第3話

 灰皿はまずかったか。


 とくに意識して手にしたものではなかったが、この私の右手に握られているものをよくよく確かめてみると、それはガラス製の大きな灰皿だった。

 カットの細やかさがダイヤモンドを想起させる円形の大灰皿だ。

 何百グラムくらいあるのだろう。下手をしたら一キログラムを超えているかもしれない。

 こんなに重くて硬いもので頭を殴られたら、きっとこの私でも再起不能になる。


「…………」


 いいのか? 

 駄目だろう。駄目だ。駄目に決まっている。

 こんな女のせいで我が高潔こうけつなる人生を棒にふるなど、決してあってはならないことだ。

 どうする? どうやったらいい? 

 さすがの私もこればっかりは知らない。

 教えてくれ。

 どうやったら完璧に隠蔽できるのだ? 

 駄目だ、駄目だ。いくらこの私がプライドに打ち勝つ気概きがいを持ち合わせていようとも、こればかりは人に教えをうわけにはいかぬ。

 仕方ない。この私が、全力をもって、隠蔽策いんぺいさくを考え出し、すべて一人で実行する。

 大丈夫だ、混乱はしていない。冷静だ。この私は冷静に判断している。


 この私は、殺人を、隠蔽いんぺいする!


 言うな、おまえたち。

 無論、警察に出頭することも候補としては考えた。

 おおいに悩んだとも。

 仮に自首したとすれば、この私は警察の取り調べを受け、裁判を受け、その後に無期または三年以上の懲役ちょうえきを課せられることになる。

 この私の人生は台無しだ。

 仮に模範囚もはんしゅうとなり早期に社会復帰したとして、その私におおいかぶさる暗幕あんまくの重きことは想像にかたくない。

 しかし不肖ふしょうこの私、刑事からの侮辱ぶじょくの言葉、裁判での公開的な弾劾だんがい、刑務所での懲戒ちょうかい、社会復帰後の世間の邪視じゃし醜行しゅうぎょう、そのすべてに耐え得るストロング・メンタル、すなわち覚悟は備えているつもりだ。


 そう、覚悟はある。

 しかし、この私は冷静に隠蔽することを選択した。

 自首をよしとしない理由は二点。


 一点。プライドが許さない。

 この私に襲いかかるそれらすべての所為しょいは、すべて凡夫ぼんぷたちによってもたらされるものだ。

 凡夫でなければ受刑諸々もろもろに甘んずることもやぶさかではないが、凡夫どもから受ける恥辱ちじょくなどとうてい受け入れることはできない。

 

 一点。刑法、もっと言えば六法すべてを、この私は認めていない。凡夫が勝手に制定した法に、なぜこの私が従わなければならぬのだ。

 この私に許可を求めてきたならば、私はその法に甘んじることもやぶさかではなかった。しかし凡夫どもは勝手にそれら法を立案し、勝手に施行した。

 この私はその法に従うとは一度も言っていないし、納得もしていない。


 それに付随ふずいして、もう一点。もう一点あったので、二点でなく三点に訂正する。

 この私が法の裁きを受けることになる理由に納得できない。

 この女だ。なぜこんな、凡夫の中でもとりわけ低品位の規格落ち品なんかのために、この私がこくな仕打ちを受けねばならぬというのだ。

 悪いのはこの女ではないか。

 私がこの壊れたラジオ――罵詈雑言ばりぞうごんを垂れ流す不良品――を破壊したことは、むしろ称賛に値するのではないか。

 世俗はこの私に感謝すべきである、とすら思う。


 この私はしばし立ち尽くし、改めて冷静に考え、冷静に判断した。視界に映る景色から色彩がフェードアウトし、コントラストのはっきりしたモノトーンな思考で決断を下した。



 私は隠蔽工作を開始した。


 私はまず、死体を車まで運ぶことにした。

 死体の最終処分方法、つまり事故か自殺に見せかける選択は作業をしながら考えるとしよう。


 いや、駄目だ。集中力を欠けばミスが生じるかもしれない。死体処理について考えるのは後でいい。いまは全神経を注ぎ作業に専念するのだ。


 よし、心の準備はよい。作業開始。


 いや、まだだ。作業を開始する前に一つ。

 何を処理しなければならないか、それをリストアップせねばなるまい。

 もちろん、証拠に残る可能性があるのでメモの類は使用できない。携帯電話のメモ帳機能も、文字入力履歴りれきがあるように、どこに痕跡こんせきが残るか知れたものではない。だからメモの類はいっさい使えない。

 私のこの頭の中だけで、何をすべきか箇条かじょうつらねるのだ。


 ・ 死体を処理する。

 ・ 凶器を処理する。

 ・ 血痕を消す。

 ・ 自分のいた痕跡 (指紋や毛髪)を消す。

 ・ 車から女の痕跡を消す。

 ・ 可能であればアリバイなどの偽装をほどこす。


 こんなところだろうか。


 手袋はたしか、車内に黒革のドライバーズグローブがあったはずだ。それを着けて作業すれば私の指紋が残ることはない。

 ただし、すでに素手で触ってしまっているものに関しては、指紋をき取る必要がある。

 ただ、いままでに触ったものすべてを思い出し、触ったものだけを拭いていては、きっと拭きこぼしが出るに相違そういない。

 ゆえに触ったものではなく、一度でも近づいた場所にあるものすべてを拭く必要がある。


 おっと、指紋について考えるのは後だ。

 まずすべきことは死体の処理。私は車から取ってきたドライバーズグローブをはめた。


 女は頭からじんわりと血を流している。

 出血量は多くないが、血管と皮膚が傷ついている頭部をどうにかしなければ、部屋の絨毯じゅうたんや車のシートに血が付着してしまう。

 事故や自殺に見せかけるには、このログハウス内に女の死の痕跡を残してはならない。決して部屋のどこかに血が付着していてはならない。

 バスルームに隣接したウォッシュスタンドの上棚から純白のタオルを引き抜き、私は女の頭部、首から上すべてがわずかにも露出しないよう念入りに巻きつけた。


 いま、女は白いガウンを身体に巻いている。

 入浴後の姿であることは明らかであるため、着替えさせなければならない。

 私は女のガウンをぎ、真紅のドレスを着せた。生地がやぶれないよう慎重に、裁縫さいほうをするときのごとく四肢ししをドレスの内側から丁寧ていねいに通した。

 女を仰向けにしたりうつ伏せにしたりして、前後左右上下から見て不自然なところがないか確認した。

 服を着せるときに気がついたが、どうやらドレスと一体となっているブラジャーとショーツの部分はボタンで取り外しが可能だったようだ。

 もちろん、ショーツの裏表が逆になっていないかも確認した。


 さて、この遺体をどうするか。

 とりあえず、当初考えたとおりに死体を車まで運ぶことにしよう。

 いや、待て。へたに遺体を動かして取り返しのつかないミスをしてはならぬ。

 まず、事故に見せかけるか自殺に見せかけるかを決めるのが先決だ。

 どっちにする? どっちにすればいい? 一つずつ考えていこう。


 仮に事故に見せかけるとする。女は後頭部を打っている。後頭部を打つような事故とは何だ? 


 何かが頭に落ちてきたという状況はあるだろうか? 

 私は室内を見渡す。視線が壁際の階段を辿り、二階へ行きつく。そしてそのまま視線を動かしていくと、吹き抜けた先にある天井へと終着する。天井にはだいだい色の光を発する電灯があり、フライパンのふたのような薄い円形のカバーが光量を抑えている。

 電灯やカバーが落ちてくるという状況には無理がありそうだ。女の頭は硬く尖ったもので傷ついているのだ。


 この私は落下物候補を探すため、実際に二階に上がってみた。

 二階は部屋をぐるりと囲む形で造られており、中央の吹き抜けを、腰の高さまである木製格子柵が取り囲んでいた。二階には小さめのソファーが吹き抜けに向かってポツリと置いてあるほかは、物置として使用されているようだった。

 主に布団類が重ねてあり、軽そうな木製椅子が重ねて置いてある。

 二階には硬くて落下しそうなものは何ひとつなかった。小さいテーブルすらなく、灰皿だけが二階にあったことにするのも無理がある。


 この私は落下物による事故という線を諦めることにした。


 後頭部を打っての脳挫傷のうざしょうが死因となるためには、落下物でないならば、転倒しか考えられまい。

 転倒で後頭部を打つ……。後ろ向きに歩いていて、何かにつまずき転んだ先に灰皿があったという状況か? 

 駄目だ。後ろ向きに歩く理由がない。誰かと会話しながら歩いていたならともかく、一人で後ろ向きに歩くことなどあるはずがない。

 それに灰皿が上下逆さまに置かれる状況に説明がつかない。この私は女の頭を灰皿の底面の角で打ったのだ。灰皿が普通に置いてある状況で、その灰皿の底面で頭を打つなんてことはありえない。

 事故に見せかけるならば、灰皿の血を拭くわけにもいかず、灰皿の上縁で頭を打ったことにはできない。


 いや、待て。そもそも、こんな山奥の別荘に一人で来ていること自体がおかしいではないか。

 そうなると、もう事故ではなく自殺の線しか考えられない。


 よし、自殺だ。自殺に見せかけよう。


 女が自殺したとして、後頭部を打つような自殺の方法とは何だ? 

 決まっている。身投げしかない。崖を探すか? 幸いここは山の深いところにある。探せばいくらでも崖は出てきそうだ。


 いや、わざわざ崖を探す必要はなさそうだ。この二階は普通よりも高い。五~六メートルはありそうだ。この二階の窓から身を投げて頭から落ちれば十分死に至る。自殺しようという意志があるのなら、頭から落ちようとするのも当然というもの。

 うむ、ここの窓から身を投げたことにしよう。

 幸い、東に面する窓の下は庭への通路となっており、硬くて鋭利な部分もある砂利じゃりが敷き詰められている。


 この私は背中と膝をすくうようにして女を抱え、南に突き出た一階のテラスから外へ出て東の通路へと回った。

 東の通路は狭くはない。白く塗装された簡素な柵の下には少し大きめの石が並べてあり、そこからログハウスまでの二メートルほどを細かい砂利が占めている。

 私は女の頭をログハウス側へ向け、仰向けに寝かせて、巻きつけていたタオルを取り除いた。

 女が頭から落下して後頭部を打ったのだとすれば、落ちてきた身体は頭にひっぱられて仰向けに落ちるはずだ。


 こんなに早く遺体を外に出すのはリスキーだと思うかね? この私が女の遺体を早々に屋外に設置したのには理由がある。

 死後における遺体が、その置かれた場所や状況の影響を受けて変質するためである。変質とは死後硬直や死斑しはんのことだ。この私はそういう分野の専門家ではないのだが、だからこそ念を入れる必要がある。

 ここは山奥の私有地であるから、遺体が早々に他人に発見される可能性は極めて低い。リスクを天秤にかけるならば、確実に遺体の状態をそれらしく保つことが優先されよう。

 遺体の上からシーツをかけて隠すという選択もないではないが、もしシーツに血が付いたりしたら、それこそ偽装が台無しになる。

 この私は女の遺体を外へ寝かせてそのまま放置することに決定した。


 室内に戻った私が次にしたことは、凶器の処理である。

 灰皿は底面の血が床に付着せぬように、底面を上向けて置いておいた。その灰皿を女の頭から剥ぎ取ったタオルに包む。もちろん、タオルに付いていた血が内側になるよう、タオルの表裏には気をつけた。それを間違えてどこかに血が付着しては大変だ。

 それからタオルに包んだ灰皿を玄関に置いた。灰皿は私がここを去るときに持ち去り海にでも捨てる予定なのだが、それを万が一にも忘れぬよう玄関に置いたのだ。


 次に私が取りかかったのは血痕と指紋の拭き取りと清掃である。

 私は頭に新しいタオルを巻き、髪の毛が落ちないようにした。

 それから血痕を探したが、幸い血痕はどこにも付いていなかった。灰皿で女の頭を殴ったとき、灰皿の角が女の頭皮を削って灰皿には血が付いたものの、床に飛散するほどの出血はなかったようだ。

 それにしても血痕がなかったのは幸いだ。いくら綺麗きれいに拭き取ったとしても、ルミノール反応からは逃れられないらしい。


 深くゆっくりと息を吐き出した私は、気を緩めぬよう自分に言い聞かせ、次の作業に移った。

 指紋の拭き取り作業である。

 ウォッシュスタンドから最後の一枚のタオルを取り出し、水にらしてテーブルに乗せたとき、私の手は止まった。

 顔を近づけてよく見てみると、テーブルにはけっこうほこり堆積たいせきしていたのだ。テーブルだけではない。椅子も床も埃が溜まっている。顔を近づけなければ分からない程度ではあるが、部屋は埃にまみれている。

 ここは別荘なのだ。女もめったに来ないのだろう。

 私は先に掃除機をかけることにした。

 二階から古い型の掃除機をひっぱってきて、大きい音に不安を募らせながら部屋を掃除した。


 私が近づいた場所すべてに掃除機をかけて雑巾がけを済ませたとき、刻は丑三うしみつをとうに越えていた。

 もう車の清掃まで終わっている。

 さっきから強烈な眠気にさいなまれているが、決して気を抜いてはならぬと自分に言い聞かせつづけている。

 手を抜きたくなる衝動を押さえ込み、私は偽装の最終段階に移った。


 偽装の最終段階。それは偽装工作。


 ここまでは痕跡などを消去する作業だったが、ここからはでっち上げの作業だ。

 作業といっても、まだ何をするか決めていない。さて、何をするか? 何かする必要があるか? 

 その判断基準は女が自殺したように見えるかどうかだろう。女は自殺したように見えるか?


 おお、危なかった! 

 二階の窓を開けていなかった。

 私は慌てずに確実に窓を開け放った。


 さて、これで女は自殺したように見えるか? 

 私はできる限り窓のふちや壁に触れぬよう二階から女を見下ろした。


 むう、なんか違う。これはとうてい自殺には見えない。どちらかというと事故だ。だったら事故にしてしまうか? これが事故だとしたら、不自然なところはないか?


 ある。どうして女がこの窓から身を乗り出す必要があったのか。その理由がまったく見当たらない。

 仮に強引に理由づけするならば、風通しをよくするために窓を開けたら風で何かが飛んで、それを掴もうとして身を乗り出したら落下してしまった、と言えなくもない。

 しかし強引すぎる。事故か自殺か断定できなければ、殺人の可能性も怪しまれるのではないだろうか? 

 ならばやはり、どちらかに断定されるよう仕向ける必要がある。

 事故である証拠を作るのは難しい。自殺である証拠は、遺書があればいい。


 遺書。どうやって作ろうか。


 ワープロソフトで作るのがベストだろう。それならば筆跡を考慮せずに済む。しかし、いまはパソコンなどない。

 いや、待てよ。女の携帯電話のメモ帳機能を使えば、デジタルな遺書を残せるのではないか?


 私はさっそく女の携帯を捜した。

 それは女のかばんの中から簡単に見つかったが、携帯にはロックがかかっていた。ロック解除以外の動作をいっさい受けつけない。暗証番号が分からないのだからお手上げだ。

 他の手段で遺書を残すしかない。


 言うまでもないことだが、私が自身の筆跡で遺書を書くわけにはいかない。女の筆跡で遺書を書くためには、女が書いた文字をなぞって作るしかない。

 私は部屋中を捜した。

 その成果はメモ帳が二つ。入り口近くの電話機の横と、テーブルの上の二箇所にあった。女の鞄の中には手帳の類は入っていなかった。

 メモ帳はいずれも白紙だったが、幸いなことに、どちらにも無数の筆痕ひっこんが残っていた。

 私はボールペンでそれらをなぞり、黒い文字として再生させた。文字見本になるメモ用紙を接着部から剥がし取り、メモ束の上から二番目に挟み込んだ。位置を調整し、二枚のメモ用紙を入れ替えつつ、慎重に上から文字をなぞり、遺書を作り上げる。どう見ても女の文字だ。丸文字で書かれた遺書は、至極しごく簡単な文ではあるが、完成した。



 ごめんなさい。さようなら。



 うむ、完璧だ。

 完成した遺書、このメモ用紙を接着部から引き剥がし、テーブルの上に置いた。

 二階の窓を開けたので、風で飛ばぬよう、女が殴られたときに使用していたファンデーションのケースを重石おもしにした。

 最後に部屋中を確認して、自分のいた痕跡がないか確認した。


 すべてが終えたころには空にかかる漆黒しっこくとばりが色をびはじめていた。


 私は、この私は、欠伸あくびみ殺すこともせず、車に乗り込んでそそくさと退場したのだった。

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