第26話 結婚記念日

 今日の朝食はコーヒーにミニトマトのサラダ、クロックムッシュだった。最近、手際が良くなったのか、コーヒーは豆を挽いて淹れてくれて、サラダのドレッシングもお手製が増えた。お酢が苦手な真緒のために、あまり酢を使わないマヨネーズドレッシングや、オーロラソースを作ってくれる。クロックムッシュも、麦芽入りの食パンに、マーガリンと塩気の強いハム、塩気と甘味のある溶けるチーズがたっぷりと挟まっている。

「あれ、珍しい。チーズあんまり好きじゃないって言ってたのに」

 着替えを済ませて席に着いた真緒は、目をくりくりさせてレオンを見た。

「この間お前さんがグラタンで使ったチーズなんだけどな、あれなら俺も食べられそうだったんで使ってみた」

「無理して食べなくてもいいんだよ?」

「いや、このチーズは平気だ」

 肉屋のハムも美味いしな、とレオンは大きな口を開けてかじりついた。この歳になっても挑戦ができるのはいいことだ、と実に前向きな発言をする。

 過去に人間に迫害されたこともあるのに、人間不信に陥らず、最新の技術や情報を真剣に、楽しそうに取り入れていく。その心境に至るまで、どれだけ苦労したことか。真緒には想像できなかったが、その苦労を少しでも癒せることができたら、と思っている。


「なぁ真緒」

「なぁに」

「結婚記念日、決めようぜ」

 真緒はきょとんとした顔でレオンを見た。

「籍は入れたがあんなゴタゴタがあって、入籍日にいい印象ないだろう? だから、真緒の好きな日を結婚記念日にしようと思ってな」

 レオンはコーヒーを飲みながら真緒の表情を窺う。真緒は口に入れたパンをゆっくりと咀嚼して、ごくんと飲み込んだ。

 真緒自身は記念日などにあまり興味はないが、せっかくレオンが提案してくれたのだ。この6年近く、ずっと気にしていたのだろう。しばらく考えて、冷蔵庫の脇にかかっているカレンダーを見た。3日後は大安と書かれている。

「じゃあ3日後を結婚記念日にしようか。日にちも覚えやすいし、今年は吉日だし」

「よっしゃ。ケーキとワインで祝おうぜ。それとも寿司と日本酒がいいか?」

「レオンの好きな方でいいよ。私はどっちでも嬉しいし」

 いつも自分に選ばせてくれるので、たまにはレオンに選択権をあげたい、という気持ちもあったし、どちらで祝われても嬉しいことには変わりなかった。レオンはそうか? と言って腕組みをして考える。

「両方って手もあるよな」

「もう、食べきれないでしょ」

 真緒は呆れた顔で夫を見る。2人は吸血鬼であり、食事は嗜好品であり、そこまで大量に摂取するものでもない。真緒もレオンも人並みに食べるが、メインはやはり人間の血なのだ。

「そうだなぁ。久しぶりに日本酒にするかな」

 レオンは楽しそうに真緒に言った。そうとなれば行きつけの鮨屋にいい寿司を握ってもらって持ち帰りにしてもらおう、とスマートフォンを取り出して、あ、まだ開店前か、とそそくさとしまう。行動派なのだがせっかちなところもあるレオンの言動に、真緒はせっかちねぇ、とくすくすと笑った。


 3日後、仕事の帰りがけに真緒は裏の商店街にある酒屋に寄った。2人の酒の好みを知る店員に、お祝い用にちょっといい日本酒をと頼んでいたのだ。

「これならお2人さん共に楽しめると思いますよ。ところで何のお祝いで?」

 持ちやすいように丁寧に日本酒を包んでくれた店員に聞かれ、結婚記念日なんです、と真緒は少々照れながら答えた。

 店員はぽかんと口を開けていたが、どうしました? と真緒に言われて我に帰り、

「それ早く言ってくださいよ!」

と慌てて在庫の確認をしていた店主を捕まえて何やら相談し始めた。店主も驚いた顔で真緒を見て、ちょっと待っててな、と奥へ引っ込む。

 何かまずいことでも言ったのだろうか。このお酒は結婚記念日には相応しくなかったのだろうか? と真緒が考えてると、店主と店員が揃って真緒のところへやって来た。

「重たくなっちまいますが、これアタシらからのお祝いです」

 見ると店主の手には、真緒とレオンが好んで飲んでいる日本酒とワインの瓶が握られていた。

 え、と真緒が店主の顔を見ると、

「いいからいいから、重たかったらウチの若いのに家まで持って行かせますよう」

と満面の笑みを浮かべている。

「駆け落ちして苦労なさったってのは聞いてますからね、ようやく落ち着いて普通に結婚記念日を祝えるようになったのが俺たちも嬉しいんですよ。どうぞ受け取ってください」

 店員もおめでとうございます、と頭を下げる。いや駆け落ちはしたがそんなに苦労した覚えはない。誰だ尾ひれをつけたのは。


 結局、酒瓶を3本抱えて(吸血鬼の馬鹿力で持つのは苦ではないが)商店街を歩くことになり、そこかしこで「あら真緒さんどうしたの、そのお酒」と聞かれ、説明をするたびに驚かれたり涙ぐまれたり、これ持ってって! と焼き菓子やら花束やらを持たせられて、嬉しさよりも恥ずかしさが上回った真緒は、礼もそこそこに家路へと着いた。


 2時間後に帰宅したレオンに言うと、あっはっはと大笑いされた。テーブルにはクロスをかけ、もらった花を花瓶に生けて、小皿に焼き菓子を乗せて、主食を迎える準備をしていた真緒は、笑いごとじゃないよすごい恥ずかしかったんだからね、とむくれた。

「すまんすまん。俺の行ったときはだいたい店が閉まってたからな、そんな熱烈歓迎はされなかったわ。大将、いいモノ握ってくれたぞ」

 レオンは手にした寿司を真緒に見せて、ぽんぽんと彼女の頭を撫でた。

 寿司をテーブルに乗せ、冷やしていた日本酒を開ける。ぐい呑みは、茜から去年のクリスマスにもらった夫婦用だ。

「じゃあ、乾杯」

「乾杯」

 軽く杯を掲げてから、ひとくち飲む。

 日本酒も寿司も、本当に美味だった。


「レオン」

「ん?」

 片付けも風呂も終わり、後は寝るだけというときに、真緒はベッドに座っているレオンの隣に座った。

「結婚6年目ってね、鉄婚式てつこんしきって言うんだって。それで、包丁とか鉄製のものを贈るといいって言われてるの」

「へえ」

「で、これ。私からのプレゼント」

 真緒はそう言って、枕の下から鍋を取り出した。煮込み料理やオーブンでも使える、南部鉄器の老舗の鍋だった。

「おおお」

 レオンの青い瞳が輝いた。

「重たいけど、いい料理ができるからいつかは欲しいって言ってたから、日頃の感謝も込めて」

「真緒」

「ひゃっ」

 感激のあまりレオンは真緒を抱きしめた。勢いあまって真緒と鍋ごとベッドに倒れこむ。真緒は鍋を落とさないよう必死に抱えていたが、レオンはお構いなしに額や頬に口付けた。

「レオン、重い。くすぐったい。お鍋も重い」

 にゃー、と猫のような悲鳴を小さく上げ、じたばたもがいて、ようやくレオンが離れてくれた。鍋も丁寧に受け取る。

「ありがとな、真緒」

 起き上がってきた真緒の額にキスをして、レオンは嬉しそうにキッチンへ鍋をしまいに行った。

「真緒、こいつで作る料理、いちばんはじめに何が食べたい?」

 キッチンからレオンが弾む声で真緒に尋ねた。

「ん〜、ビーフシチューかなぁ」

 あの鍋なら牛肉もとろとろに煮込めるだろう。よしわかった、とレオンの元気な声を聞きながら、真緒は改めて布団に潜り込んだ。


 真緒はふわふわとした気分で朝を迎えた。アラームを止めようとする手を、レオンが握って軽く口付ける。2人分のアラームは、今日もレオンの手によって止められた。

「自分の分は自分で止めたいの」

「腕の長さから俺が止めた方が早いっていつも言ってるだろ?」

 そこから軽いキスの雨が降ってくる。くすぐったさと気恥ずかしさから、真緒は布団を頭から被った。

「顔洗う前はダメって言ってるでしょ」

「寝てるだけなら、たいして汚れてないって」

 夫婦の毎朝の攻防である。そう言いつつもレオンは布団の上からぽふ、と真緒の頭を軽く叩き、素直に洗面所へと向かった。その間に真緒はぼんやりとした頭を覚醒させる。今日は予定は何か入っていたっけ?

「真緒、空いたぞ」

 洗面所からレオンが戻ってきた。んー、と真緒はのっそりと起き上がり、入れ替わりに洗面所へ向かう。

 顔を洗ってすっきりと目覚めたところに、着替えの済んだレオンが待ち構えていた。

「おはようさん、真緒」

 洗いたての冷えた頬に、温かい唇が寄せられる。

「おはよう、レオン」

 屈んできたレオンの頬に、真緒は触れる程度の軽い口づけをした。

 満足そうなレオンの笑顔を見て、やっぱりいい笑顔だな、と思った真緒は照れ隠しにうつむく。その様子を見てレオンがそっと真緒を抱きしめた。


 6年と1日目の結婚生活が始まる。

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