第29話 横浜その後

 真緒が泣き腫らしたこの顔でレストランに行くのは嫌だ、ということで、夕食は急遽ルームサービスで部屋でとることになった。食事を運んできたボーイに、急ですまないとチップをこれでもかと渡し、謝意を示す。

 食事が終わる頃合いにこのボーイはまたやって来て、空になった食器を片付けつつ、

「奥様、よろしければこちらをお使いください」

と、よく冷えたタオルを持ってきてくれた。真緒は赤面しつつ、ありがとうございますとタオルを受け取り、目元を冷やす。

 ぬるくなりましたら、代わりをお持ちしますので、またお声がけください、とボーイは穏やかに微笑んで去っていった。


「……夫婦喧嘩したって思われてるんだろうなぁ」

 レオンは不本意だという顔で唸った。

「ごめんね、帰りもけっこう見られてたよね」

 色白の真緒は泣くと目尻が朱を差したように赤くなり、瞼が腫れる。真緒はすんすんと、再会の感激と衝撃の事実の余韻を引きずりながら、ホテルへと戻ってきたのだ。まだ年若いドアマンが、真緒の顔を見てちょっと目を瞬かせ、次にレオンの顔を見たのを知っている。

「まあ、俺が泣かせたってことでいいさ。弟と再会できたんだからな。誤解も甘んじて受け止めるさ」

 備え付けのミネラルウオーターをひとくち飲んで、レオンは笑った。二度と会うことはあるまい。あの日お互いそう思っていたので、今回の再会はレオンにとっても意外であった。

「ねえレオン。明日行きたいところがあるんだけど」

 目元を冷やしながら真緒がお願いをしてきた。レオンには行き先が分かっている。

「春樹の師匠の店だろう? お前さんが行くかもしれないからってさっき春樹からメールが来て、住所と営業時間教えてくれたぞ」

「まあ、はるちゃん気が利くようになって」

 真緒は弟の成長ぶりにまたタオルを顔に当てた。今日は涙腺が緩みっぱなしだ。レオンはよかったな、と言って明日の電車の乗り換えや時間を検索する。


「実家のことで私にできることってないかな」

 明日行く喫茶店のホームページを、レオンから転送してもらいながら、真緒はつぶやいた。

「お前さんな、お人好しも大概にしろよ? 誰のせいで家を出ることになったんだ?」

「違うの。正確には、はるちゃんに対して何か援助とかできればなって」

 両親がどちらも施設に入所しているのだ。国や市からの補助や家の売却残金があるとはいえ、細々とした喫茶店の経営だけではいずれ底をつくだろう。

「春樹に仕送りするか?」

「受け取ってくれないと思うの」

「じゃあ向こうから困ったと言われたときに、倍くらい出せるようにガッツリ貯めておくんだな。今はあいつの責任感と矜持を尊重した方がいいと、俺は思うぜ」

「むう」

「そうだな……。あとは商売繁盛と悪客避けの札作るくらいか? それとお前さんの店のホームページに掲載するとか」

 真緒は冬の旅行のたびに、そのとき泊まったホテルや、立ち寄った店を、許可をもらって掲載している。地方の店の発信など、微々たるものだろうが、それでも好印象で書かれるのは悪いことではないだろう。実際、「九十九やのコラムを見て、というお客が来た」とお礼状が何回か届いたことがある。自分ができることは、これくらいだろう。

「わかった。お札気合い入れて書く。あとちゃんとした写真載せたいから、またはるちゃんのお店に行ってもいい?」

「札も直接渡したいんだろう? 明日、師匠の店に行った帰りに寄るか?」

「うん」

 ようやく真緒の顔に笑みが戻ってきた。


 翌日、濃紅に淡い白の小花が散った、真緒が持っている着物の中では珍しい小紋に、薄柿色の帯を締め、黒いケープをまとって真緒は出かける準備を整えた。ケープはレオンが「こういうの欲しかったんだろ」と年末にプレゼントしてくれたものだ。黒いフェイクファーに、襟がへちま襟ではなく、シャツの襟のようになっているその品は、真緒が「こういうデザインのはなかなか無いのよね」と、落書きしていたものを、レオンがこっそり拝借し、地元の着物屋、いしいやで店長たちと相談して作らせたものだった。真緒は経緯は知らないが、小柄な自分にぴったりのケープが特注品であることは分かったので、喜びのあまり真緒からレオンに抱きつくという珍事を起こした。

 そんなケープで颯爽とロビーを歩く真緒は、目元の赤みと腫れも引き、昨夜とは違って堂々としていて、ホテルの宿泊客にふさわしい品格を醸し出していた。

「行ってらっしゃいませ、奥様、旦那様」

 年配のドアマンが恭しく一礼する。

 

 電車で真緒たちはチラチラと乗客の視線を集めたが、2人は春樹の師匠のお土産に何がいいかで討論していた。スタッフの人数が把握しきれていないから量の多いものを、と言う真緒に、土産は師匠だけでいいだろう、小ぶりな高級チョコでいいんじゃないかと言うレオン。

「はるちゃんの同期とかいるかもしれないでしょう? その人たちにも気持ちでいいからお礼がしたいの」

「そんな不確定要素で土産を買ってどうする。ここは確実な師匠だけにしておくべきだ」

 結局、社会経験の豊富なレオンの案が通り、百貨店でチョコを買ってから春樹の師匠の店へ向かった。


 店は駅前の雑居ビルの地下にあり、店内に入ると、時間がゆったりしたような気分になった。春樹の店とほぼ同じ内装で、こちらの方が倍近く広い。テーブル席が多く、商談や面接によく使われるようで、スーツ姿の客も多くいた。

「いらっしゃいませ」

 白いシャツに黒いスラックス、エプロン姿の薄茶の瞳の青年がやってきて真緒たちを出迎えた。

「あの、マスターはいらっしゃいますか? 以前こちらに勤めていた井上春樹の姉です」

「……春樹のお姉さん?」

 青年は客用の笑顔をやめ、驚愕の表情でまじまじと真緒を見つめた。コホン、とレオンが軽く咳払いをする。青年はそれで我に帰り、少々お待ちください、とカウンターの向こうに消えた。

 しばらくしてマスターらしき60代くらいの男がやって来た。サンタクロースを坊主頭にして口髭を生やしたらこんな感じだろうな、という恰幅の良い紳士だった。


「いらっしゃいませ、私が当店のマスター、浅田です。どうぞこちらにお掛けください」

 心地よい声音でマスターは真緒たちを席に促した。カウンター席はいくらか空席があったが、テーブル席はほとんど埋まっていた。

「お姉さんがここにいらっしゃったということは、春樹君と横浜で再会できたのですね?」

「はい、毎年冬休みを利用して都心に旅行に来ているのですが、今年は横浜に行って。そこで偶然再会しました」

 先ほどの青年がコーヒーを淹れて、真緒たちの前に置いた。シンプルなカップに、店のロゴが青色で印刷されている。

「春樹君は二度とお姉さんには会えないだろうと、こぼしていました。いろいろ恩返しがしたかったのに、と。自分がちゃんと育ったのはお姉さんのおかげだと、何度も言っていました。素直で向上心があって。家ではどうしていいかわからなくて、お姉さんに苦労をかけたと」

 マスターは思い出を慈しみながらぽつぽつと春樹のことを語った。

「その春樹君が、お姉さんと再会できたのは、私もとても嬉しく思います」

 語る口調は穏やかで、心から、真緒たちの再会を喜んでいることがうかがえた。

「私も、弟と再会できたことはとても嬉しいですし、ちゃんとマスターとしてやっている姿を見て、安心しました。こちらでしっかり修行させていただいたようで、本当にありがとうございます」

 真緒はマスターに深々と頭を下げた。すかさずレオンが、よろしければ、とチョコの入った紙袋を渡す。マスターは、「これはこれは。私の大好物ですよ」と微笑んで受け取った。真緒たちを案内した青年が、「マスター、1日一個ですからね」と通りしなに釘を刺す。どうやら糖尿の気があるようだ。

 真緒とレオンはこそりと視線を合わせて笑った。


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