第20話 真緒の休日

 市村真緒いちむらまおの仕事は和雑貨店の経営だ。商売は素人だったが、ネット通販や経営の玄人である夫のサポートもあって、小さい店ながらも赤字は出さずに、商いは順調に進んでいた。最近、夫の不動産会社の役員に半ば強制的に雇用されたが、そちらも持てる知識と伝手を総動員してどうにかやれている。

 和雑貨店の主な営業日は平日及び土日祝。繁忙期は4月末〜6月、9月〜10月あたりだ。自営業なので休みはまちまちで、そこに不動産役員の仕事も入るので、年中休みなしのような状態になっているが、一応、休みはある。忙しさや体調に合わせてちょこちょこ休みを入れているので、長期休みは雪の積もる冬だけだ。その辺りもホームページにきちんと掲載しているので、客とのトラブルは今のところない。

 夫のレオンは不動産会社の取締役社長である。こちらも主な営業日は平日及び土日祝。都市ほどではないが、大学があり、総合病院があり、設備の整った老人ホームがあり、山寺や神社があり、自然百景に数えられる名所があり、緩めの地方ライフを求めて、それなりに引っ越ししてくる人がいる。レオンの会社は部下の父が設立した会社で、そこそこ老舗で、観光の基盤となっている二つの商店街からの信頼も厚い。他県の友人がここに住みたいと言っているから物件を紹介してほしい、といった相談を受けることも多い。遠方からのお客のスケジュールに合わせて動くこともあるので、こちらも休みはあるようなないような、そんな状態である(部下は曜日を決めてきっちりと休ませている)。


 そんな2人の休みが常に合うとは限らず。


 今日は真緒だけが休みの日である。夫のレオンを玄関で見送り、いってらっしゃいのキスを恥ずかしながらもやってあげて、リビングのベンチに座りながら、お掃除ロボの健気な姿を眺めていた。朝食の皿を、食洗機がウィンウィンと洗っている。洗濯機も全自動で、乾燥までやってくれるし、後でレオンのシャツにアイロンをかけるだけなのだが、シャツはまだ洗濯機の中だ。

「なにかやることあったっけ……」

 いや、そろそろ冬用のウールの着物や袷に風を通さないといけないし、夏に着た絽や紗も着物屋に洗いに出さなければいけない。家で洗濯できる素材の単はあらかた洗ってアイロンをかけ、来年まで休ませているが、正絹はプロに任せないとあとが怖い。


 真緒は幼い頃からずっと働いていた。家でも、会社でも、自分の都合に関わらず歯車のように働き詰めだった。働くことが真緒の人生であり、魂にまで染み付いた習慣だった。

 だから予定のない、特に急ぎでもない用件しかない休日に、何をすればいいのか、途方に暮れることがある。レオンは「好きなことをしてろ」というが、好きなことは和雑貨に囲まれること、着物を見たり着たりすること、好きな人といること、なので、結局仕事をしているか、レオンと過ごすかどちらかになってしまうのである。

 食洗機と洗濯と掃除が終わるまで、真緒はパラパラと定期購読をしている着物雑誌を読んだ。さすがに雑誌に掲載される着物たちは、とんでもないお値段のものが多い。いいな、と思って帯の値段を見ると30万近くする。化繊でいいから3万、せめて5万以内で収まらないだろうか、とお手軽に着物を着たい真緒は、いつもそう思ってしまう。着物を大事に、本格的に着てくれる人がいるからこそ、伝統が残るのだろうが、こちとら小市民である。伝統工芸師の着物なぞ、お金持ちが着ればいいのだ。化繊、綿、ウール。真緒にはそれで十分だと思っているし、身分相応だと思っている。紬はまぁ、カジュアル系だしいいだろう。紬も高いものもあるが、カフェでも買い物でも気軽に着れるという心理的ハードルが低い。白大島はご褒美だからいいのだ。

 真緒が世話になっている着物屋『いしいや』でも、小紋を薦められることがあるが、真緒は今年で36である。可愛い系のイメージがある小紋は卒業したいのだ。縞とか縞とか妥協してチェック柄とか幾何学模様とか、そういう、粋でかっこいい系がいいのだ。いや、小紋だってかっこいい柄はあるだろう。しかし柔らかものと言われる着物自体が、真緒の生き方と相入れない気がしてならない。素朴に地道に真摯にコツコツと。紬はそんな仕事根性を支えてくれるような、何かを感じて、真緒は好きだった。つまるところ、真緒は仕事中毒者ワーカホリックなのだ。


「よし、動こう」

 頬をぺちと叩いて気合いを入れると、真緒は動き出した。化繊の黒地に桃色の絣模様が入った袷に、朱色に蒲公英色のツートーンの博多帯をぽんと叩いて、ベンチから立ち上がる。

 まずリビングの窓を開けて、部屋に風を通す。風の通り道に着物ハンガーにかけた着物を引っ掛け、ベッドの目隠しのパーテーションに帯を垂らす。

 食洗機の食器を片付けて、洗濯物を取り出して、夫のシャツにアイロンをかける。下着やパジャマを畳み、袋に入れて夫の部屋のドアノブにかける。許可なくお互いの個室に勝手に入るのは夫婦でも良くないと真緒が言ったので、洗濯物はこうやっている。


 自分の洗濯物をクローゼットの引き出しにしまっていると、スマートフォンが鳴った。番号はいしいやである。店長か室戸さんかな、と思いながら、真緒は電話に出た。

『こんにちは真緒さん、今お時間大丈夫ですか?』

 相手は室戸だった。はい大丈夫です、と答えると、室戸は弾んだ声で用件を言う。

『白大島、届きましたよ。真緒さんのご都合のよろしい日にいらしてくださいね。帯もちゃんとガード加工してありますので』

「今日休みなのですぐ行きます!」

 真緒は勢いよく答えると、その場でぴょんと飛び上がった。

『わかりました、お待ちしてますね』

「あの、あと夏物も洗いに出したいのですが」

『はい、そちらも手配しておきますよ。あ、先代は今日、湯治でおりませんからご安心を』

 室戸が笑いながら付け足した。

 真緒はいそいそと窓を閉め、夏物を風呂敷に包み、財布とスマートフォンを入れた小さなトートバッグを提げて玄関へ向かった。


「お休みの日まで商店街に来なくてもいいと思うんですけどねぇ」

 いしいやで出迎えてくれた店長と室戸が笑う。しかし新しい着物が届いたと聞けば、早く手にしたいという真緒の気持ちもわかる。

「だって早く着たいじゃないですか」

「そうですね、これからの時期にぴったりですもんね」

「こちらになります。ご確認ください」

 店長がたとう紙を真緒の前に置き、室戸が紐を解いた。ほんのり象牙色に色づいた生地にダイヤのような模様が織り込まれている白大島は、真緒の目の前できらきらと輝いて見えた。

「八掛はこちらでよろしゅうございますか?」

 念のために室戸が確認を取る。洒落柿色のぼかしは真緒の肌の色にしっくりと合っていた。

「はい、大丈夫です」

「あと帯ですね。さすが先代はいい目をお持ちだわ〜」

 もう一つのたとう紙を広げて、室戸はひとり頷いた。なんだかんだ言おうと、先代の婆も真緒を気に入っていて、真緒の好みを把握しているのだ。薔薇色の半幅帯は、季節問わず真緒の着物のアクセントとして活躍するだろう。

「ありがとうございます。あ、これ洗いに出したい着物です」

 真緒は風呂敷に入った着物を室戸たちに見せた。素人では見落とすような、小さなシミなどを確認してもらう。

「この絽、襟元にシミがありますね。うどんの汁でもはねたのかな」

 店長が目敏くシミを見つける。隣で室戸がバインダーに挟まれたカルテのような用紙に、着物の色柄名称をサラサラと書き、襟元にシミと書き加えた。

「うわ、気をつけていたんですが……。落ちますか?」

「これくらいなら大事ないですよ。洗い張りすることもないでしょう」

 にこやかに店長が話す。真緒はほっと胸を撫で下ろした。


 いしいやの手提げ袋を片手に、真緒は帰路についた。吉日を選んで着たいものだ、とふわふわした気分で歩いていると、塀の上に誰かが座っているのに気づいた。危ないですよ、と声をかけようとすると、その人物がこちらを見てよう、と片手を上げた。にまりと一つの目が笑う。

 夏の夜に出会ったひとつ目小僧だった。

 真緒は慌てて周囲を見回す。この通りには真緒たち2人だけのようだった。

「御山の旦那からの言伝ことづてを預かっててなぁ。今年は大嵐を入れるから瓦が飛ぶのは覚悟しとけってさぁ。下手したら人死にもあるかもなぁ」

「大嵐……台風ですか? でも御加護でこの地にはほとんど来ないって聞きましたけど」

「たまに入れて結界の中の空気を綺麗にしてもらうんだとさぁ。ほら、おまえさんがたよく言うだろ? 台風一過のすっきりした晴天って」

 ひとつ目はそれだけ言うと、じゃあな、確かに伝えたぞ、と手を振って山の方へと歩いていった。途中で姿がすうっと消える。

 大嵐。最近の台風は大型で強い勢力を維持したまま北上してくると言う。この3年間、穏やかに暮らしていた街に、嵐がやって来る。


 真緒はなんともいえない気持ちで、山の方を見つめた。

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