第31話 香と夫婦

 レオンは自室で身支度をしていた。シャツをはおる前に机に向かい、2種類の香水を手に取る。同じブランドのロングセラーの香水だが、一本目は睦み合う夜をイメージした香り、重ねた二本目は、どっしりと安定感のある大地をイメージした香りだ。一本目を腰に噴きつけ、二本目を胸元につける。ここ15年ほど、この重ねづけで一日を過ごしている。

 その香りを閉じ込めるように手早くシャツのボタンを閉める。スラックスを履いて、部屋を出ると、ちょうど真緒が洗面所から出てきていた。

「真緒」

 レオンは朝の夫婦の習慣として、柔らかな真緒の頬にくちづけた。そして身を屈め、今度は真緒からのお返しを受ける。

 普段はこれで照れた真緒がすっと離れるのだが、今朝はまだ寝ぼけているのか、レオンの前に立ったままである。そういえば昨夜は何度も寝返りをうっていた気がする。寝付けなかったのか。

「大丈夫か、真緒」

 そっとレオンは彼女を抱きしめた。

「まだちょっと眠い」

 真緒はレオンの胸に額を寄せて軽く首を振った。レオンはその小さな肩をぽんぽんと叩く。

「コーヒー、濃いめに淹れてやるからな?」

「うん、お願い」

 真緒はレオンの腕の中で深呼吸をする。アイロンをかけたシャツのにおい、彼のにおい。香水の香り。

「レオン、いい匂いがするね。色っぽい匂い」

 そう言って真緒はレオンを抱きしめ返し、するりと離れた。

 レオンはその日、会社で佐伯や田代に何度もぼうっとしてますよ? と注意された。


「真緒さま、こんにちは」

「失礼いたします」

「いらっしゃいませ。工藤さん今日有給でしたっけ」

「はい、社長からたまには取れと命じられましたので」

 昼過ぎごろ、琴音と工藤が九十九やにやって来た。琴音はベージュのショートダウンジャケットに、チャコールグレイのニットワンピースで、先日工藤に買ってもらった簪で髪をひとまとめにしている。工藤はウールのジャケットに、チャコールグレイのニットとギンガムチェックのボタンダウンを着て、ややカジュアルだ。休日もシャツとスラックスで過ごすと聞いていたので、これは琴音のコーディネートだろう。さりげなく色を合わせて、側から見ても仲の良い夫婦に見える。


 琴音は見合い後すぐに工藤の家に押しかけてきた。挙式も新居もまだだが、早く一緒に住みたいと親戚一同の予定と思惑を置き去りにしての電撃同棲だ。

 それを拒まなかった工藤も工藤で、追い返すこともなく文句も言わず、余っていた部屋を琴音に与えて、顔色ひとつ変えずにひとつ屋根の下で暮らしている。定食屋で取っていた昼食が、愛妻弁当に代わっても、澄ました顔は変わらずだった。


「工藤さんカジュアルもお似合いですね。素敵じゃないですか」

「ありがとうございます」

 工藤が控えめに頭を下げる。隣の琴音は満足そうに笑顔を作った。

「本日は練り香水を買いにきました。以前私が買った商品はまだございますか?」

「ありますよ。琴音さんも見てみます?」

「はい、私も練り香水を買おうと思って総一郎さまについて来ました!」

 九十九やが開店して間もない頃、ふらりと工藤がやってきて、香りの控えめな香水のようなものはないかと尋ねてきたことがあった。そのとき真緒は幾つか仕入れていた練り香水を工藤に見せ、男性でも使える香りを勧めたのだ。人狼は匂いに敏感だから香りものはつけないと思っていたが、獣臭さを隠すためにつける者がけっこういるらしいのだ。

「工藤さんのはすぐにお出ししますね。琴音さん、好みの香りはございますか?」

「うーん、総一郎さまの香りの邪魔にならないような、それでいて花の香りみたいな、そんなお品はありますか?」

 琴音は形のいい指を顎に当てて考える仕草をした。それだけで絵になるような容姿である。九十九やの看板娘でもやってほしいくらいだ。まぁレオンがいたなら「看板娘なら真緒だろう」とか言ってくるだろうけど。

 真緒は時期外れの品物も出してきて、盆の上に並べた。桜、梅、桃、薔薇、藤、水仙、睡蓮、金木犀、沈丁花。取り扱っている花の香りだけでこの数である。

「いっぱいありますねぇ。真緒さまはどれを使っていらっしゃるのですか?」

 琴音はひとつひとつの香りを確認しながら、真緒に訊いてきた。

「私は何もつけていませんよ? お客さまの苦手な香りだと困りますしね」

 真緒は首を傾げて答えた。

「あれ? でもほのかに甘い香りと色っぽい香りが真緒さまからするのですが……?」

「琴音」

 工藤が慌てて琴音の耳元で何かを囁く。聞いていた琴音が、だんだんと顔を赤く染めていったのを見て、真緒も気づいた。


 甘い香りは処女おとめの香り、色っぽい香りは今朝抱きついたレオンの残り香だ。


 夫婦生活の一端を見られたような気分になって、真緒は耳まで熱くなった。

「真緒さま、申し訳ございません」

「申し訳ございません、真緒さま、私すっかり香水の香りかと……そうですよね、旦那さまは吸血鬼で、仲睦まじくて、真緒さまはその眷属ですものね」

 2人に謝られて、真緒はぶんぶんと首を横に振った。2人は悪くない。人狼という鼻の利くあやかしの自然な反応だ。

「その、そんなにしっかり匂いますか?」

「真緒さまご自身の香りは、近づかないとわかりませんが、社長の香りは独特でございますから」

「多分、お会いしたことのない私でも、香りの跡を辿っていけるかと」

 はあああああ、と真緒は顔を覆った。馬鹿レオン。真緒は恥ずかしさのあまり、レオンの悪口を口にしていた。


「……気を取り直して、琴音さんの練り香水を選びましょうか」

 羞恥心は端に置いておいて、真緒は琴音の練り香水を選んでいく。あまり主張の強くない、それでいて好感の持てる花の香りを、真緒は手にした。

「手首や耳の裏に、少しつけてみてください」

 琴音は真緒の言う通りに、練り香水をつけてみた。くるりとその場で一回りすると、ふわりと華やかで良い香りが漂った。隣にいる工藤も、うむ、と頷く。

「いい感じですわ。これにします」

 琴音は笑顔で即決した。

「他も試さなくて良いのですか?」

 決断力のある琴音に、真緒は少々押されながらも、売り手として尋ねた。

「香りはひと通り嗅がせて頂いていましたし、真緒さまの選んでくださったお品です。私もこれが一番しっくりくると思っておりました」

「では工藤さんのお品と二つですね。ありがとうございます」

 ラッピングはしなくていいとの2人の申し出に、真緒はそれぞれテープを貼るだけにして渡した。工藤は胸ポケットに、琴音は提げていたポシェットに練り香水を入れ、ありがとうございました、と穏やかに店を後にした。


 2人が去った後、真緒は商品を片付けながら、自分の香りについて考えていた。

 処女である香りはおそらく生涯とれないだろう。レオンの香りはブレンドされている分独特で、主張が強いが、だいたいの人において好感が持てる香りであるとは思う。たぶん。ものすごい色気を感じる匂いだけど。あれはフェロモン出しすぎなんじゃないかと思うけど。うっとりするような香りではある。

 今日はうっかり抱きついて香りが移ってしまったが、普段は真緒からは匂わない筈だ。

であれば、処女の香りと相性の良い香りをつけたら、処女であることを隠せるのではないか。店に来るあやかしに、自分は処女ですと、無意識に主張しているのもちょっと恥ずかしいので、香りを身につけるのもいいかもしれないと、思った。

 いつだったか青山にいた頃、佐伯や他の人狼たちに蜂蜜に近い匂いがするとか言われたことがあったような。

 真緒は蜂蜜の練り香水を手にして、ちょっと手首につけてみた。うん、悪くないかも。

 蜂蜜の練り香水を自分用に買って、真緒はその日を過ごした。


「ただいま」

「おかえり、レオン」

 玄関で迎えたレオンの手に、真緒の好きなケーキ屋の箱があった。ケーキを傾けないよう、器用にレオンは真緒を抱きしめる。

「どうしたの、ケーキ」

「ん。たまにはいいかなと思ってさ」

「ありがとう」

 うんと背伸びをして、ようやく届くレオンの顎に、真緒は軽くくちづけた。

「シチュー作ってあるんだけど、食べる?」

「おう。バゲットちょっと焼いてくれ」

「わかった」

 するりと離れた真緒から、ほんのり甘い香りがした。真緒自身の香りとは違う、甘い甘い香り。

「真緒?」

「なぁに」

「なんか、お前さんいい匂いしないか?」

「ちょっとね。練り香水をつけてみたの」

 受け取ったケーキの箱を冷蔵庫に入れていた真緒は、照れくさそうに言った。

「悪くないな。風呂上がりにもつけてくれ。ずっと嗅いでいたい香りだ」

「いたずらしない?」

「なに、キスの場所と回数が増えるくらいだ」

「それ無茶苦茶恥ずかしいんだけど」

「そろそろ慣れてくれよ」

「恥ずかしいのは恥ずかしいの」

 ぷいとそっぽを向いた真緒を、レオンは後ろから優しく抱きしめた。


 キッチンからはシチューの美味そうな匂いがした。



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