第29話

 私は握りしめた携帯電話から振動を受け取り、目を覚ました。

 日暮ひぐらしただしより早く起きる必要があるため、携帯電話はマナーモードにしていた。日暮匡が目を覚ますころには私は起きて本でも読んでいなければならない。日暮匡より後に起きた場合、彼が裸なのに私が裸でないことが不自然になってしまう。


 私は洗面を済ませ、日暮匡の様子がうかがえるよう、彼の寝るベッドの方を向いて、ガラステーブルの前に腰を下ろした。

 バッグの中から本を取り出し、しおりの挟んであるページを開いた。

 この本は理の書庫から勝手に持ち出してきたミステリー小説である。空いた時間の有効活用というより、標的の頭の中にみさき美咲みさきの人格を形成する小道具としてのおもむきが強い。


「おはよう。岬さん」


 日暮匡の低い声は、少しタンが絡むと胴間声どうまごえになる。聞くだけで不快になる声だ。

 しかし、それはきっと私の器が小さいだけだ。日暮匡本人が悪いわけではないので、我慢しなければならない。

 いまの私はかなり重要な局面にある。声が気に入らないとか言っている場合ではない。集中しなければならない。佐藤優子ではなく、岬美咲であることに努めなければならない。


「あ、おはよう、日暮さん」


 私はこれまで敬語で話してきた相手に、タメ口で挨拶をした。うっかりいままでどおりに敬語を使わないよう、細心の注意を払って挨拶を返した。

 これは私の描くシナリオを日暮匡の意識にねじ込む精密作業なのだ。探偵という仕事柄、女優にもならなければならない。

 ただしそれは、いわば舞台女優、撮り直しの利かない演技が要求されるのだ。


「少々たずねたいのだが、昨日、君がこの私をベッドに運んでくれたのか?」


「え……」


 身内の訃報ふほうを聞いたかのような表情で凍りついてみせた。

 にぶそうな日暮匡でも、さすがに自分が失言したのかと思わせられるだろう。


「もしそうだとしたら――」


 私は日暮匡をさえぎるように言葉をかぶせる。怒気を込めて。


「覚えていないの? あなたの格好が示すとおりよ。あなたは昨日、自分でベッドに向かった。私を連れてね」


 日暮匡が布団をめくり、自分の下半身を覗く。

 わざわざ見なくても分かりそうなものだけれど、と言うか迷ったが言わなかった。岬美咲は仮に激昂げきこうしたとしても、人のあらを探したりげ足を取ったりするような人物ではないし、日暮匡を刺激しすぎては、嫌われて私の努力が無に帰すことになる。


 それに、日暮匡を怒らせると、危険な気がする。


「この私が、君を? それはつまり……。しかし、君は服を着ているではないか」


「それが本を読んでいる人に言う台詞せりふ? いつまでも裸でいるわけがないでしょう」


 私の言葉に日暮匡の表情がゆがむ。危ない。ギリギリのラインを攻めすぎているかもしれない。憤怒ふんぬの岬美咲から悲愴ひそうの岬美咲へと切り替える頃合だろう。


「すまない。覚えていないようだ。思い出せない……」


「うそ……本当に? 何も?」


 私は本を閉じ、口に手をあて、目をうるませた。

 本気を出せば涙も落とせるが、そこまではしない。いまそれをやると、岬美咲という女が安くなってしまう。


「何も覚えていない。ミサキ、もう一度やらないか?」


 私はニコッと笑った。

 ひとまず日暮匡に私の描くシナリオどおりの認識を植えつけることには成功した。

 私が笑ったのは、もちろん、順調な任務への安堵あんどからくるものではない。岬美咲として作った偽物のみである。

 いい女は下ネタや下賤げせんな要求のかわし方もうまくなければならない。


 本をバッグにしまい、テーブルの上のインフォメーション冊子などを整頓したりして、私を見つめたまま棒立ちする日暮匡に、さり気なくチェックアウトの準備をするよううながす。

 日暮匡は、どこかあきらめた様子で、のそのそと帰り支度を整えはじめたのだった。




「朝食はどうするね?」


 私は再び日暮車の助手席に納まっていた。

 サイドミラーに理の姿を探すが見つからない。バイクの音もしない。

 きっと車に発信器が仕掛けられているのだ。

 もちろん、その可能性は最初から疑っていたが、あえてそれを探す真似はしなかった。昨日まいたはずの理がきっちり私たちの居場所を見つけていたと日暮匡に知られれば、理の日暮匡へのプレッシャーを手伝うことになってしまう。それを避けるために私は行動しているのだ。


「そうね、手近なレストランでモーニングメニューでもいただきたいわ」


 私は微笑ほほえんでみせた。

 この微笑には、私の彼に対する本音を隠す意味も半分くらいは含まれている。朝食をどうするかはたしかに重要な課題ではあるが、一番ではない。

 彼にはもっと重要な懸念があってしかるべきだ。彼には船橋ふなはしさとるの尾行を警戒するという発想は生まれないのだろうか。きっと昨日の尾行者は完全にまいたと信じきっているのだろう。のんきなものだ。


 車内をしばしの沈黙が横切って、ふいに日暮匡が口を開いた。


「ミサキさん。申し訳ない。この私は昨日のことを覚えていないのだ。失礼なことを訊くようだが、君はこの私の、その……、彼女になった、ということかな?」


 再び沈黙が訪れたが、さっきよりは短い。本当にのんきなものだとあきれる気持ちを私といううつわの外に押しやり、からにした器にあらかじめ準備しておいた岬美咲の心情を充填じゅうてんする。


「ごめんなさい。日暮さんが昨日のことを覚えていないのは、私のワガママで頼んだワインのせいよね? 私たちの関係は、日暮さんの言うとおりよ。私はもうあなたの恋人です。私、赤の他人に身体を許すほど軽くはないつもりよ。つまり、そういうこと」


「そうか……」


「もしかして、迷惑だった? 覚えてもいないのに、突然私があなたの恋人だなんて言って、おこがましいわよね。ごめんなさい。やっぱり昨日のことはなかったことに――」


 本当になかったことにされては困るが、こうして一度引いてみせることには、私が潜入捜査員であることに対する疑いを日暮匡に持たせない、あるいはやわらげる意図がある。

 もちろん、これは実際にはなかったことなのだが、日暮匡の中ではあったことになっているのだ。


「とんでもない! この私とて君の彼氏でいることは光栄なことなのだよ。ぜひともこの関係を続けさせていただきたい。かまわないか?」


「もちろんです。じゃあ、私のことは、美咲と呼んでね。もちろん、名前のほうのミサキよ」


「ああ、そうさせてもらおう。この私のことも好きに呼ぶといい」


「じゃあ、ただしさん、と呼ばせてもらおうかしら」


「うむ。それがいい」


 計画は順調だ。

 日暮匡の中の岬美咲という人格、そしてその位置づけは、もはや磐石ばんじゃくだ。


 日暮匡は満足そうに目尻を下げていたが、何の考え事をしているのか、表情はしだいに硬くなっていった。

 そして彼がその思考を口に出す。


「美咲、大変言いづらいことなのだが、この私は命を狙われている。昨日のバイクはおそらくそいつだ。この私は奴を知っている。奴の性格上、人質として君を狙うことはまずないから安心してほしい。だが、この私は逃げなければならぬ。一緒に逃げてくれるか?」


 尾行者が理だということには気づいていたようだ。まあ、普通は気づくだろう。

 それにしても、一緒に逃げてくれ、とはなんと身勝手な男だろう。

 仮に私が本当に岬美咲という女性で日暮匡という男の彼女だったとして、この男は私が彼を溺愛できあいしているとでも思っているのだろうか。

 はなはだ勘違いがすぎる。

 目に余るひどい自惚うぬぼれ。

 練習をしない怠惰たいだなピエロが喝采かっさいではなく嘲笑ちょうしょうを浴びるのと同等の、滑稽こっけい極まりない愚男ぐなんの発言だ。「俺といると危ないから別れてくれ」とでも言えば、少しは見直したかもしれないのに。

 もっとも、本当に別れてくれと言われると、一緒にいさせてほしいと説得するのにろうを要するので、佐藤優子としての私には都合がよい。


「それは大変だわ! 警察には通報したの?」


 私は目を大きく見開いて、日暮匡を見つめる。ボロが出ないよう慎重に岬美咲を演じる。岬美咲はやり手のキャリアウーマンだが、そういう事件的な事態には無縁の女性だ。


「それが、信じてもらえないのだ。奴は警察に顔が利く。警察は奴を信用しきっているのだ」


「なぜ匡さんが命を狙われるの?」


「この私は目撃してしまったのだ。奴が人を殺すところを。この私が目撃したところを奴にも見られてしまった。奴はこの私に罪をなすりつけたうえで殺そうとしている」


 よくもまあ、こんな馬鹿げた嘘を考えたものだ。

 えた女性である岬美咲がすぐに信じるはずがないのだが、岬美咲の日暮匡に対する不信は日暮匡の岬美咲に対する不信を生む可能性がある。岬美咲の人格が格下がりしてでも、ここは彼の言葉を信じなければならない。

 さて、岬美咲はこの突拍子とっぴょうしもない彼の言葉を鵜呑うのみにした上で、どんな反応をするだろう。

 岬美咲は日暮匡のことを想う行動力のある女性だ。そこにちょっとだけ佐藤優子の都合をねじ込む。


「分かったわ。すぐに逃げましょう。このまま、どこか遠くへ」


「え、いまから⁉」


「当然よ。敵がこちらを見失っているいまがチャンスだもの」


 いますべきことは理をまくこと。一緒に逃げつつ、日暮匡が私と車から離れた隙に車から発信器を見つけだして処理し、その後はじかに追ってくるであろう理を日暮匡に気づかれることなくまかなければならない。


「一度、家に帰らせてくれないか? 準備をしなければ――」


「準備なんて言っている場合ですか! 家に張り込まれているかもしれないのよ」


「そ、そうだが……」


 難易度は高い。

 もはや敵が日暮匡なのか船橋理なのか分からない。

 船橋理は自分の旦那だ。手強いことは重々承知している。

 船橋理という男ではなく、ただ探偵を相手にするだけなら、蛇の薄皮一枚分くらいは楽だったかもしれない。もっとも、その薄皮の厚みが測れないところが理の厄介な点でもあるのだが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る