芦川ヒカリの憂鬱Ⅰ 2


 ──制服を着た少女が立っていた。


 その少女は、いるのかいないのかわからないくらい現実離れした存在感でぽつんと佇んでいる。今にも浮いてしまいそうな、重さを感じさせない小柄な身体で。

 漫画みたいな話だが、俺は一度瞼を擦った。なにせ、彼女は点滅する電灯に菫色の髪を照らされながら俺の後方10メートルくらいの位置で微動だにしないで立っているのだ。

 Vtuberを見たことがあればわかるかもしれないが、呼吸をしていると人間ってのは微妙に揺れるもので、それがちゃんと再現されているからあの技術はリアリティがあるんだと思う。何を言いたいかと言うと、だからそいつの髪や服が風の要素以外で全く動いていないっていうのが、思わず俺を硬直させた。一瞬頭を過ったのは「幽霊」という単語だ。そんなわけない、と頭を振る。そんなわけはない。幽霊なんているわけがない。だから、冷静に現実的な思考にシフトすべきだ。

 制服を着ているのだから学生か。補導されかねない時間だが、まあ今時そういう子供はいるだろう。遠目でもわかる。美少女だ。

 グロやホラー映画よりも、夜道にいる美少女の方が実際に会うとビビるだなんて、一体誰が信じてくれるだろう。信じてくれないかなあ。


 なんて、実のところ問題はそこじゃない。その少女は現実の色彩感覚にしては妙に明るい髪と鮮やかな制服を纏っており、それが、どう見ても──。


「長門……」


 その姿はSOS団の眼鏡担当少女に、よく似ていた。後に残念ながらキョンの一言によって眼鏡が奪い去られてしまうが──俺には大いに眼鏡趣味がある──読書キャラで、実は宇宙人。

 そんな長門有希の「コスプレ少女」が夜更けに徘徊しているなんて事実には、いやはや恐れ入った。これぞ現実的な思考。ありえない事実を排除した先に、真実というのは鎮座している。

 少女は可憐だ。本当にめちゃくちゃ可愛い。こんなにさらさらのウィッグって存在するのかというほどの細い髪。丸い頭に、透き通るような肌。まつ毛も長く、ふっくらとした口は小さくてお人形さんみたいだ。これがイベント会場なら絶対に写真をお願いしていたと思う出来映えである。セーラー服も自作なら本当にすごいと思うし、買ったにしてもよくぞそんなにピッタリなのを見つけたって感じだ。なんと言ってもその足の細さ。長門のコスプレをするための真に迫るストイックさだ。

 俺の言葉に頷くだけで返すところもまた「それ」らしい。完成度高けーなオイ。

 で、夢にまで見た眼鏡時代の長門との邂逅に俺がどうしたかと言うと、


「いやあ寒いですね~。じゃ、お気を付けて」


 逃げた。

 だってそうだろ。逃げるだろどう考えても。コスプレ少女が後ろから追いかけてきてたとかどんな状況だよ。これが主人公属性の男子なら、なにかここから始まるボーイミーツガールがあったのかもしれない。だが、女だ。

 百合も読むには読むけど、いや、あれだけ可愛ければさすがにアリかなってくらい本当に可愛いのだけど。だからこそ逃げなければならなかった。人間というのはよくできてるよ。危機回避能力が発達している。せいぶつの ちからって すげー!

 平凡から抜け出したいってこういうことじゃないんだよな。常識的に考えて、美少女がコスプレしてバイト帰りの成人女性に絡むことはない。今までなかったからない。言い切る。ない!

 よって「ヤバイ」のだ。なにがヤバイのかまでは考える余裕は今の俺にはこれまた、ない。走ってるからな。自分より痛い人間を見た時の反応としてこれは正しいのだろうか? わからない。文学美少女と関わったこともないわけだしな。

 なんで俺がハルヒオタクの同類だってわかったんだ。やっぱり香るのかな、オタクの匂いって。帰ったら読書より先にシャワーを浴びよう。


 久方ぶりの全力疾走。冷たい酸素が肺を突き刺している。最近運動してなかったから、学生時代より足が遅い。ちょっと健康のことも考えていきたい。これからは。

 俺は振り返る。ベタなんだけど、ホラーやパニックもので追いかけられた時に振り返るのは「部屋に戻らせてもらう」とか「ゴーストなんて斧で一発だぜ」と同義で、フラグである。なにが言いたいかと言うと、つまり俺は選択肢に失敗したのだ。

 肩で息をしながら、膝に手を置く。少女の姿を確認しようと顔をあげて──、さっきまで荒かった呼吸が、一瞬で止まった。


「っ……!」

「長門有希」


 鼻がつきそうな距離に顔があった。少女の大きな瞳はブラックホールが如く吸い込まれそうなほどに暗く、同時にそれこそ星空を落とし込んだようにきらきらと輝いている。俺は動けない。思考を先回りされるような自己紹介に返事も叶わない。辛口声優オタクの俺をして、ここまで似ている人はいないであろうと思わせる、涼やかな声がすぐ近くで聞こえている。


「二分四十一秒前」


 長門(仮)は唇が触れ合いそうな近さで話し始める。俺は本当にびっくりして、辛うじて飛び退くように一歩下がることができた。


「あなたがこちらに干渉してきた。これは三年前と同じ時間。一秒の誤差もない」

「ちょっと待て。まだ近い」


 長門(仮)は俺の指摘に言葉を切り、律儀に無言を貫く。わかったよ、お前は強ぇ。鈍ったとは言え足が遅いつもりはなかったんだけど、何をしても逃げることは不可能だと悟った。ローファーでそれだけ走れるなら大したものだ。陸上で全国行ったクチか?

 まあ、いいよ。もう諦めた。明日から連休だから、こっちから折れてやろう。それだけうまくコスプレできたら人に見せたくなるだろうし、シーンの再現くらいしたくなることもあるのだろう。動画とかをアップされるのは困るけど、セリフの読み合わせくらいなら付き合うよ。これも縁だ、俺もセリフの暗唱には自信がある。本当はちょっと冷えるしファミレスにでも避難したいけど、未成年を連れ歩くわけにもいかないだろう。いや、制服のコスプレをしているから未成年ってわけでもないのか?


「この辺りに住んでるなら知ってるかな? さっき走ってきた方に公園があってさ。座って話そうよ。どこで聞いたか知らないけど、俺もハルヒには一家言あるからね」

「ない」


 なんだなんだ。自分の方がハルヒシリーズに詳しいってか? まあ、確かに俺は少しばかりジャンルから離れていたが、そんなことをこいつが知るはずもないだろう。長門コスでそういうマウント取られるとちょっと解釈違いだ。うわ、この脳内セリフ厄介だな。面倒くさいオタクにもほどがあるだろ。

 俺は長門コス美少女の頭上に腕を伸ばし、人差し指を立てる。自動販売機の光を、あそこだと示すように。その手を、無垢な瞳で少女が見上げた。

 そして、すぐさま俺の腕からは力が抜け落ちてしまった。


 ない。


 自動販売機がない。


 そんな長距離を走ったつもりはない。そもそも、ここは直線の一本道だ。街灯の少ない夜道では、あの光は眩しくて然るべきだ。いや──。


 ある。


 街灯がある。

 等間隔に設置された街灯が「緩いカーブ」を描いた川沿いを明るく照らしている。

 待て、川沿い? 川沿いだ。護岸工事の施された「見覚えのある」道。見覚えはあるが、先ほどまで「歩いていた道」ではない。どうして見覚えがあるかって、そりゃ……当然、だって、聖地巡礼で何度も来た──。

 夢遊病にしたって歩きすぎだ。いや、確かに俺は夢遊病の素質があったんだが、そういうことじゃなくて。頭の中がひっちゃかめっちゃかにかき混ぜられた気分だった。これから具合が悪くなるとわかった時みたいに、痺れるような頭痛がする。

 拳を握れば掌が白くなる。そういえば、いつのまにか冷たい夜風も感じない。アスファルトに転がる砂利はスニーカー越しに地面の硬さや段差を伝えてきて、いよいよ俺は混乱極まった。数十秒前まで、ハルヒオタクに引き戻したい兄貴が寄こした刺客くらいにしか思っていなかった少女が、俺のなにかを劇的に変えてしまった気がする。


 よもやよもや、だ。いくらなんでも食傷気味だろ。今更すぎる。あんなにずっと待ってたのに、今まで来なかったじゃないか。異世界転生ものなんてやり尽くされていて、新しさは何もない。

 いや、トラックには轢かれていないし、電車にも轢かれていないし、誰かを庇って刺されたりもしていないところを見ると、異世界召喚の方が正しいんだろうか。にしたってさ、ちょっとこれはないって。

 スマホをちらと見る。圏外。ネットは繋がらないし、電話もかけられない。ラインもツイッターも開かないし、アプリも起動しない。嘘だろ。つい先日30Kつぎ込んでまだ育ててない星5キャラとかいるんですけど。脳内で兄貴が腕を組んで俺を見下ろした。スマホの力を過信したようだな。うるさい。


「こっち」


 長門そっくり少女が歩き出した。状況は理解しただろうとでも言いたげに。俺は妙な歩きにくさを感じながら、咄嗟にその手を掴んだ。子供みたいに小さく細い手だ。しっとりと柔らかい肌。手首はとくとくと脈打ち、じわじわと熱がこちらに伝わってくる。温かい。


「信じて」


 なにも感じていないような純黒の瞳がまっすぐに俺を見た。この少女は、先ほどまで体温すらなさそうだった少女は、たしかに生きていた。

 信じてと言われて信じる程、俺はお人好しではない。どちらかと言えば疑り深くて、友達も多い方じゃない。信頼できる人をあげてくれと言われると、誰の名前を言っていいのか、少し考えてしまうくらいに。

 それでも、涼宮ハルヒの憂鬱ってお話では長門有希はとても頼れるやつなんだ。そいつが一番最初に現れたのなら、これが夢だろうがおかしな現実だろうが、俺は彼女の後ろを行くべきなんじゃないのか。そして、もしもこれが夢ならば。


 それこそ、楽しんだっていいんじゃないだろうか。


 どうせ疑うなら、長門じゃなくて自分の頭を疑う方がよっぽどいい。しずかな声も、小さな背中も。歩き出す彼女のセーラー服の襟がちゃんと揺れているのも。俺はそれを信じたい。

 だって、俺はずっと出会いたかった、仲良くなれる宇宙人じゃなくてもいい。整合性の取れない夢でもいい。この後で騙されて酷い目に遭ったって、そんなのは仕方がない。

 眠る夢でも、思い描く夢でも、どっちにしたって俺はずっと心に引っかかっていた。ハルヒの世界に俺がいることの方が普通で、そうじゃない現実の方がおかしいんだって、誰かに言ってほしかった。

 例え立ち位置がモブでもいいから、SOS団を一目見てみたかった。たまに、巻き込まれてみたかった。


 そこら中から春の匂いがした。長門の手を離すと、彼女はまた何事もなかったように歩き出す。これは目が覚めたら終わる、儚い現実の見せた温情なんだろう。いつまでもあの頃の願いを引きずって、現実をちゃんと見れないでいた俺への、お目こぼし。なにが脱オタクだよ。本当にできているなら、こんな夢を見て泣きそうになるわけがない。

 さほど歩かない内に辿り着いた見覚えのあるマンションも感慨深い。長門は玄関口のロックを外してガラス戸を開くと、淀みない動きでエレベーターに向かう。押されたボタンはやはり七階だ。俺はどきどきしながら何も言わない彼女の横に立って、揺れるエレベーターの回数表示を見つめた。


「708号室?」

「そう」

「誰もいないんだっけ」

「そう」


 オタクの言いたがりを発揮すると、せっかくの長門のセリフを短くしてしまう。俺はそれきり余計なことは聞かないで、彼女の部屋にお邪魔した。

 殺風景な部屋にはコタツ机が一つ。カーテンはなく、カーペットもない。あ、一回入るのを躊躇っておけば、長門の「中へ」が聞けたのに惜しいことをした。

 俺が悔しがっている間、長門は廊下に棒立ちしていた。その瞳がどうかしたのかと問うている気がして、俺は慌てて顔の前で手を振った。いや、原作を再現してほしかった、とかちょっと気持ち悪いよな。なんでこう、夢って思い描いた通りに運ばないんだろうか。


「いや、なんでもないよ。おかえりのハグみたいな文化はないのかなって思っただけ」

「おかえりのハグ」


 誤魔化したつもりが復唱されてつらい。俺は一層慌てて中に入るが、長門はそのまま突っ立っている。これはあれかな。茶も出ないのかこの家は、と同じような文句を言ったと思われているのだろうか。だとしたら最悪だ。それに、お茶が出てくることを俺は知っている。


「き、気にしないで。いや、興味あるならハグするけど」

「ある」


 あるのお!? 冷や汗を流しながらロボットみたにぎこちなく長門に近づく。そして相変わらず歩きにくいまま、長門の目の前に立つ。いやはや、想像よりやっぱり小さい。ハグなんてしたら折れてしまいそうだ。

 もちろん、長門に「今のなし」とそう言えば引き下がってくれるのだろう。そこまで強い興味とは思えないし、長門は人が嫌がることを強要するようなキャラじゃない。けれど、彼女は水先案内人だ。この夢を歩くなら、彼女のアシストは不可欠だろう。

 そしてなにより、長門が興味のあることが俺にできることなら、俺はやってあげたい。こんな小動物みたいな女の子が独りでずっと飾り気のない部屋にいたなんて、やっぱりダメだと思う。彼女にとってそれが苦痛でなくとも、初めて家にあげた──笹の葉ラプソディのことを思うと違うんだろうけど──相手の言うことを信じちゃうような純粋な女の子を放っておくなんて。

 俺は長門の眼鏡を外すと、背中に手を回してぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。彼女の頬が首元に当たる。やっぱり、ちゃんとあたたかい。長門はされるがままになっている。ぐでんぐでんのぬいぐるみを抱きしめているようだが、呼吸も脈拍も感じる。いや、これ本当に夢だとするとクオリティ高いな。もしも起きて兄貴に抱き着いてましたってオチなら窓から飛び出しちゃうんだが。


「ええと。これが、おかえりの挨拶」

「そう」

「まあ、挨拶の方法なんて、情報でいくらでも知ってはいるんだろうけどさ。あのー、朝とかも挨拶でやることはあるっていうか……なんかごめん」

「へいき」


 とはいえ、この挨拶の方法は欧米圏では普通かもしれないが、日本の一般家庭ではあまり聞かない話だ。なんだかものすごく恥ずかしいことをしている気がしてきて、俺は長門の頭をくしゃくしゃにかき混ぜながらべらべらと喋る。不意に長門がじっとこちらを見上げてきた。小さいとはいえ、身長にものすごく差があるわけではないんだなあと思いつつ、俺は彼女を解放した。

 長門はさらさらの髪をくしゃくしゃにしたまま、彼女の性格をそのまま反映したような無機質な部屋の中に進んでいく。


「寒くないの?」

「別に。座ってて」


 涼宮ハルヒシリーズをご存じのみなさんにはお察しの通りだが、俺はこの後に長門の出す「わんこそば」ならぬ「わんこ茶」を振舞われて、お腹がこぽこぽ言い出すと同時にようやくストップをかけることができた。

 先の展開がわかっているなら牽制しておけばいいのに、と思われるかもしれないが、目の前で「飲んで」「おいしい?」を繰り返すロボットみたいな美少女に誰が簡単にもういらないなどと言えるんだ。悪意なんて微塵もない相手だからこそ余計に厄介なんだぞ。

 そんなわけで、限界までは飲もうと決め、その限界がきたのでご馳走様を告げた次第だ。そうして俺は、まるで原作沿いドリーム小説の主人公みたいにキョンの言葉を諳んじた。


「お茶はいいから、俺をここまで連れて来た理由を教えてくれないか」


 端的に言うと、俺は気持ちが逸っていた。

 モブでもいいとは思いつつも、自分にどんな特殊設定があるのだろうかと少し浮ついていた。だって、さすがにモブを家にあげる長門ではない筈だ。俺の夢ならば練りに練った最強の設定に出迎えられることは必定と言って差し支えない。そいつを引っ提げてSOS団の活動の最中に思わせぶりに登場してみたいじゃないか。もちろん、用務員とか購買のお姉さんとかで実は背景に映り込んでいました的なのもいいわけだが、とにかく早くすべての話を聞いて、朝になって、登校時間になってほしかった。


 この夢が醒めてしまう前に、みんなに会いたかったのだ。


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