香る

黒澤満瑠

香る

「夢はでっかくもてよ」

 子供の頃の私によく口にした父は先月、五十四歳の若さで他界した。町外れに古くからある花火工場に最後まで務めていた。

花火師、といえば格好良く聞こえるが父が製造を担当していたのは主に線香花火だった。夢は大きくという割に、自分の仕事は大層地味だ。昔一度、それなりに訪れた反抗期にその事を父の前で口にした事を、仏壇にお線香をあげながら思い出していた。

「あの時はごめんね」誰にも聞こえないように小さく呟いたつもりだが、台所で朝食の支度をしていた母が、

「許す」と言ったから驚いた。振り返ると母はこちらを見て、

「許してやろう」と目を細めながらもう一度言った。父の目にそっくりだった。

 元は別々の人間でも同じ性になり、同じ家に住み、同じご飯を食べ、同じ部屋で寝ていたら容姿も似てくるものなんだなと感じた。

「来月、銀婚式だったのにね」私が話そうとする前に母が、

「銀婚式の直前で死んじゃうなんてね」と言った。こういうテレパシーみたいなことは今までもよくあったので特に驚きはしなかった。感覚的には母と言うよりは姉に近かったからかもしれない。

「何か予定してたの?」

「今のところ何も聞いてないわ」とさっぱりと答え椅子に腰掛けた。

「さぁ食べましょう」

 

 食卓には母と私、それと父がいつも座っていた席にもお茶碗とお箸、湯呑みが置かれている。最初、仏壇に供えようと持っていこうとしたら、

「ここでいいから。みんなで一緒に食べよう」と母に止められた。それ以降は毎日こうして三人で食卓を囲んでいる。


 母が作る卵焼きはお世辞抜きに絶品だ。父も私も揃って大好物であり毎朝必ず作ってくれて、お弁当にもかかさず入っている。

生前、父は卵焼き選手権があったら母さんが絶対優勝していると豪語していた。褒め言葉のつもりで母に話すと、

「他の料理ではダメって言いたいのね」と嫌味を言われしょげていたこともあった。そんな事を思い出してニヤニヤしていたら、

「今日は色々とよく思い出す日なのね」

全てお見通しと言わんばかりの母に流石に少し恥ずかしくなった。

「お母さんはどうしてお父さんと結婚しようと思ったの」母のこそばゆい思い出の一ページでも引き出してやろうと聞いたが、

「そりゃあ、あの人のこと好きだから」と即答してきた。過去形でもなかった。

以前、プロポーズの話を聞いた事があるのだが、結婚話を切り出したのは母からだと言っていた。

「私も小さい頃は白馬の王子様とか夢見たこともあったけど現実はなかなかロマンチックにはいかなかったわ」

 

 母はいつだって真っ直ぐな人だ。言いたいことはどんな場面でも誰に対しても素直に、そして客観的に言う。さらに目鼻立ちもはっきりとした顔で、娘の私が言うのもどうかと思うがなかなかの美人だ。学生時代もOL時代もずっとモテていたらしい。また同性からの信頼も厚く友人もたくさんいる。

 そんな母とそれはそれは平凡な父の二人が出会ったきっかけは本当に偶然だったらしい。


 その日は一段と暑い夏の日で、父が街中で熱中症になりかけてベンチに倒れかかっていたところを、母が介抱し病院に連れていった。

 幸い症状は軽く、点滴を打ってすぐに回復はした。母は父を病院に送り届け、症状が軽い事がわかるとそこで病院を後にした。

少し休んで回復した父はポケットに見知らぬハンカチが入っていることに気付いた。街中で介抱してくれた母が貸してくれていたもので、生真面目な父はこれを返そうと受付に向かい母のことを尋ねた。しかし分かったのは名前だけで住所は知らせていなかった。

 次の日、父は洗ったハンカチと百貨店で購入した新しいハンカチを手に、昨日倒れた場所に同じ時間に向かった。

もちろん当時はSNSなどもなく、名前しか手がかりがないのでそうするしか思いつかなかったらしい。

結局三時間ほどそこに立ってキョロキョロとしていた父は、再び具合が悪くなってふらふらと倒れるようにベンチに腰をかけた。ふと顔を上げると目の前に母が立っていた。

「私タイムスリップしてます?」


 不運な事故。町新聞の見出しにはそう書いてあった。仕事からの帰り、原付で走っていた父は転倒して頭を打った。ヘルメットをしていたが転んだ拍子にガードレールにぶつかり、さらに打ち所が悪かったらしく病院に運ばれたが、そのまま意識も戻らず静かに息を引き取った。

 警察の調べでは事件性はなく、道に転がっていたペットボトルをたまたま轢いてしまい、その拍子にバランスを崩したのだろうと言う見解だった。道路の傍らにあったへこんだペットボトルと、父が乗っていたバイクのタイヤ痕とが一致したらしい。

 私が病院に駆けつけた時にはすでに父の息はなかった。母は赤くなった目元をしていたがもう涙はなく、私の肩をそっと抱きしめてくれた。私は母の胸の中で思いきり泣いていた。


「何で私の作った卵焼きとこんなにも違うんだろう。同じレシピなのに」噛みしめるように味わいながら卵焼きを頬張る私は母に尋ねた。

「まぁ材料は同じでも手間とタイミングが大事だからね。あなたそういうところ適当にするからでしょ」少し呆れた顔で母は言った。図星だった。

「愛情がたっぷり入っているから、とか言わないんだね」わざと皮肉っぽく言うが、

「そんなので美味しくなるんだったら苦労しないわよ。誰でもプロになれるわ」と真顔で返された。

 

 仕事に向かう支度をしながら母に、前から考えていた提案を話した。

「ねぇ来月の結婚記念日なんだけど、良かったらどこかで食事しない?」ほんの少しだけ沈黙が流れた。

「じゃあお店は私が探しておくから、お財布は言い出しっぺのあなたが」そう言うと母は嬉しそうに笑った。

「それとご飯の後に行きたいところがあるから」洗い物をしながら鼻歌を歌う母にどこかと聞いてももう答えなかった。

 

 当日、駅で待ち合わせをした母と向かったのは、父がよく休みの日に行っていた行きつけの立ち飲み居酒屋だった。

直前まで店を聞いていなかった私も悪いのだが、てっきり高級レストランにでも行くのだと想像していたため、待ち合わせ場所に普段着で来た母を見て驚いた。

「何で朝、私が出かける時に言ってくれないのよ」

「いやぁ、普段よりオシャレしてる我が娘をたまには見てみたかったもので」笑いながら言う母にため息をついた。そうだ、こういう母だった。

 

 生ビールを三杯注文した。店主は母とも顔見知りだったらしく、最初は複雑な表情をしていたが、

「今日ね、結婚記念日なのよ。全部娘の奢りだからいっぱい頼んじゃうね」母が嬉しそうに言うと一緒に笑ってくれた。

 お酒も進み、職場の愚痴をたらたらと訴えかけていると店主が近寄ってきて、

「これちょっと食べてみてくれませんか?」と一皿テーブルに置いた。白髪混じりの短髪な店主はおそらく父と同じくらいの世代なんだろうと思った。

「いや、ご主人がね、よく『うちのカミさんの卵焼きは本当に絶品なんだ』って言ってたんですよ。私が作った卵焼きを食べても、違うんだよなぁって首を傾げて。なんか私もちょっとムキになっちゃって、アドバイスをもらいながら来るたび来るたび作り変えて食べてもらってたんです。結構いい線まで来てるなぁって言われてた矢先に…あぁごめんなさい、こんなつもりで言ったわけじゃなくて」失言を取り繕う店主をよそに母は、

「まぁ美味しそう。せっかくだからお言葉に甘えて」と口にした。

店主が緊張の面持ちで母を見つめている。

「ほら、あなたも食べてみて」

「じゃあ、いただきます」

急に審査員席に座らされたような変な緊張感を一緒に味わいながら一口食べた。それから母はまた一口、私も一口と黙って食べた。

店主は私たち二人の顔を交互に見比べ、たまらず、

「あの、どうですかね」と肩を竦めて聞いてきた。

私と母はちらっと目を合わせ言った。

「違うんだよねぇ」

 

 店を出て、母が寄りたいと向かった先は隣の市の駅前だった。

タクシーで行き先だけを告げた母はその後車内で黙っていた。眠っているわけではなくただずっと、窓から流れ行く景色を見つめていた。

 駅のロータリーに着いたのは二十二時過ぎ。球体と捻れた二本の線のようなモニュメントが置かれた所にあるベンチに腰掛けた。

 少しして母は鞄から茶色の紙袋を取り出した。中から出てきたのは父が生前作っていた線香花火だった。

「しまった、火がないわね」と私の目を見てきたが私も首を横に振った。すると母は急に立ち上がり道を歩いていたスーツ姿の若い男性に向かって駆け寄って行った。暗くて私の場所からははっきりとは顔は見えなかった。

「ねぇお兄さんライター持ってません?」

突然話しかけられた男性は少し動揺していたが胸ポケットからタバコと百円ライターを取り出した。母はライターだけ抜き取ると

「じゃあこれと交換ね。本当にありがとう、気をつけて帰ってね。あ、そうだ、せっかくだからこの機会に禁煙するなんてどうかしら。今の時代喫煙者は肩身が狭いし。これ、私からプレゼント。大事に使ってね」と線香花火が入った紙袋を半ば無理やり渡して戻ってきた。

突然の出来事に呆気にとられた男性はしばらく母と紙袋を交互に見ていたが、そのまま駅に方に向かっていった。

「新手の詐欺みたい」と私が茶化すと、

「やめてよ、人聞きが悪い。ちゃんと交換したじゃない。わらしべ長者と一緒よ」

と手に持ったライターをカチカチと点けていた。

「花火あげちゃったじゃん」

「まだあるわよ」そう言うと鞄からもう一つ紙袋を出した。

 

 ピンク色の線香花火を一つずつ持って先端に火をつけた。パチパチと小さく命を燃やす花火をベンチに座り二人で見ていた。

「ねぇ、あの人がなんで線香花火作ってたか、あなた理由知らないでしょう」

小さな火種を見つめながら母は聞いてきた。

「え、何か理由あったの?」

「本当はもっと大きな花火を作る機会もたくさんあったらしいんだけど全部断ってたんだよ。自分は線香花火を作りたいんだって」

本当に初耳だった。てっきり不器用な父のことだから縁がない話なのだと勝手に決めつけていた。

「なんでそんなに拘ってたの?」

「まだあなたが小さい時にね、工場からもらってきた花火を三人で遊んでたの。公園で今みたいに」

遥か遠いその記憶は今となっては輪郭は掴めず、言われてみればそんなこともあった気がする、と言う程度のものだった。

「色んな花火で遊んだんだけど、あなたが帰り際に言ったのよ『線香花火が一番好きー!』って」

きょとんとした私の顔を見て母は笑っていた。

「え、嘘でしょ。それだけの理由で?」

「それだけの理由で。自分の娘が一番好きな花火を自分は作っているんだ、どんな大きな花火を打ち上げるよりも俺には誇らしいことだ、って」

きっとまだ小学生にもなっていないそんな小さな娘のその場の言葉を、あの父は心に留め、曲げずに働いていたのだ。

「夢はでっかく持てよ」

母はポツリと言った。

「うん」


 線香花火はいよいよ最後の一本だけになり私はそれを母に託した。母は黙ってそれに火を点けた。

その時一瞬だけ風が強くなり私は慌てて髪を抑えた。母は動かなかったが線香花火の先端は突然の風に耐えきれず、燃え尽きる前にポツリと火種を落としてしまった。

「まったくあなたって人は」

母はため息混じりに下を向いたまま黙ってしまった。

七月の夜、少し湿った空気の中で私は空を見た。満天の星と言うには程多く、雲も多い空。

「本当、ロマンチックじゃないよねぇ」

 

 母は立ち上がると近くの自販機で水を一本買って戻ってきた。

「帰ろうか」と言うとポケットからハンカチを取り出し、その上に水を乗せベンチに置いて歩き出した。

「お母さんちょっと、これ」私が慌てて持とうとしたら

「それは置いといて。また倒れられたら大変だから」と意味不明なことを言って歩みを止めない。慌てて母のもとに駆け寄って理由を聞くがもう何も言わなかった。


 月日は流れ、今月で三歳の誕生日を迎える娘と夫と三人で地元の小さな夏祭りに来ていた。

父が亡くなってから知人の紹介で知り合った人でとても優しく、プロポーズもちゃんと向こうからしてくれた人だ。母に自慢もしてやった。

「誕生日迎えたらお義母さんとこにも会いに行こうよ」

「そうね、喜ぶと思う。ねぇ、香もおばあちゃんに会いたいよねぇ」

キャキャっとはしゃぐ娘の小さな手を引いて、屋台が並ぶ路上を歩いた。

 娘は初めてのお祭りに興味津々なようで目を輝かせている。

しばらくすると香はたたっと前方に駆け出した。何か興味があるものを見つけたのかと思ったら、落ちていた空き缶を拾い上げ、近くのゴミ箱に入れようとした。ジンと目頭が熱くなった。

夫は何も言わずに肩を回して身体を支えてくれた。

身長が足らず頑張って背伸びをしている娘に気付いた出店のおじさんがひょいと身体を持ち上げる。娘はわーとはしゃいでゴミ箱に空き缶を投げ入れた。

 

 お祭りの帰り道、近所の公園に寄りたいと夫が言い、少し寄り道をしてから帰ることになった。

「どうかしたの?」

「実は今までずっと黙ってたんだけど」

背中にかけた鞄から何かを取り出そうとしてる。

「夢があってね。いつか結婚してさ、自分の子供ができて、その子が少し大きくなったらしようって決めてたんだ」

取り出したのはくしゃくしゃになった茶色い紙袋で、中を見た私は大笑いをした。目を丸くした二人が不思議そうに見ていた。

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香る 黒澤満瑠 @kuromichi

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