第27話

 車から降りると、日暮ひぐらしただしの後についてホテルの敷居をまたいだ。


 外観は一軒家だが、内装はきっちりと相応のサービスを提供している。

 室内は柔和にゅうわな照明でオレンジに染まっている。

 ベッドは大袈裟おおげさ洒落しゃれている。

 テーブルは一般的なガラス製のもので、テレビは36インチ程度であろうか。


 私はテーブルの上に置かれていた革張りのメニューを開き、料理の品ぞろえを確認した。

 まっさきに確認したのはドリンクメニューである。

 日暮匡は酒をあまり飲まないし、強くもないことはすでに調査済みである。それは日暮匡が酒の味には鈍感であることを意味する。

 つまり、仕込むには絶好の品なのである。

 ただし、ビールなどは付き合いで仕方なく飲むケースはあるだろう。ビール、焼酎、日本酒は避ける。その上で味が濃く、アルコール度数は低めの品。辿りつく答えはワインだ。


「ワインがあるわ。日暮さんは普段、ワインはお飲みになりますか?」


「まあ、たまに」


 日暮匡はすぐにそう答えたが、一瞬だけ視線を下に落とした。

 もはや彼が嘘をつくときに視線を下にやるくせがあることは断定していいだろう。彼は酒自体を好んで飲まないはずなのに、ワインをたまに飲むと言ったのだ。それは嘘だ。


 私は独断で料理を選び、室内に設置された電話で注文した。


「特選バジリコのジェノベーゼパスタを二つ、それからワインを、カベルネのハーフボトルを一本お願いします」


 料理が来るのを待つ間、私はテーブルに置かれていたインフォメーション冊子に目を通した。

 料理メニューのほかには、利用時間や料金、アメニティや設備案内、ホテルのサービスについてなどの情報が数冊に分かれて載っていた。


 私が冊子に目を通している間、私はもちろん、日暮匡の動向には注意を向けていたが、彼は興味律々きょうみしんしんな様子で、バスルームやトイレ、ベッドの周辺などを見てまわっていた。こういうホテルは初めてなのだろうか。


 料理が運ばれてくると、日暮匡が小窓からテーブルまで二人分をまとめて運ぶ。

 日暮匡の表情からは、あまり食欲をそそられない様子がうかがえる。

 無理もない。緑色の苦そうなパスタなのだ。

 私はこの芳香とコクのある風味が好きだが、たしかに人を選ぶ品ではあるかもしれない。

 このパスタの名にもなっているジェノベーゼとは、イタリアのジェノバ発祥のソースで、バジルペーストに松の実やチーズ、オリーブオイルなどを加えたものである。

 運ばれてきたパスタにはジェノベーゼのほかに、海老やホウレン草が使用されていた。


 パスタは日暮匡に任せ、私はワインを運んだ。

 ワインのほうはカベルネ・ソーヴィニヨンであるが、これは世界で最も栽培されている黒ブドウの品種の一つであり、ピノ・ノワールと並ぶワインの二大品種のうちの一つである。

 カベルネ・ソーヴィニヨンは長期熟成を必要とするワインで、若いうちはタンニンによる苦味や渋みがあり刺激的な味わいがするが、熟成すると劇的にまろやかになる。


 私はワインボトルを開け、日暮匡に見えないよう素早く巧妙に睡眠薬を投入した。

 バレる可能性を低くするために、グラスではなくボトルに入れて濃度を薄めるのだ。粉状のそれは一瞬で溶けるので、日暮匡からの死角を作るのは一瞬で事足りる。

 私は先に日暮匡のグラスにワインをそそぎ、次いで自分のグラスに注いだ。

 注ぎ分ける分を考慮し、睡眠薬は効果の現れる適正量より少しだけ多めに入れてあるが、睡眠薬の濃度は先に注いだ日暮匡のグラスのほうが高くなっているはずである。

 それでもおそらくグラス一杯では効果が薄いと予想され、日暮匡にはボトルに残ったワインをすべて飲んでもらう必要がある。


 香りを確かめる限り、睡眠薬が入っていることが分かる不自然さはない。

 もっとも、日暮匡はワインの香りなどろくに知らないだろうから杞憂きゆうに違いない。

 それから、彼は疑ってはいないだろうが、毒など入っていないと見せるために私が先にワインに口をつけた。


「んー、この味はあまり好きではないわ。日暮さんはいかがですか?」


 そう言いつつも、悪くはない味だった。ただし、このワインは若く、やはり熟成させたものにはとうてい及ばない。

 それに、私はチリ産よりもアメリカ産が好みだ。

 いずれにしろ、飲みすぎると私まで眠くなって仕事に差し支えるかもしれないし、日暮匡への睡眠効果を奪ってしまうことになる。

 とにかく、私はここまでで我慢し、残りは全部、日暮匡に飲んでもらわなければならない。


 私が催促さいそくすると、日暮匡はグラスを手に取った。

 まず香りを確かめ、そして口に含む。含むというよりは流し込んだ様子だった。


「どうだろうな。悪くはないが、この私にとっても好みの味ではない」


 酒嫌いの人がワインだけは好きなんてこと、そうそうあるはずがない。日暮匡にとってはおいしいわけがないのだ。

 ジェノベーゼを敬遠する様子からしても、彼は大人の味というものに好かれない人種だろう。


 それでも、彼には飲んでもらわなければ困る。

 非常に困る。

 こんな男に身体を預けるなんて絶対に嫌だ。

 なんやかんや言い訳をつけてかたくなにこばめば許してくれるかもしれないが、印象は悪くなり、警戒心を生んでしまう可能性がある。ただでさえ遠回りのハニートラップ作戦が、余計に遠回りになってしまう。

 もし私が失敗すれば、理の作戦を容認せざるをえなくなる。それどころか、日暮匡を追い詰めてカノンに殺人依頼をさせるという作戦に助力する形になってしまう。

 それは避けなければならない。

 だからとにかく、日暮匡にはワインを飲んで早々に眠ってもらわなければならない。


「でも、捨てるのはもったいないです。せっかくだし、雰囲気をたのしみながら二人で飲みましょう」


 日暮匡は渋い顔をしていた。

 心中が顔に出ないようつとめている様子だったが、その努力する様が顔に現れていた。


 私は日暮匡にも勧めつつ、パスタのほうにも手をつけた。

 とてもおいしい。

 しかし日暮匡の口には合わない様子で、同じく口に合わないはずのワインで流し込もうとしている。

 これは僥倖ぎょうこうなどではない。計算づくの結果である。

 もちろん、必ずこうなることが予知できたわけではなく、こういう相乗効果が得られればいいな、という程度の狙いで、普段の食生活から庶民的な味覚を持つと予想される日暮匡の口には合いそうにない料理を選んだのだ。


 私は日暮匡がワインの口を進めて眠気をもよおすまでの時間を稼ぐため、部屋に設置された大画面テレビに興味を示してはしゃぐフリをすることに決めた。


「日暮さん、これ、映画も観られるみたいですよ。あ、新しいものがそろっているみたいです」


「ほう。何か観たいものがあれば観るといい」


 そうやって紳士ぶるから私の思いどおりに事が進む。

 私は放映リストの中から長編映画を見つけだし、かねてより見たいと思っていたと嘘を言ってからチャンネルを合わせた。

 映画が気になっては仕事に差し支えるので、ちゃんと一度見たことがあるものを選んだ。


 私が映画に夢中になれば、私がワインのことを忘れることも不自然にはならない。

 選んだ映画は恋愛ものの邦画なので、日暮匡にはさぞかし退屈なものだろう。おかげで手持ち無沙汰な日暮匡はワインを何度も口に運ぶ。

 もちろん、これも計算づくのことである。


 しかし日暮匡、なかなかにしぶとい。

 なかなか眠らない。

 もし無理に飲みすぎて吐いてしまうようであれば、睡眠薬まで一緒に排出されてしまう。そこまでは計算していなかった。

 私は何度か日暮匡の方へ振り向き、はしゃいで見せ、私が見ているという認識を強く持たせた。吐きに行かせないためだ。


 日暮匡が私の隣に腰を落とした。

 どうやら私の腰に手でも回そうと目論もくろんでいるらしい。

 私は取りつく島を与えないために、上体をしきりに動かしてはしゃいでいるフリをした。

 うまく敬遠できたようで、日暮匡は横で座ったまま眠りに落ちていた。

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