木田はどうなんだ。そのブリの照り焼き、絶対俺にくれないのか」
「どら焼きと交換ならあげるよ。見てたらおいしそうに思えて来たから」
「むむむ」
「芦川は、欲張りなのか決められないのかわかんないね」
「俺はいきなり切り込んでくるお前の方がわかんないよ」
「ただのどら焼きの話じゃない。君の大事なSOS団? だっけ。その団員をちょうだいとか、言ってるわけじゃないんだからさ」
そういう発言は様々な組織にマークされるから気を付けた方がいいぞ。結局、国木田はなにを言いたかったんだろう。
「それもそうだ。どら焼きはくれてやる。だが俺はどら焼きを諦めたわけじゃない。そのどら焼きは最弱。第二第三のどら焼きが待ち受けている」
「さては芦川眠いね?」
なんでわかった。
実は、こっちに来てから何時間寝ても眠いのが続いている。授業は頭に入ってこないし、今こうして話していることも忘れてしまうのでは、と思うくらいに、話し相手がいないとぼんやりしてしまう。
俺は正真正銘ガチのハルヒオタクで、五年前に去ったジャンルであるにも関わらず、ほとんどの情報を頭の中から芋づる式に引き出せる──はずだ。しかし、実際は逸脱事項とかいうのを抜きにしても、いくつか見落としている場面がある。特に、席替えのこととかな。
毒気を抜かれる部分もあるのだが、朝倉のことは警戒しておくに越したことはない。俺のせいでキョンくんに何かあっては困る。かと言って、過度に気にしている態度をとれば「俺が知っている」ことを悟られて、対策を練られてしまうから難しい。
国木田のほぐしたブリを口に運ばれつつ、俺は考える。考えてばっかりだけど、それしかやれることがない。
そもそもキョンくんとはどうにかなるつもりもないし、こんな風に青春しているわけにもいかないのが実状だ。が、ハルヒは異世界人とも遊びたがっているわけで、俺は全力で遊ぶことも仕事の内なのだ。どうしろってんだよ。なんか、古泉の苦労がわかったような気がした。
「お前らどら焼きの話でなんでそんなシリアスになれんだよ」
「芦川、真顔で見られながらぱくぱく食べられると怖いよ」
「ああ、ごめん。実は引っ越しの片づけだなんだで忙しくてな。ゲームをやってると寝る時間もない」
「ゲームをやめて寝なよ」
ところがそういうわけにもいかない。サブスクでどこでもアニメが見られるわけでもないのがこの時代だ。そういうところは、アニメの放映時期に合った歴史を刻んでいるらしい。オタク路線でキャラの強化を試みると決めた俺は、暇があれば自分の世界になかったゲームを消化するのもまた課題の一つなのである。
なにせ俺の唯一持ち合わせているキャラ立ちだ。ありとあらゆるアニメや漫画の知識に精通してるくらいはやり遂げなければ。授業の方はまあぶっちゃけ、進級さえできればいい。オタク知識を得ることの方が先決なんて、おかしな学生生活だよな。
「なんだ国木田、ひな鳥にエサをやるバイトでも始めたのか」
がたん、と椅子を引いてキョンが隣に座る。俺は慌てて口を閉じ、国木田は俺の口にひょいひょい運んでいた箸を引っ込める。キョンくんに子供っぽいと思われただろうか。違うんです。これはいつも兄貴が俺の口に食い物を入れてくるから、つい、癖で。
やっぱり俺って、家族に甘えて生きてきたのか? そりゃそうだよな、フリーターなんかやって、月にいくらかしか入れないで住まわせてもらって、しかも好物は優先してもらっていたかもしれない。これで自称大人って片腹痛いって話だよな。
なんて反省していたのに、キョンの肩がぶつかって呼吸が止まる。思っていたんだが、この机って小さいよな。みんなで机を寄せて飯を食うとなると、かなり至近距離になってしまう。普通の席順でもだいぶ近いのに。
そうそう。俺は教室の机って、二列づつの川になっているのが普通だと思っていた。けれど、この教室では机が等間隔に並んでいる。だから、佐伯さんと近くてキョンとはちょっと遠い、なんて距離感でいることができない。
体育の後に着替える時なんて、自分から汗の匂いがしないか気になってデオドラントペーパーを大量消費してしまったほどだ。いや、別に佐伯さんには臭いと思われていいってことではなくてね?
昨日に至っては教科書を見せてもらってる間のことがほぼ思い出せないもんな。キョンくんが近くにいると真面目な思考が中断されて困る。これ、今ご飯の最中なのに制汗剤がきついなんてことないよな。
ああもう、なんでこんなこといちいち気にしないといけないんだ? リアルの人間はこれだから面倒だ! ゲームで匂いに言及されるのなんて、身だしなみのパラメーターが赤くなった時くらいなのに。俺はなんとか深呼吸をして、どら焼きを頬張る。
「キョンよお、聞いてやってくれよ。こいつ、涼宮に弁当取られちまって菓子しかねえって言うんだよ。可哀相なやつだぜ」
「へふにほまへひはひふいふぇふぁいふぁふぁ」
「行儀が悪い。飲み込んでからしゃべりなさい」
キョンが俺の頭に手刀を落とす。ねえ、ちょっと、気安く触らないでもらえますか!? 気が狂いそう。俺は急いで口の中のものを飲み込み、谷口を睨みつけた。
「別にお前に泣きついてないから。ふざけるなよ谷口。必ず調べ上げてお前が主催する合コンすべてに古泉を送り込んでやる。と言った」
「伸びてね? つか当たり強くね?」
「ほらよ」
キョンがコロッケパンを俺の前にずらす。代わりに、何も言わずにどら焼きを拾い上げた。狡い。もう、全部狡い。わーっと大声をあげてこの戦犯を突き出したい。皆さん見てください、この男は狡いんです。
なんなんだそれは。全校生徒を落とす気なのかキョンくん。これじゃあハルヒがいつでも不機嫌になるわけだ。本当に全部無意識なんだろうか。恐ろしい男である。
「カツサンドかやきそばパンの方が良かったか?」
「いや、そんなことはない。嬉しいよ、キョンくん」
「芦川って……俺に対してはどこか態度が違うよな。俺、なんかしたか?」
「えー? いや……なにも。キョンくんは人が嫌がるようなことはしないからね」
「そうかい。コロッケパンは転校祝いだとでも思っておけ」
国木田の格好つけてる、という指摘が頭の中でぐるぐる回る。自然に、自然に。自然ってなんだ。ナチュラルに? ネイチャーに? 男子同士の会話ってどうやるのがネイチャーなんだ。ラノベやギャルゲなどがベースになっているので、多分普通の参照場所がおかしいんだけど。語尾にそれと便座カバーとかつけるのが正解なのか? 絶対違うよな。
うーん。そうだな、キョンくんはツッコミキャラだ。ここはボケつつも、古泉ほどねっとりしておらず、それでいて俺からの好意が漏れないように気を配ろう。しかし印象が悪くなったりはしない程度の細心の注意を払って、谷口を見本に「なんだかんだ嫌われない」明るいキャラクターを作成していこう。
いや、待てよ。今のってどら焼きを持って行ってるから等価交換になってるよ。転校祝いのプレゼントになってないだろ、が正解だったんじゃないか? まったくキョンくんめ、ボケもできるとはなんたるテクニカルプレイだ。そういうことは先に言っておいてくれよ。感心している場合じゃないんだけど!
脳内で、城壁を守る兵士たちが城に攻撃をしかけてきたキョンくんに反撃する術を練る。俺としては弓矢辺りがいいと思います。距離と高さはアドバンテージになるからな。
「ありがとう。家に持って帰って大事に飾る」
「いや食えよ」
ダメだこりゃ。武具の手入れを怠っていたらしい。弓矢がへし折れてるじゃないか。反撃不可。だが反論はある。推しからのプレゼントなんて、棚に一生飾るものだろうが。食うの? 今? 意味わからん。もったいなっ!
あ~、どうしよう。キョンくんは俺の態度が変だと気づいているっぽい。鈍感だから内容まではわからないにしても、やっぱり気を引き締める必要がありそうだ。ただ、俺もSOS団の一員ではある。距離を取りすぎてギクシャクすれば、団の雰囲気にハルヒはかならず気づく。
あいつはあいつで、身近な人間がみんな仲良くしていることを望んでいるんだよな。素直じゃないけどね。
「お前が涼宮のお守りをしてえってんなら、体力は付けた方がいいぜ」
「彼女パワフルだもんね」
「涼宮を引き合いに出されると、食べないわけにはいかない」
「嫌々食うな。いらんなら返せ」
「やだ! です!」
「なんで敬語なんだ」
コロッケパンにかぶりつく。おお、キョンくんがツッコミを入れた。つまり今のは自然な会話だったってことだよな。隣のキョンくんは急いでパンを食べる俺を、頬杖をついて妙にあたたかな目で見ている。それはどこか、兄貴が俺を見る時と似ていた。
ああ、そうかと思う。彼も妹がいるんだよな。これは妹を見る目なんだ。そういう思いやりでもって、俺と接してくれているんだ。でも、俺って見守らないといけないほど、そんなにそそっかしいんだろうか。それとも、これもハルヒが望んだ後輩属性とかなのか? ないない。年上なのに。
「卵焼きもらうぞ」
「ウェ」
「おお、食えるな。うまい」
俺に言っておきながら、キョンくんは親指と人差し指で卵焼きをつまむ。うえ~~~~~~~ん、惚れてしまう~~~~~~! 心を殺すために、俺は無心でコロッケパンを食い進める。なんなんだよ、タダてこんな接待を受けるなんておかしいだろ。振り込ませてくれ。推しアイドルのファンミかよ。人間の心拍数って一生で決まっているらしいんだけど、早死にしろってこと?
「急いで食うとつっかえるぞ」
「へいひ」
「だから食いながら喋るな」
キョンくんはポケットティッシュを取り出して俺の机に置く。そのくらい俺だって持ってるのに、なんだかなあ。こういうのって脇腹がそわそわする。大事にされているみたいで照れくさい。
てめえ谷口なんだよその目は。
「ありがとう。借ります」
「あーもう、ソースそこじゃねえって」
見当違いのところを拭いていたのだろう。谷口はティッシュを二枚程引き抜いて、俺の口を拭いている。バカ野郎! そこはお前キョンくんがやるところだろう! 引っ込んでろ! いや、実際そんなことされたら、教室中の注目を集めながら突然卒倒しかねないんだが。教室が鼻血の海に染まる光景、ギャグ漫画ではよく見るけど普通に引くだろうな。
クラスの中で俺がわんぱく弟ポジションに納まったのは、はたしていいことなのだろうか。
「ヒカリ~~! あんた、あたしの話全然聞いてないわね!」
なんておとなしく谷口に世話をされていると、ハルヒが滑り込んできて電光石火のごとく谷口の手からティッシュを奪い取った。谷口は危険を察知した野生動物のように距離を取り、身を丸める。ハルヒはというと、手に持ったティッシュを俺の顔に押し付けて皮膚をめくる気かというほどの力で拭き始めた。やめろ。顔中がソースの匂いになる。
「別に、あんたがどんなアホと食事したっていいわよ。でもね、谷口だの国木田だの、こんなやつらと仲良くさせるために役職を与えたんじゃないの、あたしは!」
「え。俺いつ役職もらったの」
「ずっと言ってるでしょ! ヒカリはうちのメイン広告塔なの。あんたを目印に、そりゃあもう色々なやつらが集まってくるはずなのよ。霊とか、新種の生命体とか、危険な宇宙人とかドジっ子未来人とか! なんかのあやしい機関とかでもいいわ。そういうのがあんたに引き寄せられてコンタクトを取ってきて、そこをあたしがとっ捕まえるのよ」
「そのマスコット的役割、朝比奈さんじゃなかったか?」
「全っ然違うわよ。みくるちゃんは、事件を呼び込むための萌え要素!」
「あー、イベント発生のマークを頭上に出してるキャラか」
「そういうこと! まずはみくるちゃんのかわいさにあらゆる謎が興味を示すのね。それで、その謎に引き寄せられて出てきたやつらを相手にするのがあんたの役目。うまーく話を引き延ばして、宇宙人とか未来人とか超能力者なんかと協力関係を結び付けるのよ。で、あたしがひっ捕らえて一緒に遊ぶことに同意させるわ」
ひっ捕らえるて。当たらずとも遠からず、というか近すぎるくらいで、俺は心中で肩を震わせる。キョンの業務も俺に割り振られている気がするがそれが役職つきの運命なのかね。吸引力が変わらないただ一つの目印になっているのはハルヒだ。でも、実際にその機関がコンタクトを取ったのは俺で、見事に捕まえられて入団することになったのが昨日の出来事。
残念ながら不思議な出来事ではなく、朝比奈さんは男子の注目を集めているわけだが、それでも実際に「彼女が引き金」になって事件が起きることだって間違いなくあるわけだ。
俺だって現在見知った勢力の全てと協力関係になってると言えばそうだ。実際にネゴシェーター的な役割を担っているのはむしろ向こうの代表者で、古泉や長門や朝比奈さん。俺は要請を受けた基、注意勧告を受けただけなのだが。
ああ、因みに霊はコンタクトしてこないでくれ。出来れば危険な宇宙人もな。
「だいたいわかった」
「完全にわかりなさい。まあ、でもあんたの萌え要素を発掘しきれていないあたしにも問題はあったかもしれないわね。ショタか、男の娘か、後輩系か……可能性があるのは悪いことじゃないんだけど」
妹系でいえば、キョンの妹がいる。あと、長門も結構妹系だと思うけど。一応俺も兄がいるので妹系だ。後輩系、とも言えるのかもしれない。まあ、お前たちよりは年上だからそういうムーブになるかは別としてね。
「ゲームや漫画が好きな近所のお兄さん系とかじゃダメなのか?」
「寝言は寝て言いなさい。なに? あんたゲームとか好きなわけ? うーん、オタクかあ。属性はちょっと弱いわね」
頑張ってるのに!
「オタクは弱そうという偏見は受け入れられないな。オタクは一定の範囲内なら知識もあって強い。つよつよだ。だいたい、バニーのコスプレとかだってオタク文化の一端だと思うけどね」
「そういう言い方がオタクなのよ」
おわーーーー! 因果を捻じ曲げて心臓に直接届く! 貫かれた胸を抑える俺を、ハルヒはしげしげと上から下まで眺めた。
「まあ、たしかにオタクもギャップと思えばいけるかもしれないわね。わけわかんないことべらべら喋られたら、UMAも怯むだろうし」
やだなあ。UMA相手に早口で捲し立てるオタク。
「許可するわ。コンピ研とかアイドル研究部とか、漫研とか、そういうとこと商談する時に使えそうだしね」
「それって本当に商談か? 脅迫とかじゃなくて?」
「あたしだって鬼じゃないんだから騙し取ったりしないわよ」
嘘つけ。部室にあるPCは二軒隣から強奪したやつだろうが。お前がさっき行ってたのもどうせ写真部で、デジカメをパクってきたんだろ? 俺にその手の嘘は通用しないぞ。
「ファ?」
ハルヒは唐突に俺を抱きしめた。え、いきなりこんなラブストーリーが始まることある? それともバックドロップとかされる前振り? 俺は身体中に力を入れながら脳天への衝撃に供える。と、思いきりケツを掴まれた。
「ちょっと、セクハラです!」
「おとなしくしてなさい。バニーの衣装が入るかの確認よ」
「着るわけないだろ! 布面積のこと考えろ!」
「どんなコスだったらするのよ」
「えー。やっぱ軍服とか、袴とかかな。白衣眼鏡キャラも捨てがたいけど」
「そういうのあんたに求めてないから。やっぱバニーよバニー。あんた絶対似合うから。金髪だし」
頬ずりしてくるハルヒの肌が柔らかい。距離が近すぎて、俺は瞼を閉じて顔を逸らしてやりすごす。恋人もいなかった俺が、こんな風に思いきり抱き締められたのって何年振りなんだろうか。多分、子供の頃に家族にされたくらいだと思う。
女子同士のスキンシップって、べたべたくっついているように見えて案外さっぱりしているものなのだ。さすがに我慢の限界だというほどにもみくちゃにされて、俺は恥ずかしくてハルヒの両肩に手を置いて精一杯身体を離す。
「おっ、おい。近すぎるって。そういうのは好きな人とか、女の子同士とかだけでしていいスキンシップだぞ」
ハルヒが、信じられないものを見るような目をしていた。首がひりひりと痛む。
「そのくらいにしてやれ」
「なによ、あんただってヒカリにバニー、似合うって思わないの?」
「男がそんなもん着せられたらトラウマになっちまうだろうが」
キョンとハルヒの痴話喧嘩になって、俺はその場からそうっと抜け出す。スマホが震えていた。廊下に出て、声を抑えて着信をとる。首のところがちりっとすると、閉鎖空間発生の合図らしい。まだ二回目だから統計が取れているわけじゃないけど。
「古泉。もしかして……」
『お察しの通りです』
「どうするんだ? この場合」
『大丈夫です。小規模なので、みなさんの方で対処してくださるそうで』
「そうか。すまないことをした」
『なにか、怒らせることを?』
「うん……ちょっと」
『困りますね。我々としては、できるだけ涼宮さんには追従していただきたいのですが。因みに、今回はどのような受け入れられない事態だったんですか』
「バニーガールの服を着るよう言われた」
『……まあ、いいんじゃないですか。お似合いだと思いますよ』
「言ってくれるよな。お前はそういうポジションじゃないからってよ」
『ああ、ここは嫉妬すべきだったかもしれませんね。衆目に晒されるあなたを見るのは耐えられない。二人きりの時以外、過度な露出は控えてください、というように』
「お前、それハルヒの前でも言えんのか」
『ではこうしましょう。今僕が言ったことを理由にしてしまうのです。幸いにも涼宮さんは僕とあなたのことを応援してくれていますし。むしろ、ご機嫌を窺えるやもしれません。それでは、クラスメイトに呼ばれているので。失礼』
終話された。お前から一本メールでもなんでも入れれば済むことなのに、なんで俺が言わなきゃいけないんだよ。
頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜたかったが、ハルヒが結んでくれた髪なのでそうもいかない。俺は意を決して教室に戻り、言い合いを続けるハルヒとキョンくんに自棄になって割って入った。
「……涼宮!」
「なによ? 観念した?」
「いや、古泉が……その……」
「なによ。はっきり言いなさい」
「ええと……バニーはよくないって……」
「なんでよ。古泉くんにとってもいい案じゃない。あんたのかわいいコスが見られるんだから」
「だから……その、ふ、二人じゃないと、って」
「もじもじしてないで言いなさい!」
殺せ~~~~~~~~~~~~~~!
「古泉が! 二人きりの時以外過度な露出はやめろって! 言ってた!」
「あんたたち、二人の時そんなすごいことしてんの? 節度を持ちなさいよ」
「するか!」
「なによ。そんなんじゃ恋のABCのAもまだそうね」
ふう、とハルヒは溜息を吐いた。
「ヒカリを独占する権利はあたしにあるんだけど、まあ、わかったわ。しょうがないわね。バニーは諦めてあげる」
ありがとう。でも恋のABCのAがバニーコスはハードルが高すぎないか。どんな領域の恋愛論なのだそれは。普通Aは手を繋ぐとかだろ。いや、それは古泉とはしたんだが。したんだが恋愛とかではなくて。ていうか今さりげなく俺の人権、ハルヒに握られてなかったか? キョンくんをちらと見れば、とんでもない憐みの目でこちらを見ていた。好きな人にされる視線じゃないんだよな、これ。
でも、ハルヒが来てくれて良かった。あのまま谷口や国木田に見守られながらキョンくんと過ごすのはそこそこに地獄だったからな。天国過ぎて逆に地獄になることを学べた意味では有意義な時間だったのかもしれないけど。
とりあえず、俺は谷口を轢く専用の自転車を買うと決意した。
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