第30話 欠片たち

その一、約束


「じゃあ、帰りの時間になったら、お母さんここで待ってるからね」

 きゅっと励ましに握ってくれる細い手。そのぬくもりを感じながら、私はいつも学校へ行っていた。

 学校で私は他の級友たちの小間使いだった。あれとって、こっち持ってきて、それちょうだい、これ片付けて。

 いじめではない。ただ、家で父に言われるように、みんなにお願いされたのを聞き入れているだけだった。

 だからなんともない。

 子どもだった私の心に、重く暗い澱は静かに溜まっていったが、私自身気づいていなかった。


 異変に気づいたのは母だった。

 買ってもらったばかりのお気に入りのポーチを、級友が欲しいと言ったので、手放したくはなかったが、しぶしぶあげた。中に入っていたくしや鏡も取られてしまった。

 家に帰ると、涙がぽろぽろと勝手にこぼれた。心配した母が涙の理由を聞く。母は私を抱きしめた。

「嫌なときは嫌だって言っていいのよ?」

「でも、お父さんみたいにぶったりけったりしてくるかもしれないって思うと怖くて言えない」

 母は息を飲み、大丈夫よ、お友達はぶってこないわ、と力いっぱい抱きしめてくれた。

 その後母は先生に電話をした。なにを話していたのかわからなかったが、翌日、ごめんねと級友からポーチが返ってきた。

 その頃から、母は私を学校の途中まで送り迎えするようになった。専業主婦だったが、家のこともこなしつつ、父の機嫌もとりつつ、父に内緒で送り迎えをし、私の話をよく聞いてくれた。

 学校が見えてくる歩道橋の前。そこが母と別れる場所だった。母は私を抱きしめ、手を握り、真緒、嫌なことは嫌ってはっきりいうのよ? と毎日言い聞かせてくれた。お陰で少しずつだが、学年が上がるにつれて、自分の意見を言えるようになっていた。


 ある日の下校時間、いつもの待ち合わせ場所に大勢の人がいた。服装と声から、ときどき交通整理をしてくれる警察の人たちだと分かった。

 救急車が遠ざかる音を聞きながら、どうしたんですか、と尋ねると、子どもは知らなくていいんだよ、と答えてくれた。私は母といつもここで待ち合わせしてるんです、と言った。警察の人は目を大きく開き、お母さんのいつもの服装、わかるかな? と聞かれたので、グレイのパーカーにジーンズをはいて、空色のエプロンをしています、と答えた。警察の人は顔色を変え、

「落ち着いて聞くんだよ。君のお母さんが、事件に巻き込まれて、今救急車で運ばれた。お父さんの会社の電話番号は分かるかい?」

と私に言った。私は連絡手帳に書かれていた父の会社の電話番号を伝えた。自分の声が遠くに聞こえる。


 白檀の香りを嗅いだのは、母の葬儀が初めてだった。


 今は白檀の香りのする練り香水を扱ったり、お寺などにも普通に行けるが、幼心にこびりついた記憶は、ときどき蘇る。

 寝言で母を呼んだり、一筋の涙を流したりと、感情の発露は様々だが、レオンはそれにしっかり気づいてくれて、普段よりも優しく抱きしめてくれる。

「きっと時が癒してくれる。大丈夫だ」

と。

 あたたかな腕の中で、私は少しずつ、心の傷が癒やされるのを感じていた。



その二、嫉妬


 俺は真緒を愛している。

 誰にも負けずに愛しているし、真緒もまた、俺の愛に応えてくれている。


 なのに。なのに。


 今、真緒の膝を借りて甘ったれている男たちに、レオンは嫉妬心を静かに爆発させていた。

 真緒と結婚して6年。己が人生と比べればほんの一瞬のような年月だが、そこには確かに6年分の愛が溢れていたはずだ。

 長き生涯の伴侶に。そう思って口説き落とし、反対する真緒の家族から真緒を守るために駆け落ちまでした。

 その真緒が、今、自分以外の男たちに囲まれている。


 レオンが心乱されていると、男の1人がむくりと起き上がった。あら、もういいの? 真緒の慈愛に満ちた声が聞こえる。男はレオンの視線に気づいてニヤリと笑うと、そのまま真緒に抱きついた。

「あらあら、甘えん坊さんね」

 真緒は男に笑顔を向けると、男に頬ずりする。俺にさえそんなことしてないじゃねぇか。レオンは男たちを引っぺがそうと立ち上がり─


「ありがとう真緒〜! お店落ち着いたからちびども引き取りにきた〜」

「おつかれ、茜ちゃん」

「ほんとゴメンね。保育園の水道管工事で今日園が休みなのすっっかり忘れてたわ。真斗、優斗、真緒おねえちゃんにありがとして帰るよ」

「「あ〜い」」

 抱きついていた3歳児と、膝枕で眠っていた2歳児が可愛らしい返事をした。ぺこちゃんと頭を下げて、母親である茜に抱っこされて帰っていった。


「子どもってやっぱり可愛いね」

「油断するなよ。小さくても男だからな?」

「レオン、子どもにやきもち焼くのやめなよ、大人気ない」

 真緒はレオンの嫉妬深さに呆れた。



その三、愛妻家(吸血鬼・546歳)の証言


 真緒は可愛い。

 これを本人に伝えると目が腐ってんじゃないの? と言われるので黙っているが、レオンの真っ直ぐ素直な気持ちである。

 小柄で潔いほど短く切った前髪に切り髪、和服に身を包んだ姿を見ると、こけしのようにキュートだと思う(これもひっぱたかれるので黙っているが)。

 特にときめく瞬間は、やはり血を分けてもらうときだろう。白い肌、細い首、血を吸われているときの甘やかな吐息。これが全て自分だけのモノであると思うと、胸が締め付けられる感覚に陥る。


 レオンは吸血鬼だ。500年前、うっかり棺ごと船に乗せられ、長崎へとたどり着いた。以来、人間社会に関わったり関わらなかったりを繰り返しながら、現代を生きている。

 このご時世、処女の血を求めて歩き回ると職質されるわ未成年者なんたら法に引っかかるわで闇医者経由で回ってくる輸血パックの血しか飲んでいなかった。だから成人して10年以上経っており、なおかつ基本は物腰柔らかな処女の真緒と出会ったとき、外見年齢も(童顔だが一応は)釣り合うし、これで新鮮な血がいつでも飲めると喜び、彼女を口説き落として、半ば駆け落ちの状態で眷属兼伴侶にしたのである。


 隣ですうすう寝息を立てている真緒を眺めて、結婚して良かったなとレオンはしみじみと思った。ヒトではなくなったため、『人並み』の幸せは掴めないだろうが、それ以上の幸福や喜びを与えたいとレオンは考えている。


 さしずめ今の彼女の幸せは、寝る前にこれいいなぁとこぼしていた着物を買ってやることだろう。


 彼女の驚く顔と笑顔は、レオンの心の癒しでもある。


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