第31話

 私たちはようやくフェリー港に着いた。


 ここに着くまでの日暮ひぐらしただしは、もちろん、ただ運転しているだけだった。

 だが、私はそれでも彼をじっくりと観察していた。

 車内で聞いていたラジオのニュースが殺人鬼サムを取り上げたころから、彼は私に話しかけなくなった。もともと多く喋るほうではないが、完全に口を閉ざしてしまったのだ。

 それはつまり、殺人鬼サムについて深甚しんじんなる興味を持っているということ。

 そしていま、彼の表情には緩みが見てとれる。


「あら、匡さん、何か面白いことでもあったの?」


「ん? いや、べつに。何も……」


 日暮匡は即座に表情を消した。ニヤついていたところから、突然真顔へと切り替わるその変化は、不気味の一言に尽きた。ホラー映画の導入部を観賞している気分になった。


美咲みさき、この私は乗船手続きをしてくる。君はここで待っていてくれ」


「分かったわ」


 手を振って日暮匡を見送った後、私は彼を待つ時間も無駄にしまいと、ダッシュボードの中などを探り、どんな細事さいじであろうと少しでも多くの情報を集めた。

 ダッシュボードの中には、先ほど持って出た車検証などを抜きにすると、緊急脱出用のハンマー、四つ折にされた一万円札、サングラス、それからジャンルや年代に統一性のない洋楽のCDが数枚、整頓されて入っていた。

 用心深く、見栄っ張りなことがうかがえるが、それはもう分かりきっていることだ。


 次に私は、栗田君に連絡を取ることにした。カノンの電話番号を送っておいたから、何か情報をつかんでいるかもしれない。


「もしもし、栗田君。いま、大丈夫?」


「大丈夫でなければ電話に出ていない」


 喪中もちゅう人のような低く抑揚よくようのない声。栗田君に電話すると、いつもこの返事が返ってくる。

 彼はこういうのを嫌っていると思うが、私は建前上の気遣いとして、大丈夫かどうかをいつも確認する。


「カノンの情報は何か得られた?」


「いや。何度か電話してみたが、カノンは一度も出なかった。何かルールがあるのだろう」


「もしかして、依頼者からは連絡を取ってはいけないのかしら。でも、日暮匡の携帯にはカノンという名前で電話番号が登録されていたわ。依頼者からかけてはいけないはずはないけれど。もしかして、カノンからの電話だと判別できるように登録しているだけかしら」


 私は日暮匡が帰ってくるタイミングを見逃さないよう、手続所の方に視線を固定している。


「いや、それはないだろう。依頼者がカノンに殺人を依頼したい場合、電話でもしなければその意思を伝えることができないからな。それに、日暮匡から一度電話がかかってきた。だがすぐに俺がカノンでないとバレた。おそらく声が似ていなかったのだろう」


 手続所の屋上には男性がいた。釣竿から糸を垂らしている。カッターシャツだから仕事移動の合間なのだろう。

 フェリーの待ち時間はたしかに待ち時間としては長いが、釣りをするには短すぎる。よほど釣りが好きなのだろうか。


「そうかもね。でも、あなたの声は低くて殺し屋っぽいし、電話って慣れない相手の声は実際とは違って聞こえたりするから、声が原因ではないかも。さっき栗田君が言っていたように、電話をかけるほうにも受けるほうにもルールがあるのかもしれないわ」


「そうだな。一定時間内に一定回数の長めのコールをするとか、一定時間経過しなければカノンが電話を取らないとか、何かしら電話するときのルールが決まっているのだろう」


 それにしても、屋上の釣り人が気になる。

 手続所に視線を固定していなければ、熱心な人もいるものだ、で終わってしまうところだろう。だが、私の眼は三脚に乗ったカメラのように、レンズの向きが固定されている。

 手続所の屋上は海に隣接した高い所であり、見晴らしはいいに違いないのだろうが、趣味をこじらせると、こうも人目をはばからなくなるものか、と呆れてしまう。


「栗田君、それを特定することはできない?」


「無理だな。折り返しの電話がかかってこない。営業熱心なカノンは客候補とは電話番号を登録し合うから、おそらく、非通知や知らない番号からの電話は取らない」


「そうね。もう警戒もされているでしょうね。私が日暮匡の携帯を盗んで、そこから電話をかけたとしても、一発で正解の『電話のかけ方』を引き当てなければ、二度とこちらから連絡は取れないでしょう」


 ちょっと待って。

 いや、栗田君との会話は問題ない。気になるのは釣り人のほう。

 どう考えても、あの男は不審だ。

 男が堂々としすぎていて思考を流してしまいそうになるが、わざわざあんな場所に登って短時間の釣りをするなんておかしい。

 遠目で後姿しか見えずに判別がつきにくいが、あの男はおそらく船橋ふなはしさとるだ。

 だとしたら、短時間だからと金を握らせて釣り人から釣竿を借り、受信機をくくりつけて建物の裏手の入口付近に垂らしているのだ。こちらからは見えないが、おそらくはそこで日暮匡がカノンと電話をしていて、理がその会話を盗み聞きしている。


「佐藤。俺はおまえに優先的に協力してはいるが、今回ばかりは船橋のやり方のほうが手っ取り早いと思うぞ。いくらおまえが色目を使ったとして、それでいくら日暮匡がおまえにれ込んだとしても、おそらく、奴がカノンの情報をおまえに漏らすことはない。日暮匡はそういう一線を越えない男だ」


 私は電話を肩と頬で挟み、化粧ポーチの中をまさぐって口紅を取り出した。

 手に取った重さから、それが目的のものではないと分かり、口紅を戻してもう一度取り出した。

 私の化粧ポーチの中にはまったく同じ口紅が二本入っている。

 今度取り出したものは、先ほど取り出したものよりもズッシリとした重みがある。

 口紅の上面と下面のキャップを取り外すと、それは小型望遠鏡へと変貌へんぼうを遂げた。


「どうかしら」


 あの光景を見ても、栗田君は同じ台詞せりふを吐けるのかしら。

 そこまでは口にしなかったが、やはり同感はしかねる。


 私は左手で携帯電話を持ち、右耳に当てた。右手に収めた小型望遠鏡を右眼に持っていく。


 釣り男は確かに船橋理であった。

 そして釣り糸の先に結わえつけられているのは、ICレコーダーだ。録音しておいて、あとで内容を聞くのだろう。

 リアルタイムではないが、盗聴してその内容を記録として残すことができる。


「ふん。おまえは俺よりも船橋のことを認めているくせに」


 なんて大胆で原始的なやり方なのかしら、なんて考えていると、危うく栗田君の言葉を聞き流しそうになった。

 私は左手の携帯電話を右耳から左耳に当てなおし、栗田君に返事をした。


「まあ、そんな彼と結婚しておいて、否定しても説得力はないわよね。それより、栗田君は日暮匡のことも高く買っているのね」


「いや、日暮匡という男は、見栄っ張りと用心深さが合わさって、そういう性質に収まっただけだ。俺はそう分析したにすぎず、める気はまったくない」


 思わず話題を日暮匡のことにすり替えてしまったが、私は手続所の屋上で釣りにいそしむ変人のことで頭がいっぱいだった。

 船橋理には、そういう奇抜な方法を好むきらいがある。

 まるで自分の考えたやり方が通用するか、一回ごとに方法を変えて検証実験をしている研究者のようだ。

 また、子供が無邪気に遊んでいるようにも見える。

 やられる側からしたら、完全に舐められているとしか思えない。

 思わず舌打ちをしたくなる。


「ごめんなさい。野暮やぼなことを言ったわ」


「べつに」


「栗田君、ありがとう。もし何か進展があったらメールを送ってちょうだい。必要に応じて、またこちらから電話するわ」


「分かった」


 私は右眼に望遠レンズを添えたまま、左手の携帯電話を切った。

 携帯電話をかばんの内ポケットに収納すると、左眼は手続所の入り口に注意を向けた。まだ日暮匡は戻ってこない。

 右眼に映る理にも新しい動きはない。


「はぁ……」


 私たちは理に先回りされていた。

 私は理が先にパーキングエリアを出発したことを確認し、発信器の処理もして、完全に尾行をまいたと油断していた。


 私はあらためて車内を捜索した。

 今度はダッシュボードの中だけではない。車内をくまなく捜索した。

 目的は日暮匡の手がかりではなく、船橋理の手がかり。

 そして、やはりそれはあった。

 発信器だ。

 それは助手席のシートの底面に貼りつけてあった。

 理は車外に取りつけた発信機を私に取り除かせることで、まんまと私に追跡を防いだと思わせたのだ。


「まさか、日暮匡が理を車に乗せていたなんて」


 たしかにその可能性を考慮したことはあった。

 しかしそれは、一瞬、頭をよぎった程度でしかなかった。

 可能性があまりにも小さいから、そのケースへの対処をおこたった。

 私のミスだ。


 手続所の方に視線を戻すと、カッターシャツの男が収穫物を釣り上げて撤収に入ったところだった。カッターシャツの上からライダースーツを着込む。

 その下方では、日暮匡が手続所から出てきた。カノンと連絡を取って何食わぬ顔をしているが、彼の頭上では、それ以上に何食わぬ顔をした理が珍事を繰り広げている。

 もちろん、日暮匡がカノンと連絡を取ったという確証はないが、理がICレコーダーを耳に当てたまますぐに離さない様子からして、先ほどの推察は間違っていなさそうである。


 私は小型望遠鏡にキャップをして化粧ポーチの奥の方へ押し込んだ。


 日暮匡がカノンにどこまで情報を開示したかは不明であるが、もし私たちの逃亡計画を洗いざらい話していたとしたら、理にもすべて筒抜けになってしまっているはずだ。

 だからといって計画を変更するのは困難だろう。

 日暮匡がカノンに計画を話してしまっているのなら、私が計画を変更しようと言っても、日暮匡はどうにかして逃亡ルートを変更させまいとするだろう。


 私の負けだ。

 私は旦那に負けた。

 諦めて理に協力し、一緒にカノンを警戒したほうがいいかもしれない。


 いや、まだだ。まだそこまでの完敗ではない。

 理の作戦は止められなかったが、私の作戦がついえたわけではない。

 このまま日暮匡をたらしこんで、カノンに関する情報を聞き出せばいい。そしてカノンが理を襲うよりも早く、私がカノンを捕まえる。

 カノンが裏社会の住人ならば、船橋理という男を知らないはずがない。もしかしたら、理に手を出す前に日暮匡に接触してくるかもしれない。

 そのときがチャンスだ。


「んっ、んんっ、おっほん!」


 私は咳払いをして喉の調子を整えた。

 日暮匡が戻ってきて、ドアに手をかけた。

 いまの私は佐藤優子ではない。みさき美咲みさきなのだ。彼女を演じきらねばならない。

 そしていま、岬美咲は日暮匡の戻りが遅くて苛立いらだちを覚えているはずだ。ただし、彼女の性格上、それを表面には出さない。それどころか、彼の身を案じる優しさを見せる大和撫子やまとなでしこだ。

 私はそういう設定に自分を放り込んで、車内に乗り込んでくる日暮匡を見上げた。


「すまない。待たせてしまったね」


「かまわないけれど、何かあったの? 混んでいたとか?」


 日暮匡は逡巡しゅんじゅんした様子だったが、それは話すかどうかを迷ったわけではなく、意を決するのに寸刻すんこくを要したのだと思われた。


「美咲、重要な話をしなくてはならぬ。実はだな、さっきからずっと何者かの視線を感じているのだ」


「それって……」


 その何者かは間違いなく理の視線だろうが、日暮匡は実際にその視線を感じていたかどうかは怪しい。

 もし日暮匡がいぶかしんで振り返ったりしたら、あの釣り人はもっと早くに撤収していたはずだ。


「ああ、おそらく、奴だ。さすがに人前では事に及べぬだろうが、人気ひとけが失せたとたん、奴はこの私を襲うだろう。もちろん、この私はそうやすやすとやられるつもりはない。返り討ちにして警察に突き出してやるつもりだ。それができる自信もある。しかし最大にして唯一の危惧きぐ材料がある。それは君に危険が及ぶことだ」


 日暮匡の舌がよく回ることに驚きを禁じえない。普段からうそぶいているからだろうか。

 無口な人間は、それがあらかじめ用意されている言葉であったとしても、なめらかに吐き出せないことが多い。

 しかしこの男は違う。信用ならない。

 彼が嘘をつくときに見せる仕草――下方を一瞥いちべつする――を鵜呑うのみにせず、それ以外の場合でも言葉の信憑性しんぴょうせいを疑うべきだ。

 現にいま、嘘をついたのは明らかなのに、一度も下を見なかった。下方一瞥の仕草が出てくるのは、とっさの嘘に限られるのかもしれない。

 まさか理がやっているみたいに、嘘をつくときの仕草をわざと見せることで洞察力のある相手をだますような真似を、この日暮匡がやっているとは思えない。

 ただ、念のために警戒はしておくべきだろう。


「私を遠ざけるつもりね? そんなの嫌よ。あなたの無事をただ祈っているなんて私にはできない。私はずっとあなたについていくわ。それに一対一よりも一対二のほうが有利だと思うの。私は足手まといになんかならない」


 日暮匡はうつむいて考え込んだ。私の返事が想定外だったのだろう。

 彼は自分で気づいていないだろうが、その閉ざされた口からは、かすかにうなり声がれ出ている。


 私は日暮匡がかたくなに私を遠ざけようとした場合の返答を用意してから、日暮匡に返事を催促さいそくした。


「匡さん、ねえ、答えは出た?」


「あ、ああ。分かったとも。ともにこの困難を乗りきろう」


 私はニッコリと微笑ほほえんでみせたが、日暮匡にはそれを気に留める余裕はなかったようで、彼の視線はすでに乗船券の確認というタスクに移行していた。

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