第28話

 さて、と……。


 ここからが私のメインの仕事になる。

 まずは寝息を立てている無防備な日暮ひぐらしただしの両脇に手を差し込み、ベッドまで引きずるようにして運び、ベッドの上に横たえた。

 そして、彼のズボンのポケットから携帯電話と財布を抜き取る。

 日暮匡本体はこのまましばらく放置する。


 まずは財布のチェックからだ。念のために私は手袋を着用している。

 まずないとは思うが、もしも彼が指紋の検出手段を持っていたら、彼の持ち物から私の指紋が検出されて非常にまずいことになる。

 彼が指紋の確認をすることなどあるわけないが、可能性がゼロでない以上、万全を期す必要がある。


 まずは財布の外観の観察。

 黒の長財布であるが、素材は塩化ビニルだろうか、安物のようである。所々擦り切れていてかなり使い古しているようだ。


 次に財布を開き、カード類を確認する。

 免許証、保険証、キャッシュカード、クレジットカード、ポイントカードなど、それらすべてを財布から引き抜き、財布に入っていた順番に並べる。

 重ねて入れてあったものは、それが分かるように並べる。これは戻すときのことを考えてのことだ。完璧に元に戻さなければ気づかれてしまうかもしれない。

 私は彼がどんな種類のカードを持っているかをまず確認し、クレジットカードやポイントカードの有効期限がいつか、カードの擦れ具合、カードの財布への入れ方などもチェックした後、カード一枚一枚を写真に撮っていく。

 写真を撮った後、ブレていないか、ちゃんとカード類の番号が読み取れるかを確認する。


 カードの財布への入れ方で使用頻度をみる。

 同じポケットにカードを複数枚入れている場合、手前に入れてあるもののほうが、使用頻度は高い可能性が高い。

 これはあくまで可能性が高いだけで断言はできない。使用頻度の高いカードを手前になるよう入れる人もいれば、最後に使ったカードを手前に入れる人もいるからだ。

 日暮匡は免許証と保険証が左の一段目のポケットに、キャッシュカードとクレジットカードが右の一段目のポケットに、ETCカードとガソリンカードが左の二段目のポケットに、ポイントカード数枚を右の二段目のポケットに入れている。

 日暮匡はカードの種別ごとにきっちりとポケットを決めているようだ。


 カードの次には現金を確認する。

 紙幣もカードと同様に入っていた順番に並べ、小銭も含めて合計金額を確認する。

 37,562円入っていた。紙幣はきちんと一万円札、五千円札、千円札の順に並んでいた。

 日暮匡は物の配列にはこだわるタイプの人間なのだろう。


 最後にレシートを確認する。

 いつどこの店で何を購入したか、何を食べたのか、一枚一枚すべて確認する。

 日暮匡の財布には古くても三日前までしかレシートが入っていなかった。彼はたびたびレシートを捨てて財布の中を整理するのかもしれない。

 レシートもカードと同様に一枚ずつ写真を撮る。

 ちなみにレシートからは日暮匡が相当な倹約家であることがうかがえた。どの分野の買い物も最安値が置いてありそうな店を選び抜いている。

 ただし自炊はしないし、百円ショップやディスカウントショップではついつい無駄遣いしてしまうルーズさもうかがえた。


 これで財布の中身の確認は終了である。

 カード、札、レシート、すべてを元の場所に元の順番で戻す。

 最後に財布を日暮匡のポケットに、元の向き、元の深さに戻るよう差し込む。


「ふぅ……」


 私はワインに口をつけたい思いを我慢した。

 どうせもう温くなっている。そう自分に言い聞かせ、次の作業に移る。


 財布の次は携帯電話である。

 日暮匡の携帯電話はスマートフォンであった。

 これは手袋を着用したままでは操作できない。仕方なくあとで指紋を拭き取ることに決め、手袋を手から引き剥がしてハンドバッグの中に押し込んだ。


 さて、素手に持ち替えたところで、予期していたとおりの最大の関門が立ちはだかる。

 ロックを解除しなければならないのだ。

 その前に機種を確認する。もしスマートフォンのキャリア――つまりは携帯電話の契約会社――が自分のものと同じであれば、わざわざロック解除に四苦八苦する必要はなくなる。

 日暮匡のスマートフォンのSIMカードを抜き取り自分のSIMカードを差し込むことで、自分の設定した解除方法でロックを解除できるのだ。

 例えば、自分のスマートフォンでゼロの四桁で解除できるようにしておけば、日暮匡の暗証番号もゼロを四つ並べるだけでロックが解除される。

 こんなこともあろうかと三キャリア分のSIMカードを集めたSIMカードセットを探偵事務所として所有していたはずなのだが、誰かが持ち出してしまっていた。

 きっとさとるだろう。理は理で私の邪魔をしたいのだ。その程度で諦めるはずがないのに、嫌なあがきをする男だ。


 それで肝心のキャリアのほうだが、残念ながら私と日暮匡とではスマートフォンのキャリアは異なっていた。

 もはや自力で日暮匡のほどこしているセキュリティーを突破するしかない。

 幸いなことに、ロックの種類は暗証番号であった。ただこれだけのために、ひたすら日暮匡から彼に関する数字を集めていたのだ。

 もちろん、セキュリティーが暗証番号入力でなくパスワード入力、指紋認証、パターン入力の場合もあり、その場合は私の努力が無に帰すことになる。

 その可能性は十分にあったが、だからといって、自分にできる努力をおこたることはしない。これくらいの苦労は、船橋ふなはしさとるという男を敵に回した時点で覚悟していたし、私は仕事に臨むにあたり、手を抜く行為がであることを肝に銘じている。


 とにかく、ポピュラーなパターン入力ではなくてよかった。パターン入力だったら、おそらく、いまここではセキュリティーを突破できない。

 今日のうちに日暮匡のスマートフォンの画面を拭いておいて翌日に指紋を調べるなり、ショルダーハッキング――脇から日暮匡のロック解除操作を盗み見する――なりをしなければならない。

 あいにく、日暮匡はまだ私の前で一度もスマートフォンを触っておらず、その機会は得られなかった。


 では、暗証番号ならばロック解除できるのか?

 答えは五分五分といったところだろうか。

 日暮匡が暗証番号をセキュリティーに採用している時点で、かなり用心深い人物ということがうかがえる。さすがに文字を入力するパスワードは面倒だったのだろう。


 とにかく、私は暗証番号の解読に取りかかった。

 まずは入力可能な桁数を確認する。八桁まで入力可能だった。日暮匡ほどひねくれた人間ならばあえて七桁で設定していたりしそうだが、まずは八桁入力でチャレンジしていく。

 最初に入力するのは日暮匡の誕生日。年齢から逆算して西暦込みで誕生日を入力する。

 ……結果、駄目だった。

 数字の並びを逆にしたり、西暦と月と日を入れ替えたりして数パターン試すも、すべて弾かれてしまった。


 だが落胆はしない。本命を試すのはこれからだ。次に試すのは円周率。日暮匡が得意気に暗唱するわりに、最後の三桁は間違っていた。

 もしこれが見栄で水増ししたわけでなく、わざとなのだとしたら……。公算大。

 円周率をいた相手が数字の並びを、その響きでなんとなく覚えていて、何気なく暗証番号に試したらロックが解除されてしまった、という事態に対する予防線に違いない。

 そもそも日頃使わないし、覚えていることを自慢する相手もいないのに、円周率を何桁も覚えていることのほうが不自然だ。


 私は日暮匡のスマートフォンに、彼がわざと間違える直前までの八桁の数字、9、2、6、5、3、5、8、9を入力した。


 ……ロック解除!


 日暮匡、とんだ間抜けだわ。円周率を暗証番号に設定しているのなら、それを口にしなければいいのに。

 おまけに余計な予防線を張るせいで、どこの数字を使ったかも一発で見抜くことができた。


 自分で鍵を口にするなんて、暗証番号ならぬ暗唱番号ね!


 え、言うと思った、ですって? おだまり!


 ……失礼、取り乱しました。続けます。


 私は暗証番号によるロック解除に成功し、日暮匡のスマートフォンに視線を落とした。


 ……まだロック画面だった。


 なんと、日暮匡のスマートフォンは二重ロックに対応していたのだ。

 二番目のセキュリティーは指紋認証であった。

 私は心中すら無言のまま、横たわる日暮匡の元へ移動し、ベッドの縁に腰掛けた。

 私は日暮匡の手を握る。

 そして、彼の指を指紋センサーへ。


 ロック解除。


 日暮さん、最大のセキュリティーは自分の目だということを覚えておくといいわ。特に私の前ではね。

 スマートフォンを私に見られたくないのであれば、私の前では決して寝ないこと、それから食事もとらないことよ。




 私はひと息ついた。

 日暮匡との待ち合わせ時に買ったスポーツドリンクをグイッと飲み干した。空になった背の低いペットボトルをテレビの横に置く。

 映画はちょうどエンドロールが流れているところだった。


 最後に、何か情報を得られそうな小物を持っていないか確認する。

 家と車の鍵にキーホルダーのたぐいはついていない。ハンカチ等もない。三色ボールペンを一本持っているくらいだ。

 遠出する心積もりがなかったとはいえ、日暮匡は身軽そのものだった。


 私はテレビを消した。

 まだエンドロールは続いていたが、消すタイミングとしては自然だろう。

 当然、日暮匡が起きるはずはないので、どのタイミングで消しても問題はないのだが、どうも彼と一緒の空間にいると落ち着かない。無用な用心をしてしまう。

 もし起きていたら、彼がスマートフォンのロックを解除するために私が彼の指を使った時点で何かしらのアクションがあったはずだ。

 だって彼には、決して人に――特に私のような詮索者せんさくしゃに――見られてはならない秘密が携帯電話の中に入っているはずなのだから。


 私はまず、日暮匡のスマートフォンからアドレス帳を開き、そして登録名を順番に見ていく。

 カタカナの表記を探す。サム、あるいはカノンの文字を。


 ……あった!


 カノンで登録してあった。

 サムではなくカノンで登録してあるということは、多少なりともカノンとのつながりがあるということだ。

 カノンという殺し屋としての名前は彼と取引のある人間しか知らず、世間を騒がせる殺人犯としては親指殺人のサムとしてしか知られていないのだから。


 ひとまず、日暮匡がカノンとのつながりを持つことが確認できただけでも大収穫だ。

 二人は中学生時代に親友だったらしいが、現在ではまったく関わりを持たなくなっている可能性のほうが高かった。

 私は用意していたmicroSDカードに、データを抜けるだけ抜き取った。

 そして最後に、カノンの電話番号を栗田君の仕事用携帯電話の番号に書き換える。

 栗田君には日暮匡の電話番号を登録してもらい、その番号からかかってきた場合にはカノンに成りすまして情報を引き出してもらう。


 栗田君にメールを送り、電話した後、私は残ったワインを洗面所に流し、ボトルの中を水洗いした。

 ワインボトルが水洗いしてあることに日暮匡が気づくと都合が悪いので、料理が運ばれてきた小窓へ皿やワインを運び、備えつけの電話で係員に引き取りにくるよう依頼した。

 あとはそのまま放置しておけばワインボトルなどは係員が引き取ってくれるはずであるが、いかんせん、私の性分がそれを見届けずにはおれなかった。


 私が腕組みをして壁に寄りかかり待ち構えていると、ついに小窓が開いた。

 料理の皿と、ワインボトルが窓の向こう側へと吸い込まれていった。

 これでタスクがまた一つ完了したと安堵あんどしたとき、不意にかけられた声に背筋が凍った。


「首尾はどうかね、美咲さん」


 ギョッとして後ろを振り向くが、そこには誰もいない。廊下の奥のほうに垣間見えるベッドには、横たわったままの日暮匡の足が見えている。

 となると、声は小窓の向こうから発せられたのだ。

 もはや間違いない。犯人は船橋理、自分の旦那だ。

 冷静になって考えてみれば、声の聞こえてきた方角は小窓の方からだったし、声も似せてあるが日暮匡のそれとは異なっていた。


「あんたねぇ!」


 私は声を絞って怒鳴どなった。理はくっくっと、こらえているのが分かるような笑い方をした。


「ビックリした? おまえが仰天するところなんて久しぶりに見た気がするよ」


「係員さん、こういう施設の利用客に話しかけるなんて、野暮やぼがすぎるのではなくて?」


「ごめん、悪かったよ。で、どうなんだ? その……、うまくいっているのか? 奴は?」


「あら、心配してくれているの? 彼は深い眠りにいているわ。邪魔ばかりしているくせに、私を心配するなんて、どういう風の吹きまわしかしら?」


「べつに……、心配なんか、してねーよ……」


「心配しているでしょう? 分かっているわ。あんたの心配は私の安否や仕事の成否ではなく、私がどこまでターゲットに身体を許しているか、そういう嫉妬しっと的な心配よね?」


「そうとも。いくら仕事でも浮気は許さん。仮にもおまえは俺の嫁なんだからな」


「仮にもってなによ。心配しなくても、私は日暮匡に指の一本すら触れさせていないわよ。もっとも、明日起きたら彼は私を抱いたことになっているのだけれど」


 ただし、彼は私に触れていないが、私は彼を運ぶために脇に手を突っ込んでいる。

 それくらいのことで理も怒りはしないだろうが、わざわざ言ったりはしないでおく。


「それはいいが、肝心のカノンの情報は得られたのか?」


 私と日暮匡との間に何もなくて安心したのか、いちばん重要な情報を聞き出そうとする理の声はゆるみきっていた。私はあきれながら冷ややかに突っぱねた。


「もしかして、これは情報共有の義務に当たるのかしら?」


「そうだな」


「だったら先に、どうしてここに私と日暮匡がいることが分かったか教えてよ。十字路を左折した後、バイクを飛ばして遠くに逃げられる前に近辺を探しまわった結果、見つけられず、やっぱり十字路を右折していたという結論に至ったということ? 戸建て式だから車でどの建屋に入っているか分かるにしても、あの十字路を右折したことを見破るのは難しかったはず」


「さすがにそんな判断の仕方は無茶だ。おまえ、自分のハンドバッグの中をよく見てみろよ」


 私は理に言われたとおり、自分のハンドバッグの中から入っているものを一つひとつ取り出して中身を確認した。

 すると、いちばん奥底に理のプライベート携帯が貼りついていた。私はそれを掴み、再び小窓へと早足で戻った。


「自分の携帯電話を私のバッグに忍ばせ、追跡アプリで追ってきたわけ?」


「そういうことだ。日暮匡に対して隙を作らなかったおまえでも、奴に会う前には隙があったってことだ」


 私は理に聞こえるように舌打ちした。

 いくら互いに邪魔し合う状況になっているとはいえ、なぜ身内をそこまで警戒しなければならないのか。

 疲れるではないか。

 身内を最初に疑うというのが理の師匠ゆずりの方針らしいが、だからといって信頼を壊すような真似をするのはどうかと思う。

 今回だけは理がよほど私のことを心配していたのだと納得してやることにした。


「じゃあ、なんで私たちから見える位置で尾行していたの? アプリで追跡できるなら必要なかったでしょう?」


「発信器を壊されたときに、それを前提とした尾行に切り替えなければ、おまえには怪しまれるかも、と思ったんだよ。それくらいしなければ、おまえはバッグの中の俺の携帯電話に気づいていただろう。携帯電話の電源を切られたら、それこそ俺は完全におまえたちを見失ってしまう。だから、おまえに俺をまいて安心してもらう必要があったんだ」


 語気を強めて不機嫌さを表現している私の声が功を奏しているのか、理は叱られている子供が言い訳するような弱い調子で説明している。

 理のその態度は私が引き出したものだが、聞いていてなんだかむなしくなってくる。


「理、あんたは警戒する相手が違うんじゃないの? 私はもう誰と戦っているのか分からないわ」


「まあまあ、そう言わずに。俺はおまえの知りたいことを教えたんだから、おまえもカノンについての情報を教えろよ。正直にな」


 私は理に携帯電話を返すついでにmicroSDカードを渡した。


「好きに解析すればいいわ。あとのことは栗田君に訊いてちょうだい」


「分かった」


 理は小窓を閉じた。一つ大きな溜息をつこうとしたが、すぐにまた小窓が開いて中断させられた。


「まだ何か?」


「ヤバくなったら、すぐに作戦中止して戻ってこいよ。嫉妬だけじゃなく、本当におまえのこと心配してんだからよ」


「ありがとう、とでも言うと思っているの? あんたはまず自分の心配をしなさいよ。私のことを心配するというのなら、《あんたの安否を心配している私》を心配してほしいわね」


「そうか、じゃあやっぱり、もうしばらくは平行線だな」


 パタリと小窓が閉じた。

 バイクのエンジン音は聞こえない。尾行は明日も続くのだろう。

 私は溜息一つを気持ちの切り替えスイッチにして、作戦を続行した。


 とりあえず、先ほど散らかした私物をハンドバッグにしまい込んだ。

 それから、シーツの上に寝かせ直した日暮匡を裸にひん剥き、かけ布団を首までかけた。

 私はガラステーブルに突っ伏して仮眠を取ることにした。

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