芦川ヒカリの憂鬱Ⅰ 12


 ぴぴぴ、と電子音が鳴る。フローリングの硬い床で起き上がった俺は、音に導かれるように寝室に向かった。機関ってのは目覚ましの時間まで設定して帰ってくれるのか。細かいところもまでよく気が利くもんだ。

 ぼんやりとした頭でリビングに戻れば、DVDはその巻の最期まで再生し終わったようで、画面は真っ暗だった。あんなことになって、昨夜流しっぱなしにしたアニメは途中から記憶がない。

 どうして機関は俺がオタクだと知っていたのか、という疑問がまた湧いてくる。俺の趣味や趣向、食べ物の好みに至るまで把握するというのは、はっきり言って長門たち宇宙側よりもある意味じゃ情報強者であることを意味する。


 俺がオタクだったのはもう何年も前のことだ。そんな昔のことを、この世界にいなかった時間の俺を、どうして森さんは知っていたのだろうか。もう漫画やゲームにときめかないのに、今さらあんなに大量に渡されてどうしろっていうのだろう。

 というのは杞憂で、実は昨日部屋に入った時にゲームや漫画を目にして、久しぶりに妙な感覚があった。最近感じなかった「コンテンツに触れる前のワクワク感」みたいなものが胸を引っ掻いてきたのだ。こういう、持て余す感情にも戸惑ってしまう。なんで急に心境が変化したんだろう。涼宮ハルヒなんていう大人気作品の当事者になったことが、俺になにか影響を与えているのだろうか。それとも、肉体が若返っているから?


「喜ばしいことのはずなんだが……」


 欠伸を噛み殺して、昨日着たままだった制服を脱ぐ。シャワーを浴びて寝室に戻り、壁に掛けられていた別の制服に着替えた。長門が用意したものに比べてジャケットのサイズが大きい。どうやらその辺りの情報は森さんに行ってないらしい。どういう基準なんだろうか。機関の協力者とかいうやつは一体何者なんだろう。そこのところ、いつか掘り下げた方がいい気もするが、今じゃない。

 帰ってきたら長門のくれた制服の方は後でアイロンを当てないとな。せっかくもらったのに寝巻にしてしまって、申し訳ない気持ちだ。

 

 昨日は部屋の中を詳しく見られなかったが、クローゼットにはエプロンなんかもあった。それを使って食事の支度に取り掛かる。中には私服もいくつか既に収められていた。パーカーやらジャージやら、俺が普段家で着ているようなラフな服が多い。なんかシュシュもいっぱいあった。この青いのにしようかな。鏡の前で髪をまとめて、縛る。

 さて、おかずは6つもあればいいだろう。ご飯は半分は混ぜご飯にしておくか。古泉が昨日怒って帰ったにしても、ハルヒに俺の手作り弁当を食えと言われれば食わないといけない。ハルヒのことだ、さすがに初日から手抜きじゃ文句をつけてきそうな気がする。

 そう考えると、猶更自分の発言は愚かだったと思う。例え俺と仲が悪くても、あいつはハルヒの手前、俺のことが好きなフリをしなければならない。その提案に乗ったのはあいつの勝手だが、機関に所属している以上そうせざるを得ない古泉に対して、俺が非協力的な立場になってしまったのは良くなかった。

 一応、朝食にホットケーキも焼こう。食べるかわからないけど持っていくつもりだ。俺はつっかけサンダルを履いて、深呼吸を一つ。扉を開いて、隣の部屋の前に立つ。チャイムを押そうとした瞬間、自動みたいに扉が開いて、額にクリーンヒットした。


「エンッ」


 なんで顔を扉で叩かれるんだ。判断が遅くても手なんだぞ。扉ってことないだろ。額をさすりながら、そういえば手が空いていることに気づいて、地面に視線を移した。あーあ、ホットケーキも落っこちてしまった。尻餅をつく俺に、扉の操り主である古泉が目を見開く。こいつもこいつで、もう制服を着ている。律儀にも迎えに来たのだろうか。罪悪感がハンパじゃない。


「すみません、大丈夫ですか?」

「うん……」


 古泉は手を差し伸べてくれた。ムカついた相手にも外では柔和な態度を取らなきゃいけないなんて、やっぱり大変だよな。でも断るのもおかしな気がして、俺は迷いながらもその手を取る。


「あの……昨日はごめんね。なんか、そっちの事情も考えないで好き放題話しちゃったりして、余計なお世話っていうか……」

「え? ああ、もしかして、返信を見ていないんですね。と、それよりも。朝食を……すみません」


 俺を軽々と助け起こした古泉は、通路に転がったホットケーキと割れた皿を見て眉を顰めた。いや、今のは事故だしお前が謝ることじゃない。


「……返信?」

「はい。とりあえず先に片付けてしまいますね。中に入っていてください。少し散らかっていますが」


 古泉の携帯を押し付けられ、ドアを開かれる。有無を言わせない態度に、俺は縮こまりながら部屋にお邪魔することにした。散らかってるイメージなんて、ないけどなあ。

 なんというかまあ、想像以上にシンプルな家だ。カーテンは紺色、全体的にモノトーンを基調にした、シックな内装である。物が全然ない。その割に本棚はごちゃごちゃしていて、パジャマがソファーに脱ぎ捨てられている。なるほど、これだけこざっぱりしていると、ちょっとでも散らかると目につくわけだ。

 男の子の部屋って、みんなこんな感じなんだろうか。兄貴は比較にならないけど、たしかに服をそのままにはしておかなかったかもな。作中でも古泉の私生活は全然描写されていない。オタク的には貴重な資料だが、能天気に写真を撮るような場合でもない。

 そういえば、携帯を渡したということは見ろということだよな。失礼してメールを開く。あいつは返信って言ったか? 俺、寝ぼけて昨日のメール送っちゃってたのか。


『こちらこそ、何も言わずにお暇してすみませんでした。人に叱られるのも何年かぶりで、どう答えればいいかと悩んでしまいました。でも、嬉しかったのは事実です。ああいうことを言ってくださる友人に恵まれたことは幸いに感じます。よろしければ、これからもよろしくお願いします』


 なげえ。いや、メール文化の頃ってこんなものだったかもしれない。俺はその文面を指でなぞり、もう一度読む。これからもよろしくされてしまった。

 と、古泉がそんな俺を認めて声を掛けて来た。


「なにかよい知らせでも?」

「……まあな」

「ご容赦くださいね。なにぶん、こういう交流は久方ぶりで」

「いいよ、許す」


 あんまり謝っても古泉も困るだろう。俺はちょっと尊大に返した。


「ありがたき幸せです。しかし驚きました。あなたもホットケーキ、とは」


 よく驚く奴だ。古泉の目線を追えば、リビングのテーブルに黒めの物体が皿に乗せられて置かれている。心なしか部屋も焦げ臭い。メシマズキャラは流行らないぞ。でも、俺も最初に焼いた時は失敗したな。俺の場合は逆に生焼けで、兄貴が腹を壊したんだっけ。


「……お前、あれをホットケーキと呼ぶ気か。可哀相な小麦粉だろあんなん」

「意外と難しいものですね……」

「まあ、もったいないから食うけどさ」


 止めに入る古泉を無視して、俺は少し冷えたホットケーキを口に運ぶ。まあ、苦みがあるのはご愛敬ということでメープルシロップをかければどうってことはない。生焼けに比べればうまいもんだ。古泉は俺を見ると苦笑して、自分も手製のホットケーキを切り分けて食べ始める。まずそうな顔すんなよ、こっちは我慢してるのに。

 そうしてしずかに食事を終えると、古泉は二人分の食器をシンクに片付ける。後ろ姿を見て、俺は思わず吹き出した。


「あはは、なにそれ! どんな寝方したらそんな寝癖つくんだよ」

「え?」


 後頭部を撫でる古泉に、俺は腹を抱えて笑い続ける。一部分だけが勢いよく跳ねて、なんとも古泉らしくない髪型だ。そんな面白い頭で登校するつもりだったのかよ。みんな二度見するぞ。ちょうど手が届きにくいところなのか、古泉は確認に手間取っている。

 もしかして、いつでも完璧に見えているのは、毎朝ものすごい時間をかけてセットしているからなのかもしれない。意外だ。


「あーいい、いい。やるよ」


 洗面所からスタイリング剤とブラシ、ドライヤーを持ってくる。そして、椅子に座らせた古泉の髪を整えてやった。さらさらで羨ましいな。俺だって髪の毛はそれなりにケアしているつもりだが、元がいいやつはこれだから。

 スタイリング剤は無臭で、髪の匂いもあんまりしない。昨日はなんかいい匂いしやがるなと思ったが、香水はまだ付けてないんだろうか。付けたことないから、香水のタイミングとかしらんが。


「できた。お前みたいな髪質のやつは、ワックスを使わんでもナチュラルに決まっていいな」


 谷口なんかはバッチリとオールバックにしているもんな。あれはあれで、硬めの髪質も色々遊べて面白そうだが。昨日は終わった、とまで思ったもんだが、意外に仲直りは早いものだった。古泉の懐が広いのか、男の友情がそういうものなのかは、ちょっとわからない。


「……先生は」

「親と教師を間違うやつはいるけど、同級生と教師を間違うやつは初めて見るな」


 古泉は照れたような奇妙な笑い顔をする。どうやら俺は、たったの一日で古泉一樹という男の意外にも表情豊かな一面を見まくってしまったようだ。笑顔の種類で、微妙に見分けがつく。


「なかったことにしていただけます?」

「いいよ。貸し一個な」

「三ヶ月分の指輪で構いませんか?」

「お前は結局それを続ける方向でいくんだな。まあ、好きでやる分にはいいけどさ」

「ええ、楽しませていただいています」

「物好きなやつだ」


 時計を見る古泉に、俺も自分の部屋に戻って支度をせねばと思い立つ。その俺を、何やら湿度のこもった眼差しで古泉は見た。


「自分でもそう思います」


 なんの納得なんだか。俺から言わせて貰えば、SOS団なんかに所属している時点で全員とっくに物好きだと思うけどね。俺も含めて。




 さて。どの方向から登校してもこの長い坂を登らないといけないってのは、どう考えても深刻な立地ミスである。俺は朝一番に待ち受ける試練に辟易とした気分だった。これが毎日続くなら登校拒否もあり得るが、団員がハルヒに無断で欠席したらどんな憂き目に遭うかわかったものじゃない。

 俺はため息をつきながら、仕方なく激坂攻略戦に着手する。さすがに古泉に押してもらってたらおばあちゃんだよな……。やめておこう。


「おはよう、芦川くん」

「あ、芦川くんだ。おはよう!」

「うん、おはよう」


 クラスの女子たちが話しかけてきた。大野木さんと成崎さんだ。隣の古泉も笑みを広げて会釈する。わかる、わかるぞ。これは営業スマイルだな。


「そうそう、昨日は失敗しちゃったから。好きなテレビ番組を聞くね」


 この答えは用意してあるので、俺は頷いた。登校中にスマホを駆使して、テレビ番組の内容をあらかた調べておいたのだ。どういう番組かなんて、見なくてもある程度は答えられる。

 それともう一つ。機関がなぜか用意したオタク快適部屋がやっぱり気になる。なので、いっそこれからはアニメや漫画を積極的に見ていこうと思う。今なら情熱を取り戻せるような気がするし、それらを消化していく内に機関の意図も見えてくるかもしれない。

 あと、脱オタしたって言っても根はオタクだから、多分会話の端々やノリなどに拭えない痛さやキモさも出るに違いない。オタクキャラを通していきたいと、そう思う。


「ん。金曜やってる商品貰えるクイズのやつと、深夜アニメかな」

「芦川くんアニメ見るんだ。金曜のってあれだよね。イケメン芸人が司会者の」

「そうそう。結構雑学多めで面白い」


 わかるー、と大野木さん。まあぶっちゃけまだ見てないけど。ちらっと調べた感じではイケメン芸人と言われてもまあ普通だった。隣にもイケメンがいるので価値観がバグってるのかもしれない。三次元にこの顔いちゃダメだろと思うんだが、この世界がそもそも二次元なのでで、芸能人なんかはレベチだ。古泉よりもカッコいい奴がゴロゴロいるらしい。

 京アニ作画で人類のベース顔面がいいからよくわからん。国木田や谷口だってだいぶ顔は整っていると思うんだよな。

 俺ってもしかして金髪で女顔の男だからキャラの存在感を保てているのではないか。女だったらモブに埋もれるから、男にしたんですか。どうなんですかハルヒさん。やっぱりオタクでキャラ立ちしていくしかないんですかハルヒさん。


「芦川くんの髪ってすごく綺麗だよね」

「ほんと? 気遣ってるから嬉しいな」

「シャンプーってなに使ってるの? シュシュもかわいい。どこで買ったの?」


 しまった。気を遣っていると言ったのに自分が今朝使ったシャンプーは知らん。なにせ大抵の物は機関の支給品だ。シュシュも知らん。どこで買ったんだこれ。

 この質問に、古泉がひょいと顔を出す。なんでこいつはこんなに距離感がぶっ壊れているんだ。実は海外育ちなんて設定があってもおかしくないくらいだぞ。ないよな? っていうか、昨日と同じ香水の匂いがするってことは、俺と一旦分かれてからつけたのか。香水って出る前にやるんだな。

 でも、なんだろう。昨日よりもほのかな香りに感じる。量って毎日変えるんだろうか。


「シャンプーは海外製のもので、ネットであれば注文できますよ。シュシュは駅に隣接したデパートで購入しました」

「なぜお前が答える」

「簡潔にお答えしますと、シャンプーは僕と同じものだから。シュシュは僕が選んだものです」


 また嵌められてるじゃねえか! お前海外のシャンプーとか使ってんのかよ腹立つな。いや俺も今や同じなのか。ああ、だから古泉の髪の匂いがあんまりわかんなかったのか。クソどうでもいい伏線をありがとう。しかし、デパート? そんなもんいつ行った。

 古泉は耳打ちする。


「購入したのは森さんですがね。写真を見て選んだのは僕です。本当ですよ」


 どうでもいい事を話すためにどうでもいい顔を近づけるんじゃない。肩を組んで仲良しアピールをする古泉に女子たちはきゃいきゃい騒ぎながら「応援してるね」なんて言って先に走って行った。

 あーあ、俺のクラスメイトまで腐女子になっちゃったよ。なんでどいつもこいつも勝手に俺たちの仲を応援するのかね。それって古泉を応援してるだけだよな。俺の事を応援するやつだっていてもよくないか? これが顔面偏差値の力なのか? 力が……欲しい……。


「よお、お二人さん。朝からやってんなあ」

「おっさんみたいな挨拶だな」


 んだとお、と反論したのは谷口だ。


「すごい噂になってるよ、芦川たち。涼宮さんのクラブ活動に入ったこともそうだけど、9組の女子から二人のことが広まってるみたい」

「草です」

「朝っぱらから暑苦しい。道を塞ぐな」

「あ、キョンくん。ごめんね。おはよう」


 国木田とキョンも合流だ。なにを人事みたいに。どうせ谷口も国木田も巻き込まれることになるのにな。今に見ていろ。

 俺は古泉を引き剥がす。


「芦川よお、お前も災難だよなあ。転校早々涼宮に捕まっちまうとは運のないやつだ」

「残念だが谷口。芦川はどっちかっつーと涼宮に毒されてる側だ」


 キョンくんは溜息を吐いて、俺をじとっとした目で見た。その指摘は意外にも鋭い。俺はハルヒの世話を焼きたくて、流れ星に願い事をしてここまで連れてきてもらったくらいなのだ。花丸大正解。


「まーね。せっかくの高校生活だから、変わったことやる方が面白いとは思うよ」

「まあ、俺としちゃ女子人気高めの二人が戦線離脱でありがたいけどな」

「へー俺って人気あるんだ」


 作画のおかげだろうけど。


「てか俺と古泉が離脱したからと言って谷口がモテるの? 俺が弱くなったからってお前が強くなったわけじゃねーだろ」

「なにをう!?」


 谷口は肩を組んで、俺を擽りにかかる。ちょ、お前、そんな距離感で。いや、待てよ。男子のやりとりってそういうものか? そうかもしれない。あーこれ、なんか今めっちゃ男子っぽいかもしれない! これはこれで、学生生活を楽しんでいる感じがする。俺はおとなしく擽られておいた。うひゃひゃ、と変な笑いが出たところをキョンくんに見られて恥ずかしい。思わず両手で口を塞ぐ。


「やめときなよ谷口。彼の前でさ」

「構いませんよ。何も思わないわけではありませんが、最後に僕の元へ戻ってきていただければ」

「ラオウか?」

「ラオウか?」


 まずい、こっちの世界に北斗の拳があるか知らないまま反射で喋ってしまった。と思ったものの、まったく同じツッコミをキョンくんが入れたので俺は溜息を吐く。そうか、ハルヒ世界にも北斗の拳はあるのか。なるほど。そしてキョンくんは知っているのか、なるほど。よくよく考えれば、アニメで声優が放ったアドリブはキョンくんが心の中で思っていることに反映される。つまり、ガンダムとかもあるし、詳しいんだな、キョンくんよ。

 いやあ、まさか憧れの人物とハモれるとはなかなかに良質な体験だ。微笑みかけてみよう。昨日はあまり話せなかったし。ハルヒがいない時くらいならいいかな。


「なに笑ってる。こっちを見るな」


 完全に古泉扱いを受けた。そうだった。今や俺も変なキャラ付けをされていて、しかもハルヒ信者なのも見抜かれていたのだった。ちょっとショック。

 八つ当たりってわけじゃないが、俺は未だ絡んでいる谷口を押し除けた。持ってきた紙袋が潰れそうになったからだ。

 紙袋ってなんだよ、と思うかもしれないが、実は昨日スーパーでプレゼントになりそうなものを探しておいたわけで。スーパーでかよ、というのは言いっこなし。


「つーか、さっきから気になってたんだけどよ。その花柄ピンクの袋はなんだ? まさかお前……マジに女だったのか?」

「ピンクが女って偏見もおっさんくさいな。朝倉に礼だよ。昨日教師連中に口利いてくれたらしいからな」

「マメだね。そういうの朝倉さん喜ぶんじゃない? 芦川のことだいぶ気にかけてるしね」

「羨ましいことだぜ。あーあ、俺も転校して来りゃあな」


 国木田と谷口は他人事だと思って好き勝手に言う。俺はお前らのように変わった女に魅かれる趣味はないんだよ。いや、ちが、ハルヒは別だし。とにかく、あの凄味のある笑顔で四六時中見張られたいってのなら、いつでも代ってやる。今すぐ押し付けたいくらいだ。


「マジに女も何も、お前ら昨日俺の上裸見てるだろ」

「それなんだよな。いくら女顔でもお前は男だからな。すまん」

「なんでフられた今。屈辱すぎるんだが」

「実際の話どうなんだ。朝倉、お前に気あんじゃねえの? もしそうだったら嫉妬しそうだ」


 谷口はまた肩を組む。距離感が近いのは北高独自の文化だろうか。


「ないない。あれは委員長だからってだけの優しさだ。いざこっちがその気になったら、ごめんなさいそんなつもりじゃなかったのって申し訳なさそうに言われてプライドがへし折られるのは目に見えてる」

「おいリアルな想像やめろよ」

「すみません、お二人とも。僕はともかく」


 唐突に古泉も顔を寄せてくる。なんかの談合かよ。


「この光景を涼宮さんに見つかると、あまりよろしくないかもしれませんよ」

「げっ、涼宮に目つけられるのはごめんだぜ」


 古泉の一言で、谷口は大袈裟に俺から距離をとった。こいつ人をバイ菌みたいに。いや、俺ってよりかはハルヒに対してか? どちらにせよ許せん。あんなかわいいバイ菌がいたら人類が滅びるでしょうが!

 しかし、嫉妬ムーブに見せかけていざハルヒと登校時間が被った場合の対策も立てる。古泉ってやつは嫌味なくらい優秀な団員である。

 まあ、いいさ。そのうち谷口もサブの団員として目をつけられるんだ。精々今のうちにバイトと合コンを謳歌しておくといい。俺は谷口に手を合わせた。


「因みに芦川はどの女子が一番イケてると思う?」

「そんなもん涼宮一択だ。長門も朝比奈さんも好きだけど、一番は涼宮だな」

「キョン、お前の言った意味がわかるぜ」

「だろ」


 俺たちは駄弁りながら校門をくぐる。男子五人、上履きに履き替えて廊下をぞろぞろ歩いて、教室の前。なんかいいな、こういうの。俺は爽やかに手を挙げて去ろうとする古泉を呼び止めた。


「おい、弁当」

「本当に作ってくださったんですか」

「涼宮が作れって言ったら諦めて作った方が早い。抵抗するだけ無駄だ」

「おかげで僕はあなたの手作りをいただけて幸せです」

「安い幸せだな。どうせ一緒に食えって言うだろうし、後で連絡する」

「おや、では楽しみにお待ちしています」


 古泉と俺のやり取りを、溜息を吐いてキョンは鑑賞し終わる。


「お前は涼宮がやれって言ったらなんでもするのか? あの素っ頓狂にいつまでも付き合うことはないぞ。なんなら今からやめたっていい」

「俺が団にいると嫌? 場合によっては役に立つかもよ、俺」


 なんせ朝比奈さんのお墨付きだ。俺はいずれ、戦力になれる日が来るらしいからな。それとも、もしかするとキョンくんとしては美女軍団から男子の数を減らしたいのだろうか? だとすると、期待には沿えない。


「そうは言ってないだろ。お前は涼宮に甘すぎる。意味わからんだろ、急にくっつけなんて言われてもよ」

「古泉とのあれは、まあ新感覚漫才と思ってるから。キョンくんが嫌じゃなきゃ、団は抜けないつもり」

「そうかい。お前も……」

「んー?」

「……なんでもない」


 お前も長門みたいなトンチキな理由があるのか? と聞こうとしたのだろう。順番的に、俺がその話をするのはきっともっと後だ。それとも、お前も涼宮が好きなのか? かな。そっちなら、答えはイエスだけど。

 俺は何を言っているのかわからないフリをして、教室の扉を開く。ハルヒはまだ登校していないようだ。朝倉が俺の姿を認めて、ぱっと花が咲くように笑う。ああ、きた。先制攻撃でさっさと終わらせよう。


「おはよう朝倉。これ」

「おはよう、芦川くん。ええと……なあに?」


 朝倉は俺の渡した紙袋をのぞき込む。わくわくしたような表情も、弾んだ声も、いかにも人気者の女の子だ。怯みそうになる。


「俺が居眠りしたの、先生に頼んで見逃してくれたんだろ。昨日の礼。こういうのでいいのかわからんけど」

「わあ、かわいいマスコット。お花を持ってるのね」

「うん。一輪、造花がついてる。あと、飴が何個かのボックス。好きじゃない?」

「ううん、嬉しい。なんか悪いな。こんなにしてもらっちゃって。鞄につけてもいい?」

「好きにしたらいいんじゃないか」

「お花はクラスに飾らせてもらうわね。本当にありがとう」

「こちらこそ」

「そういえば涼宮さんのクラブに入ったのね」

「ああ。気づいたらそうなってた。クラスのやつらともそれなりに打ち解けたし、色々世話かけたな」

「委員長だもの。当然よ。それに、芦川くんとは気が合いそうだから、わたしがおしゃべりしてみたかっただけ」

「どうかな」


 谷口が脇腹に軽いパンチを入れてくる。やめろ。違うって。あと男子のパンチ普通に痛い。

 朝倉には悪いが、俺とお前が気が合うなんてことはあり得ない。なにせ俺はハルヒ教団の狂信者みたいなもんだからな。そのまま谷口に面倒な事情聴取を受けそうだったので、俺は近くの机に腰かけていた瀬野さんに声をかける。


「おはよう。毎日三つ編みしてるの? 大変じゃない?」

「あー、芦川くん、おはよう。これ簡単なんだよ。教えてあげようか」

「教えてもらっちゃおうかな」


 女子たちの輪に入って髪の毛をいじってもらう間、俺は美容室の客みたいに目を閉じて成すがままになる。好きなんだよなあ、ヘッドスパとか。男子の視線が痛いけど、俺だってたまには女子の輪に交じってもいいだろう。女子だし。

 そうやって歓談しながら過ごし、サイドに一本三つ編みを作ってもらって一緒に写メを撮っていたら、ちょうどハルヒが登校してくる。


「あんた……髪の長さあたしと同じくらいなのね」

「おはよー涼宮」

「そんなことはどうでもいいのよ。髪型変えるならあたしに一言言いなさい。キャラのポジションってのがあるんだから。どうせやるならうなじを出しなさいよ。セクシー路線を目指すとか、あるでしょ? 自覚を持ちなさい自覚を!」


 躾けのできた犬のようにハルヒの席に寄っていくと、ハルヒは鼻を鳴らして着席した。髪の長さがこいつと同じなのは、ずっとこの髪型だからだ。ハルヒのことを初めて見て、大好きだと思ってから真似してる。そんなこと恥ずかしくて言えないけど。


「ふーん。じゃあやって」

「甘えてんじゃないわよ。ったく、しょうがないわねえ」


 ハルヒは鞄からリボンを取り出す。その手つきは意外にも優しくて、なんだか姉妹でお洒落を楽しんでいるような、不思議な感覚だった。しずかな教室に涼しい風が吹き込んでくる。


「どういうのがいいの?」

「うなじが出る方がいいんだろ」

「ふうん。じゃあポニーテールね。ああもう、長さが微妙に足りないじゃない」


 ハルヒは俺の髪を纏めて小さなポニーテールにすると、細いリボンでくるっと結ぶ。


「ほら、この方がさっぱりしていいじゃない」

「おー。普段あんまり上で結ばないからいいかも」


 ポニーテールか。キョンくんが好きな髪型だよな。

 つい気になって彼を見ると、眉を寄せて難しい顔をしていた。すまんな、萌えヘアーをしたのが俺でさ。ハルヒや朝比奈さんの方が良かったろうに。

 今日一日このまま過ごすように言いつけるハルヒは満足げで、俺も幸せな気分になる。古泉に言っておいてなんだが、俺も安い幸せだ。


 ずっとそんな時間が続けばいいのに、非情にも授業が始まる。隣の席を見ればキョンくんはそっぽを向いていた。シャーペンをくるくる回して、失敗。かたん、と机に落とす時に小さく「うお」と呻く。

 俺はそれを眺めている。意図せず笑みが零れる音を聞いて、キョンくんがこちらを向く。見られていたことに気づいて小さく舌打ち。照れくさそうに、腕で顔を隠す。

 五月の日に照らされるキョンくんの手の甲が眩しい。握ると意外と大きいことを、昨日知った。男の人の手なんだよな。さわさわと短い髪が風に揺れている。耳が赤い。かっこいいなあ、と思う。

 前から配られたプリントをハルヒに渡す時、少し腰を浮かして取りやすいようにしているところなんて、すごくやさしい。隠れて欠伸をしたら、それがハルヒと同じタイミングで眉を顰めるのがかわいい。

 シャーペンの芯を出し過ぎて机に散らかしたり。あ、襟足の長さがばらばらだ。隣の席だと、キョンくんを見ているだけで時間が過ぎていく。見ていないフリをしながら、時々盗み見てしまう。だから古典の授業はぜんぜん頭に入ってこない。

 このまま、また好きになってしまったら困るなあ。ハルヒだって嫌だろう。キョンくんにはいい迷惑だ。俺は男なわけだし。いや、でも男で良かったのかもしれない。キョンくんは女子には甘いから、俺にも優しくしてくれたことだろう。そうしたら、ハルヒはきっと怒る。

 うん、やっぱり、このままでいいや。俺は机にうつぶせた。見るからいけないんだよな。


 体育の着替えは女子が奇数クラス、男子が偶数クラスに移動する。のんびり移動の準備をしていた俺は、ハルヒに捕まって出遅れてしまった。さすがに女子と一緒に着替えるわけにはいかないというのに、ハルヒは「あんたはいいでしょ」と訳の分からない理論を展開。困惑する俺を見て、何人かの女子は「別にここで着替えてもいいよ」などと言っていたが、まったくマジで俺が男だったらどうする気なのだ。

 で、這う這うの体で偶数クラスの扉を開けると、ちょうどキョンくんがネクタイを解くところだった。


「これ以上いけない」

「は?」


 キョン君は不審な顔をしていたが、俺はそのままカーテンにまっすぐ歩いて行ってくるまることにした。そこで隠れてごそごそと着替える。出て来た俺を見て、谷口が肩を叩く。


「あるある。パンツがダサい日だろ」


 アームロックをキメた。


 女子は体育館でバスケらしい。その間、男子はなぜか意味もなく何度も校内マラソンを走らされる。俺はいかにも二本走りましたという顔で周回遅れを誤魔化し、体育館裏で座り込んでいた。

 着替えの時はしくじってしまった。明らかに変に思われたよな。いずれは男子の中で着替えることに慣れないといけない。いや、でも、キョンくんの肌とか見ていいのか? 俺は成人、向こうは未成年。これって犯罪じゃないか?


「よう、芦川。お前も女子を見に来たのか」


 声をかけてきた谷口には目もくれず、体育館を眺めている。美しい流線形を描いて、ハルヒの放ったボールがリングに吸い込まれていった。スリーポイントが入ってしまうなんて、さすがは涼宮ハルヒだ。


「まあ、団員としては涼宮の活躍を見ないとな」

「サボりの言い訳だよね」


 国木田も合流。汗を拭いながら、階段の段差に座る。俺と谷口も横に座った。


「いやー、朝倉にあんだけ言い寄られて涼宮ってのが、お前がおかしな団に入ってる理由って感じだぜ。マジで」

「言い寄られてねえって。別に、俺朝倉に興味ないもん」

「じゃあ古泉なのか? 古泉だっていうのか? 顔が良けりゃ何でもいいのかお前と言うやつは」

「揺さぶるなっつーの」

「いやあ、違うでしょ」

「……まあ、だよなあ?」


 谷口にヘッドロックを掛けられながら、俺は含みのある言い方に二人を見上げる。


「お前、どっちかっつーとキョンだろ」

「そうそう」


 呼吸が、止まるかと思った。なんで、どうして。俺の何がいけなかったんだ。なんで気づかれた。谷口なんかに。動揺してる場合じゃない。スマートに否定しないと。そんなわけないじゃんって、言わないと。

 だって、俺はキョンくんのことなんか、全然好きじゃないんだ。本当だ。神に誓う。

 神に──ハルヒに誓って。俺は、そんな思いは抱かない。

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