第31話

 村に戻ったくらいから、再び雨が降り出してきました。すぐに雨は本降りになりましたが、わたしは気にせず、家の物置からつるはしを手にして、もと来た道を引き返しました。

 雨が降り出したことで、みんな室内へ引っ込んだらしく、村の中には人影がなく、静まり返っていました。恐らく、母の遺体は村長の家に安置されていたでしょう。でも、わたしは母のそばにいたいとは思いませんでした。母はもういない。あるのは醜くなった抜け殻だけです。

 誰とも会わずに行けるかと思ったのに、あの小道の前には、木を編んでつくった傘を頭に載せたタリアがいました。まるでわたしを待っていたようです。

「なにしてるの?」

 わたしが間抜けに尋ねると、タリアは、「あんたをとめに来た」と、いつもと同じ調子で言いました。

「あの人に危害を加えるのは許されないよ」

「母さんの骨をもらいに行くだけだ。さっき忘れたから。あの変な形のものは、頭の中の骨で――」

「ほかの誰かではなく、あの人が殺したという証拠になる」

 タリアは知っていたのです。わたしは感心して見せました。

「さすがだね。どこで勉強したの?」

「ブンキさんと村長から教えてもらった」

「てか、ブンキさんって、どうしてあの人のことに詳しいの?」

「ブンキさんのおじいさんが、あの人を土の中から掘り出したんだって」

「土の中から……」

「みんなこわがったんだけど、ブンキさんのおじいさんとか、一部の勇気ある人たちが話したおかげで、あの人は守護者になったんだよ」

「どうしてだろうね。あの二人は、ほかの人にはあの人のことなんか全然教えないのに」

 役目を負っていたわたしにも、なにも教えてくれなかったのに。特にブンキさんは無口な人として知られていて、わたしたち下の世代の人とは話しているイメージがまったくなかったのに。

「教えてもらおうとしなくちゃだめだよ。ただ黙ってて、教えてくれるわけがないでしょ」

 タリアは、当たり前でしょとでも言いたげに言いました。

「そのつるはしはなに?」

 タリアの問いに、わたしは軽い口調で答えました。

「護身用。人殺しに一人で会いに行くんだからね。当然だよ」

「そんなもんで太刀打ちできると思ってるの?」

 さらに雨は強まっていて、いつもより声を大きくしなければいけないほどでした。

「さあね。タリアと違って、僕はあの人のことをなにも知らないんだから、わかるわけないよ」

 わたしはタリアを押しのけ、小道を行きました。

「わたしも一緒に行く。だからつるはしは置いて行って」

「なんでだよ」

「あんたを心配してる」

「お前、帰らないと家族が心配するんじゃないのか?」

「怒ってはいるかもしれないけどね」

「義理の親が?」

「みんな」

「優しそうな旦那なのに」

「臆病なだけだよ」

 わたしはそうやって普通に会話していましたが、心の奥は冷えていて、タリアと向き合おうなどという気は一切ありませんでした。口が勝手にそれらしい言葉を吐いているだけで、自分の中身はどんどん内側に沈み込んでいって、冷たく煮えたぎるようでした。

 水量が増している小川を飛び越え、わたしはノックもせずに小屋のドアを開け放ちました。

 あの人は、爪を研ごうとする猫のように、床に爪を立てているところでした。わたしとタリアを見る銀の目が薄闇に光ったように見えました。

「こんにちは。びしょ濡れですね。すみません、ここにはタオルがなくて」

 あの人は、本当にわたしを心配しているような口調で言いました。

 わたしは出鼻をくじかれてしまい、勝手に動く口に任せることにしました。わたしの本体は体の中に引っ込み、仮のわたしがわたしを演じてくれているような気分です。

「母の骨をもらいに来ました」

「そうですか。床下に仕舞おうとしているところでしたが、床板が開かないので、ちょうどよかったです。どうぞ」

 あの人がなにかに苦戦するとは奇妙でしたが、入ってきた時の様子からして、本当だったようです。あの人は、床の上の真新しい蝶形骨を滑らせるように前に持ってきました。

わたしはそれを拾い上げ、目の前に持ち上げました。濡れた手の上で、まるでわたしの目を見つめているような姿勢のそれは、母の姿とはまったく結びつかず、その見慣れない物体が母の体から出てきたということが深い断絶を感じさせ、わたしは思わずそれを取り落としてしまいました。

 わたしはそれを拾う気になれず、あの人を睨みつけました。

「なんだよ、これ。どうしてだよ。なんなんだよ」

 わたしはわたしを演じようとしたのに、それは一瞬で終わってしまいました。本当の私が出てきてしまい、そのわたしはひどく混乱していました。

「なんですか?」

 あの人は間抜けに訊き返しました。

 わたしの振り上げたつるはしは、あの人の腕に防がれ、軽くはねのけられました。

「やめて!」

 叫んだのはタリアです。あの人は、なにが起きたのかわかっていないような顔でわたしを見ていました。その時初めて、わたしはあの人が普段、自然に瞬きをしていたことに気づきました。その時は、瞬きがとまっていたからです。

 わたしは再びあの人につるはしを振り下ろし、今度はあの人が片手でつるはしの柄を掴んで受けとめました。

「落ち着いてください」

 あの人は、わたしのすべてを見透かそうとするように目を開き、平坦な口調で言いました。

 もともと戦う技術などないうえに、あの人にわたしの心が見えるとしたら、こんなことをしても無駄だとわかっていました。しかし、馬鹿なわたしは、ほかにどうしたらいいのかわからなくて、あわよくば、わたしのこの憎しみと怒りを受け取り、あの人が毒されればいいと思いました。理解することはなくても、ほんの少しでも、わたしの心を読むことで、なにかが受け渡せればいいと。

 あんなに、自分の気持ちを誰かに伝えたいと、誰かにこちらが望んだ気持ちになってもらいたいと望んだことはありませんでした。あとにも先にも、あんなになにかを望んだことはありません。

「心を読め!」

 叫んだわたしにあの人は、「読んでいます」と言いました。

「僕がなにを思ってるのか言ってみろ」

「あなたは、わたしを壊したがっている」

「そんなのは誰だってわかる。心を読めって言ってるんだよ」

「ほかに言葉にできるようなものは心に浮かんでいません」

「はあ?」

「本当にわたしを壊したいんですね?」

「心が読めるんだろ?」

「心のほとんどは混沌です。意志は、言葉にしないとはっきりとしません。もし、本当にわたしを壊したいなら、わたしはそれを受け入れます」

「壊したい!」

 あの人はつるはしを握った手を離しました。わたしが再び振り上げたつるはしは、あの人の眉間、カラスの翼の上の端に当たりました。

 わたしはあの人の上に馬乗りになり、顔にめちゃくちゃにつるはしを振り下ろしました。あの人の体は硬く、わずかにぬくもりを帯びていて、つるはしの先端からは、がつがつと硬い音がしました。あの人の黒い顔は、少しずつ色が変わってきました。いや、色が変わったというより、きらめきが内部から顔をのぞかせたと言ったほうがいいでしょうか。あの人の傷口は、開かれたドアから差し込むわずかな光を反射していたのです。その間、あの人の銀の目は、ずっとわたしを見ていました。真っ先に目をつぶさなかったのはなぜなのか、わたしにもわかりません。恐れていたのかもしれません。あの人自体を、もしくは、守護者であるあの人が消えることを。それとも、あの人の目の美しさを無視することができなかったのか。いずれにしろ、母を殺されて憎しみに駆られているというのに、わたしは臆病でした。極限状態に追い詰められても、自由に行動できていても、わたしはまだ怯えていました。

 その時、わたしは右肩に鋭い痛みを感じました。振り向くと、どこに隠していたのか、タリアが包丁を持って、わたしのすぐ後ろに立っていました。奇しくも、その構図は、父が息絶えた時の、父とわたしと母の構図と同じでした。刺された場所が違っただけで。

「なにすんだよ!?」

 わたしは、わけもわからず叫びました。タリアが、血のついた包丁を両手で構えている、タリアがわたしを刺した、その意味不明な事実が、一気にわたしを異常な興奮状態から現実に引き戻しました。

「壊すな」

 逆光になったタリアの顔はよく見えませんでしたが、こわばった体の線と切り裂くような声は、いつもの数倍不機嫌そうに思わせました。

「壊すなよ」

「刺したな? 肩を刺したな?」

 わたしは肩を上げようとして、走った激痛に怒りを再燃させました。

「ふざけんなよ。なにしてんだよ。頭おかしいんじゃない?」

「頭おかしいのはてめえだろ!」

 タリアは包丁を振り回しました。

「村の守護者になにしてくれてんだよ」

「タリア、こいつが嫌いなんじゃなかったの?」

「嫌いとか好きとか、そういう問題じゃないんだよ! 守護者の力はわかっただろ。わたしたちはなにもできない。子供がいたずらされても、食料がなくなっても、人が殺されても、なにもできないんだよ。村から出て行くことも、村に人を引き込むこともできない。なにもできないの。守ってもらうしかないんだよ!」

 タリアが話しているうちにあの人は上体を起こし、わたしの右肩に手を置きました。

「なにすんだよ!」

 振り払おうとしましたが、あの人の手は少しも動きません。岩を殴ったような感触でした。

 その一瞬あとに、あの人の手は離れました。あの人の顔が目の前にあり、わたしは、なにも液体が流れ出ていない、瞳と同じ色の傷口に吸い込まれそうな心地がしました。肩の痛みは嘘のように消えていました。

 わたしは立ち上がり、あの人とタリアを交互に見ながら、つるはしを構えました。はたから見れば、どちらを攻撃しようか迷っているように見えたかもしれませんが、わたしはもう、なにをどうすればいいのか、すっかりわからなくなっていました。

「あんたさあ、本当に馬鹿だよね」

 タリアは、わたしの血がついた包丁で、ぺたぺたと自分の頭の傘を叩きました。

「好きだの嫌いだの、殺しただの壊すだの、単純で楽だろうね。苛つくんだよ。あんたみたいなのはね、死んだほうがいいよ。どうせ、人に迷惑ばかりかけて、人を傷つけて生きていくんだから。父親とそっくりなんだから」

 わたしはつるはしを握り直しましたが、振り上げることはできませんでした。

「タリア、冗談だよね。タリアも嫌なことがいろいろあって、僕に八つ当たりしてるんだよね」

「どうでもいい。早く出て行きなよ」

 そう言われましたが、わたしは動けませんでした。

「出て行きなよ!」

「嫌だ。母さんの仇を取る」

 このまますごすごと出て行ったら、タリアに負けた気がすると思いました。もはやわたしは、自分の憎しみさえも、きちんと捕まえていることができなかったのです。

 わたしがあの人に近づこうとすると、タリアが鳥のような叫び声を上げ、包丁を振りかざしてきました。その時、わたしのそばを風が吹き抜けたかと思うと、タリアは消えていました。

 なにが起こったのかわからず、わたしは独楽のようにくるくると回り、足裏に鋭い痛みを感じて転びました。足元にあったのは、蝶形骨でした。

 あの人の声が、わたしの名前を呼びました。

 あの人は、タリアを抱えて小屋の外に立っていました。

「タリアを村に帰してきます」

 肩に担ぎあげられたタリアは、あの人の背を両のこぶしで殴っていましたが、あの人はまったく気にする様子がありませんでした。包丁は地面に転がって雨に打たれていました。

 あの人は言いました。

「ひとつお願いがあります。わたしは十分な状態ではありません。もしわたしが力尽きたら、わたしを太陽の光の下に置いてください」

 意味がわかりませんでした。わたしは、翼と胴体が銀色に剥げたカラスの表面に雨が這うのを凝視しました。あの人の恐ろしげに壊れかけた顔をやけに鮮明に憶えています。

「もしわたしが十分な状態であれば、千里を駆け、山を掘ることもできます。しかし今は、こうして動くのが精いっぱいなのです。光が必要です。わたしを影の中に置かないでください」

 あの人はわたしの返事を待たず、小走りに村のほうへ向かいました。

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