第30話

 二人で逃亡計画を練っていると、日暮ひぐらしただしはパスポートを持っていないことを申告してきた。

 さすがに殺人犯を国外へ逃亡させるわけにはいかない。彼のこともきっちり殺人犯として警察に引き渡さなければならない。


 私は佐藤優子の都合を織り込みつつ、みさき美咲みさきとしての逃亡計画を立てた。

 海路と空路を繰り返し使ってデタラメに長距離を移動し、完全に追跡者の目をくらませたところで、その場所に潜伏する、というものだ。

 車を降りる機会をもうけなければ、車に取りつけられた発信機を取り除く機会は得られない。発信器が一つだけとも限らず、走行、尾行確認、発信器の撤去という一連の作業を何度か繰り返す必要があるだろう。

 空路に至るまでには完全にさとるをまいておきたい。

 尚、すべてがうまくいったとして、情報共有の義務で苦労を台無しにされるわけにはいかない。携帯電話の電池が切れたことにして電源を切るという対応をとる所存だ。


 ひどい出費になりそうだ。私はもちろん経費で落とす。

 今月の大赤字はまぬがれない。理のせいだ。栗田君に申し訳ない。

 日暮匡に逃亡に耐えうるだけの貯蓄があるかという点については心配ないだろう。彼は浪費をしない。極度の倹約家、いわゆるケチな性分である。そのことはすでに調査済みである。


 フェリー港へ向かう間、私は相変わらず尾行を警戒していたが、理の姿は見当たらなかった。高速道路なので後方でも遠方まで見える場所もあったが、それでも理の姿は見えない。バイクを収納できそうな大型車で、ずっと私の視界に納まりつづける車もない。

 もちろん、理がバイクを置き去りにして普通車のレンタカーで追跡してきている可能性もなくはないが、理がいままでそれをやったことは一度もない。

 やはり日暮車に発信器が取りつけられている。

 発信機があればお互いが見えない位置からの追跡が可能だ。


「匡さん、三キロ先にパーキングエリアですって。寄りませんか?」


「ふむ、私はタフで疲労とは縁遠いが、美咲の有意義な提案には乗らざるを得ないな。寄ることにしよう」


 パーキングエリアに着いた。

 ここは石川パーキングエリア。中央自動車道最後にして、東京の高速自動車国道においては唯一の休憩所である。


 私たちはまずトイレへ向かった。

 日暮匡がトイレに入っていくのを、私もトイレに入るフリをしながら見届け、すぐに車へと引き返した。

 私は車の隅から隅までくまなく調べ、二個の発信器を見つけだし、バッテリーを抜き取った。

 本当はほかの車に取りつけて撹乱かくらんしたいところだが、発信機が自分の探偵事務所の所有物であるため、回収の見込みもなくそんな真似はできない。


 私は車のそばで日暮匡を待つことにした。

 私が再び車を離れては、再び車に発信器を取りつけられかねない。見張っている必要があるのだ。


「……遅い」


 五分ほど待ったが、日暮匡はまだ帰ってこない。発信器の処理に要したのは五分程度であり、日暮匡はトイレから十分経っても帰ってこないことになる。

 日暮匡は私がまだトイレに入っていると思っているのだろうか。

 ここからトイレの入り口が見えるが、人を待つ男性の姿はない。

 お土産売り場で私を待っているのだろうか?

 電話をかけて呼び戻すか……。


 否、私は重要なケースを見落とすところだった。

 理が日暮匡に接触しているかもしれない。

 もしそうだったら、へたに電話すると日暮匡をあせらせてしまう。船橋ふなはしさとるという男の存在に危機感を抱かせる手伝いをしてしまう。

 考えすぎだろうか? 

 しかし殺人の容疑者たる日暮匡の精神が不安定になっている可能性を軽視すべきではない。

 やむを得ず、私は車を離れて彼を探しにいくことにした。


 トイレ近辺、喫煙所、食事処しょくじどころ、お土産屋、どこにも日暮匡の姿はなかった。

 さすがに変装もせずに男子トイレには入っていけない。

 理が日暮匡に接触しているのだとすれば、日暮匡は人目を避けるに違いないので、私は建物の裏にも回ってみることにした。


 建物の裏手の角に差しかかったとき、角の向こう側から声が聞こえてきた。

 日暮匡の声だった。


「何だ? 最後の手段とは何だね?」


 私はそこで歩みを止めた。

 覗くこともしない。理にも日暮匡にも私の姿を認識されたくはなかったからだ。

 確認するまでもなく、彼の台詞から日暮匡の相手が理だとはかることができる。

 案の定、日暮匡の質問に応答する声は船橋理のそれであった。


「週刊誌に売り込みます。警察が真実を隠蔽いんぺいしているという不祥事として売り込めば、週刊誌は喜んで飛びつくでしょう。もちろん、真犯人の情報も提供するつもりです。これは最終手段です。これまで助け合ってきた警察と絶交することになるので、私としては使いたくない手段です。でも損をするのは私だけではありません。これはあなたにとってもデメリットのほうが大きいことです。自首と検挙とでは大違いですからね」


「船橋、分かった。少し考えさせてくれないか? たしかに貴様の言うとおり、この私が己の無実を証明できないのであれば、自首したほうがこの私にとってもよさそうだ。だが、決心がつくまでしばし時間をくれ」


「分かりました」


 私は理の足音が近づくのを聞き、きびすを返してそそくさと日暮匡の車へと戻った。


「やられた……」


 私は日暮匡の車に寄りかかって頭を抱えた。

 想像以上に理の手の回りが早かった。もう手遅れかもしれない。

 私は理の安全を守るために苦心しながら日暮匡と逃亡してきたというのに、張本人の理によって、すべて骨折り損にされてしまったかもしれない。


 日暮匡、彼はいま、絶望しているのだろうか。あるいは、殺意に満ち満ちて煮えたぎっているだろうか。

 日暮匡はなかなか帰ってこない。

 理の狙いどおり、カノンに連絡を取って殺人依頼を出そうとしているに違いない。


 しかし、残念! 私だって負けてはいない。


 日暮匡からカノンに連絡を取ることはできない。

 なぜなら、彼の携帯電話の電話帳に登録されているカノンの電話番号は、我が船橋探偵事務所員の栗田君につながるものなのだから。

 栗田君がカノンに成りすまし、日暮匡の殺意を確認したり、日暮匡本人や、あわよくばカノンの情報をも聞き出したりしてくれる手筈てはずとなっている。


 私は再度、車に発信器が残っていないかを確認した。

 理が私たちより先にバイクで高速道路へと復帰していった姿もすでに確認している。


 日暮匡の殺意は掘り起こされてしまったかもしれないが、もし栗田君がカノンでないとバレて日暮匡自身が理の殺害を決心したとしても、このまま日暮匡を理から遠ざけることができれば問題ない。

 日暮匡からカノンの情報をしぼれるだけ搾り取って、証拠とともに日暮匡を警察に引き渡せば万事が解決、任務完了となる。


 さて、ようやく日暮匡が帰ってきた。


「ずいぶん遅かったわね」


「すまない。車の鍵を落としてしまって、あちこち探しまわっていたのだ」


 日暮匡は一瞬、足元に視線を落としてから私の目を見てそう言った。私は彼の嘘を見抜いていることを悟られないよう、即座に台詞せりふをこしらえて岬美咲を演じた。


「それならそうと言ってくれれば、私だって一緒に探したのに。私、あなたが追っ手に見つかって襲われたんじゃないかと心配したのよ」


 私は胸に手を当てて深い息を吐いた。

 私としては、こう露骨ろこつに仕草を取り入れていくのは気が引ける。

 友人から「優子はあざとさが足りない。もったいない」とさんざん言われてきた身としては、これくらいあからさまに動かなければ一般女性を演じられないのだと信じ込むしかない。

 実際に、私の目に映る多くの女性は、挙動の一つひとつが白々しく見えてしまうのだ。


「匡さん? 大丈夫?」


 私のいだく不安に反し、日暮匡の顔の筋肉は緩んでいた。

 安心するというよりは、呆れてしまう。

 三番のボタンを押せば三番のランプが光る玩具くらいに単純な男だ。


「あ、ああ、すまない。君に迷惑をかけないためにも、今後はこのようなミスをせぬよう肝に銘じていたところだ。さあ、行こうか」


 私と日暮匡は、港を目指すべく車に乗り込んだ。

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