第28話 再会の横浜

 レオンは新幹線から降りた妻を見て、僅かに不安を覚えた。長距離の電車に慣れていないのと、一定時間閉じ込められるという不安から、乗車中の真緒は緊張し、いつもレオンの服の袖を掴んで離さなかった。レオンにとって遠出の旅はいつも彼女の機嫌をどうやって取るかが課題であった。

 今年は特に、寝起きの表情が気になっていた。うなされていた訳ではなさそうだが、あまりいい内容の夢ではなかったようだ。その後、真緒自身も務めて明るく振る舞うようにしていたが、時折見せる難しげな顔が、この旅行に影を落としていた。

 道がわからないのに先に歩く真緒を追いかけて、レオンはこっちだ、と真緒の手を握って歩く。普段なら恥ずかしがって文句をいうはずなのに、今は素直に握られている。この状況はあまりよくないな、とレオンは思った。


「なぁ、何があったんだ?」

 ホテルに到着して部屋に入り、荷物を置いて、ベッド広いね、と呟いた真緒の前にレオンは立ち、そっと両手で彼女の頬を包む。真緒は数度瞬きをして、目を伏せた。口を開いて閉じて、ようやく気鬱の内容を告げてくれた。

「今朝の夢に白狼さまが現れて、目元はよく冷やせよ、と言われたの。お声は感情がこもってなくて、いい夢なのか悪い夢なのか判断ができなくて」

 白狼とは霊山のヌシ、山の神だ。人妻であるがまだ処女の真緒に、たまにお告げのような夢を見せることがある。

「また中途半端なお告げだな。何ですぐに言わなかったんだ?」

 責めているように聞こえないよう、レオンは優しく問うた。

「レオン、白狼さまのお話すると機嫌悪くなるし、せっかく楽しみにしてた旅行に水を差したくなかったの」

 すん、と落ち込んだ声で真緒は答える。ああ、自分を思って1人で抱え込んでいたのか。

レオンはごめんな、と真緒をそっと抱きしめた。

「まあ、気にしても仕方ない。そんなお告げ吹き飛ばすくらい楽しもう」

「うん、ありがとう」

 夕食まで時間があったので、2人は近所を散策することにした。


 しばらく歩いて、いくつか店が立ち並ぶ小道を見つけた。観光客目当ての店だろうか、それにしても真緒たちの住む地とは異なり、石畳の小道の店たちは、目新しく、洗練された、それでいてどこか懐かしいような雰囲気が漂っていた。

「ここ、商店街って言っていいのかな? なんだかおのぼりさんになった気分」

 帽子屋や靴屋、雑貨屋などを横目に真緒はレオンに尋ねた。どれもハイカラ、と言っていいような、和服の真緒が入るのを少し躊躇うような店ばかりだ。

「商店街とは言わなくても、店がかたまって存在することはよくあるさ。街が違えば集まる店も違ってくる。横浜はこんな感じなんだなって思えばいい」

「新しいのにちょっと懐かしい気がするって不思議」

 しばらく歩くと、純喫茶だろうか、木枠の扉と窓の店が現れた。入り口前にメニューが一部載っている看板が立てられている。

「夕飯前だがちょっと休んでいくか?」

「そうだね。わ、写真のプリンがすごいレトロな感じだよ」

「ほう、フェアトレードのコーヒー豆を使ってるのか」

「それでこのお値段なんだね」


 がらんがらん。

 看板を見ていると、ベルのついた扉が勢いよく開けられた。2人とも同時に顔を扉の方へ向ける。見ると背の高い青年が肩で息をしていた。エプロンをしているのでこの店の店員なのだろう。真緒はどこかでその青年を見かけたような気がした。

「姉ちゃん。にいさん」

 青年が口を開いた。

 2人は一瞬、ぽかんとしたが、先に我に帰った真緒が反応した。

「……はるちゃん?」

「ほら、やっぱり真緒さんだ! 髪切ったんですね! 着物姿やっぱり似合いますねぇ!」

 青年の後ろから、同じ年頃のエプロン姿の女性が顔を出した。高校生の頃から変わらない、地毛の栗色の髪に左目下の大きな泣きぼくろ。こちらはすぐに繋がった。

「みちるちゃん?」

 春樹が高校生になって間もなくできた彼女だ。紹介されて何度か会っていた。

「あー! 覚えててくれた! 嬉しい!」

「はるちゃんって、確かお前さんの弟だったか」

「はい、春樹です。ご無沙汰です」

 春樹はそう言うとレオンに向かって頭を下げた。

「どうして、はるちゃんたちが、横浜に?」

 真緒の声は独り言のようの小さかったが、しっかりと春樹に届いたようだ。

「その辺話すから、中入らない? ここのコーヒー、美味しいよ」


 春樹は店に入るとまず、

「お騒がせしました。結婚して以来会っていなかった姉夫婦が店の前にいたので、つい飛び出してしまいました」

と素直に説明し、店内の客に謝罪した。みちるや他のスタッフも頭を下げる。

「マスターのお姉さん?」

「あら素敵な白大島!」

「帯もいいわねぇ、薔薇色で春らしくて」

「旦那もいい男じゃないか。モデルさんかい?」

 常連客であろう人々が口々に声を上げる。学生から年配のご婦人がた、老人まで、客層は幅広い。どれも真緒たちに好意的だ。

「はるちゃん、マスターなの?」

 つまりこの店の最高責任者だ。年若い春樹が務められているのだろうか、と真緒は心配になった。

「そこも説明するから、とりあえず座って。グレコ、水とメニューを」

 グレコと呼ばれた褐色肌の青年は、ハイ、とカウンター側で用意をする。その間、みちるが真緒たちを最奥のテーブル席に案内し、春樹は辞書とノートを広げてカウンターを陣取っている学生君に、また今度ね、と声をかける。学生も慣れているようで、頷いて残っていたコーヒーを飲み干して、会計をして帰っていった。

「こチら、メニューです。決まりましたラ、呼んでくださイ」

「おう、ありがとう」

 店内を見ると、夕暮れで薄暗くなっているにも関わらず、そこそこ席が埋まっている。みな近くに住んでいるのであろう。軽食も出しているようだから、ここで夕飯を済ます者もいるようだ。


「まずは、あれからウチがどうなったか知りたいよな?」

 おすすめのケーキセットを2つ頼み、香り高いコーヒーと、チョコレートケーキが目の前に置かれた。

 春樹は奥からスツールを持ってきてそこへ座った。真緒が固い表情で頷く。

「まずはじめに、おふくろがアルコール依存症になったのが、姉ちゃんがいなくなってから1年後のことだ。で、NPO法人が支援してる宿泊施設で今も治療中。それから半年後に親父が認知症になって、徘徊し始めちまったから、こっちも介護施設に預けてる。それでようやく龍樹兄ちゃんに診察を受けてもらって、自閉症とADHDって診断がおりた。去年からはオレとみちるとみちるの姉ちゃんと一緒に暮らして、こっちの支援事業所で働いてる。前よりずっといい顔するようになったよ」

 ひと息に説明された真緒とレオンはしばらく声が出なかった。春樹の顔は穏やかで淡々と話していたが、内容は想像以上に重たかった。

「兄貴はその手の診察を拒んでいたのか?」

 絶句している真緒の代わりにレオンが尋ねる。

「いや、親父がうちの血筋に限ってそんな病気にはならんってずっと拒んでたんです。オレも姉ちゃんも一度お医者に診せた方がいいって言ってたんですけどね。あんまり言うとモノ投げつけてきたんで、おっかなくて最近は黙ってましたね」

「両親も治療っていうか、外部に任せてるんだろう? その金はどうした?」

「これは姉ちゃんにも謝んないといけないんだけど、あの家を売って、そのお金で2人を預けたんです。一度兄ちゃんが暴れて家の一部を壊したときに、姉ちゃんが貯めてたお金でフルリフォームに近い形まで直してくれて。お陰でいい金額で売れたんです。ごめん姉ちゃん、姉ちゃんとは二度と会えないと思って持ち物ほとんど売っちゃった。みちるにあげたのもある。勝手に実家と持ち物売ってごめん」

「それでお前さん、貯金無いって言ってたのか。そりゃ無くなるわな」

 いつの間にか真緒は顔を両手で覆っていた。泣いているのを隠しているのだろう。ふるふると首を横に振る。

「で、オレは高校時代からバイトしてた喫茶店に卒業後本気で学びたいんですって師匠に頭下げて従業員にしてもらって、5年間みっちり修行して、あっちの店を引き継ぐ予定だったんだけど、師匠の常連さんが行くなって言って離さないから、結局横浜のこの店のマスターとして暖簾分けみたいな感じでやらせてもらってるんだ。師匠はもともと横浜の出身で、歳取ったら横浜に戻って同じタイプの店を開こうって考えてたらしくて、ここも内装まで済ませてあったんだって。でもお客さんにそこまで言われたら残らずにはいられないって、そんな感じでオレがここのマスターしてます」

 春樹は最後少しおどけて言ってのけた。根性と胆力は真緒以上だな、とレオンは感心した。

「立派になったなぁ」

「レオンにいさんに言われると嬉しいっすね。オレは小学生の頃から自立するんだって決めてて」

「ほう?」

「家庭科でカレー作りの授業があったんですよ。そこでオレとあと2人くらいしか包丁触ったことないやつがいなくて、人参も、皮をむいて食べるんだってはじめて知って。家のお手伝いしたことある? って聞かれて親父に禁止されてる、家事は女がするもんだって言われてるから、姉ちゃんがひとりでやってるって言ったら先生真っ青になって。オレのうちはおかしいんだなって、そこでようやく気づいたんですよ。そこからまず姉ちゃんを助けて、それから兄ちゃんを病院に連れて行こうって目標を持って、ずっと進んできたんです。まぁ姉ちゃんはレオンにいさんが助けてくれたから、あとは兄ちゃんだって─」

「ごめんね、はるちゃん」

 涙声で真緒が呻いた。

「何がだよ。姉ちゃん何も悪くないよ」

「だって、父さんのことも、お母さんのことも、手続きとか、すごく、大変、だったろうに、私、全部、なげうって、出てきちゃって、はるちゃん、ばっかり、苦労、させて」

 真緒はしゃくりあげながら言葉を紡いだ。すんすんと鼻をすする。

「あのな、最初に20年近く苦労してたのは誰だよ。オレはそれを見て助けなきゃって動いただけだ。それでこの結果なんだ。おっかない親父も、だらしないおふくろも、引きこもりっぱなしの兄ちゃんもいない。オレはオレの夢を叶えたし、みちるとも結婚して幸せに暮らしてる。姉ちゃんは幸せか?」

 うんうん、と真緒は頷く。レオンがそっと真緒にハンカチを差し出した。ありがとう、とくぐもった声で真緒はハンカチを受け取り、大粒の涙が溢れる目を押さえた。

「まぁ入所の手続きってのは面倒臭いんだろ? どこで調べたんだ?」

「みちるの姉ちゃんがそういうのに詳しい人とツテがあってさ。そこから適切な人材を紹介してもらって事に挑んだんだ。オレだって無手で挑んだんじゃ無い。ちゃんと対策を練って挑んだんだ。時間はかかったけど、今はこの通りほぼ理想のカタチで自立してる」

 満足してるんだよ、と春樹は嬉しそうに微笑んだ。


 ほら、食べて、とみちるに急かされて飲みはじめたコーヒーは、冷めていてもふくよかな味がして、チョコレートケーキは、今まで食べた中で一番美味だった。

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