第32話

 おそらく、わたしは放心状態で床の上に座っていたのだと思います。まだ日は暮れておらず、相変わらず強い雨が降り続いていました。

 突然、バチャバチャと激しい足音を立て、何者かが玄関を塞ぐようにして現れました。逆光になったそれは、足が生えた黒い塊でした。

「いる!? カラスの守護者!」

 女性の声で叫んだそれは、室内に数歩入って崩れ落ちました。枝と草を編んだ蓑のようなものを頭からかぶっていて、茶色く汚れた手脚で床の上でもがくと、泥のようなにおいがしました。

 わたしは思わず立ち上がり、異様な人物を見下しました。握りしめた蝶形骨が手のひらを刺しました。

「なんだお前」

 わたしの声に彼女は蓑越しに顔を上げると、わたしの名前を呼びました。

「わたし、アダレイ」

「あ、アダレイ」

 汚れた顔と、体を覆ったゴミなのか服なのかよくわからない代物は、男か女かも判断できないようなありさまでしたが、特徴的な顔のあばたは判別できました。

「生きてたんだ」

「あの人は?」

「いない」

「どうしてよ!?」

「それは、あの」

「わたしは山の上のほうで暮らしていたんだけど、落石がすごいし、地鳴りもしてるの。みんな避難したほうがいい。村長の家とか、ほかの家にも行ってみたけど、こんな見た目だからこわがられてしまって、誰も聞いてくれなくて。あの人ならみんなを従わせられるかと」

「あの人は、タリアを村に帰しに行った。今は村にいる」

「じゃあ、行ってくる」

「山崩れかなにかが起こるの?」

「わからないけど、起こってからじゃ遅いでしょ」

「多分、みんな避難しないと思うよ」

 こんな雨の中、家を出ようとする人が何人もいるとは思えず、わたしはそう言いました。

「じゃあ、きみだけでも逃げて。お父さんとお母さんを連れて――」

「二人とも、もういない」

「あ、そう。じゃあ、このまま逃げて。山を下りながら、東へ向かうの。東側は岩が多くて、地面が丈夫なはずだから」

 わたしは半信半疑ながらも、アダレイと一緒に小屋を出ました。アダレイはすぐにも駆けだしそうな勢いでしたが、小川の前で立ち止まりました。激しく流れる水には、いつも顔を出している飛び石が見当たりません。川の太さもいつもの倍以上にはなっていたでしょう。

「あの人が村にいるってことは、あの人も異変に気づいたってことじゃない? もう、みんなに避難指示を出しているかも」

 草を編んだ粗末なサンダルをはいた足元の水を凝視しながら、アダレイは言いました。

「なにも言ってなかったよ。タリアを帰しに行くって言ってただけで」

 力尽きるとか太陽とか、あの人の言葉が頭によぎりましたが、口には出しませんでした。

「あの人なら気づいてるよ。だって、村の守護者だもんね」

 自分に言い聞かせるように言ったアダレイは踵を返しました。

「一緒に避難しよう」

 彼女は小屋の後ろ側へ小走りに駆けだしました。わたしは、村へ続く道、小川の向こうと、アダレイの獣のような後ろ姿を見比べました。一瞬迷った末、わたしは母の骨だけを握りしめ、アダレイのあとを追いました。

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