第9話 白大島と呉服屋の婆

「なぁ、真緒。まだか〜」

 ゴールデンウイークの浮かれた雰囲気もようやく静まり、いつもの街の気配を取り戻してきた頃。世間では梅雨の知らせがあちこちで聞こえてくるようになった。

 久しぶりの2人一緒の休日に、レオンは素直に喜んでいた。平日休みの自分の店に、これまた観光客相手の店を持つ不定休の真緒。月に一度休みが重なればいい方で、その休みの日は家で過ごしたり、普段できない買い物したりと夫婦を満喫するのが常だが。


 今日は先日契約が成立した物件のあやかしを鎮めたご褒美に、着物を買うと約束をした日だ。

 なのに肝心の真緒が部屋から出てこない。レオンが何度か呼ばわって、ようやく入ってきて〜と入室の許可がおりた。

「……何やってるんだ?」

 真緒は白半衿をつけた桜色の襦袢姿で部屋の中に立ち尽くしていた。

「着物が決まらない……」

 前日には着るものをあらかた決めている真緒にとっては珍しい案件だった。

「何をそんなに悩んでるんだ? 今時期ならその空色の単なんかいいんじゃねぇの?」

「……デニムなのよ、これ」

 真緒は両手を腰に当てて唸った。

「デニムでもいいじゃねぇか。それに白の博多とか合わせりゃ涼しげでいいぜ? 何を悩んでるんだ?」

「お店に婆さまがいそうな気がするの。絶対何か言われる……」

 真緒はそう言って顔を覆ってしゃがんでしまった。

「あー……」


 これから行く呉服屋は、長いこと「婆さま」と呼ばれるご婦人が仕切っていた。若くして主人を亡くし、女手一つで店と4人の息子を育ててきた。現在は店を息子の1人に譲り、悠々自適な隠居生活を送るかと思いきや─織元の元へ向かう店長や営業部長の代わりに店を仕切り、花道茶道日舞の師匠と弟子たちに似合った着物を薦め、一般の客からは着物の選び方から着付けの仕方まで手取り足取り教えるスーパー店長代理人を務めていた。流石に近年、店の舵取りはしなくなったが、足繁く店に通っては常連客に一言二言余計なことを言うのである。

 真緒は紬を主に着ている。紬は洋服で言うと、少しカジュアルな場面で着る着物である。歌舞伎鑑賞やフォーマルな場で着ることは、教科書的にいただけない種類の着物である。そして婆さまは歌舞伎鑑賞やちょっとしたお茶会にふさわしい、フォーマルな訪問着や色無地を好んで着ている。そして客にも訪問着や小紋や色無地を薦めてくる。真緒は花道も茶道も日舞もしていない。なので小紋を着る機会があまりないのだが、婆さまは真緒にもやや強引に小紋を薦めてくる。紬と綿とウールで十分なんです、と言うと、昔じゃないんだ日常着なんざ売れやしないよ、と喧嘩腰に言い返される。その日常着を求めて、日々ネットサーフィンをしているのは、口が裂けても言えない。

 出会ったときから平行線を辿る2人を、ときどき真緒に付いて行くレオンも見ていた。

 あの婆さまにデニム着物姿で会ったらなんて言われるか。

 人一倍人目を気にする真緒はそれで悩んでいたのだ。

「真緒、あの婆さんはきっと何を着ようと文句を言ってくるに違いない。だったら、自分の好きなモノを着て堂々と行きゃいいじゃねぇか。何、相手は棺桶に片足突っ込んだ婆さんだ。あと10年もすりゃいなくなるって」

「レオン」

 流石に不謹慎だと真緒が嗜めると、レオンはふいと横を向いた。真緒よりはるかに年上のレオンだが、ときどき真緒より子どもっぽくなる。こんなときのレオンは、乗り越えてきた艱難辛苦を何処かへ忘れてきたようだった。

「まぁ、レオンの言うことも一理あるわね。覚悟を決めてデニムを着るわ」

 だから部屋から出ていって、と犬の子のように追い返されたレオンであった。


 呉服屋『いしいや』は表の商店街のど真ん中に堂々と店を構えていた。現店長の提案で、若い観光客に着物を貸し出したり、化繊の着物と帯をセットにし、格安で売って着付け教室を開くなど、他の着物屋がやっていることをようやく最近やり始めたばかりだ。だが、店先に並ぶ和柄のエコバッグや小物の売れ行きは良かったし、街の雰囲気も手伝って、着物を手にする若者が増えてきていると、父親似なのであろう店長は穏やかに語った。

「真緒さんにはいつもお世話になっております」

 久しぶりに会ったレオンに、店長は深々と頭を下げた。

「店長、それよりこの間仕立てた真緒さんの浴衣持ってきてくださいよ。白大島もだけど、まずはそっちが先でしょう」

 財布より上客大事な真緒の担当者が店長をせっつく。そうだったそうだった、と店長は飛び上がって奥へと入っていった。

「いいデニム着物ですねぇ。生地もしっかりしてるし、白の半幅帯と普段着にぴったりじゃないですか。お洗濯も楽でしょう?」

 担当の室戸は笑顔で真緒に話しかけた。元々東北で着物屋を営んでいたが、震災で店と着物を全て流され、裸一貫でこの地にやってきて、10年かけてまた着物を一通り揃えた剛の者だ。今日も淡藤色の地に流水があしらわれた単に、鈍色の中、泳ぐ白魚を描いた帯を締め、白藤の帯揚げにきりりと臙脂の帯締めをまとった姿は、粋を絵に描いたようだった。

「ええ、生地がしっかりしている割には軽くて、シワになりにくいんです。アイロンも楽ですねぇ」

 室戸の装いを見ると、真緒もつい季節ものでも、と考えてしまう。が、お気に入りはなるべく年中着たい派の真緒には、期間限定旬を先取りする季節ものの着物は少し敷居が高かった。

「白大島は浴衣をご注文されたときにあててたものでよろしかったですか? 真緒さんならきっと素敵に着てくださると思ってあれから目立たないところに隠しておいたんですよ、うふふ」

 室戸はそう言って軽い足取りで白大島を棚の隅から取り出してきた。純白ではない、ほんのり色づいた象牙色の地に、トランプのダイヤ柄のような模様が織り出された白大島だった。

「そうそう、これです」

 真緒の声が明るくなった。表情も、人付き合いのための調和の笑顔ではなく、心からの笑みを浮かべている。室戸もレオンも、そんな真緒の笑顔を何度も見てきた。本当に好きなものに出会った顔だ。

「真緒さん、黒羽織何枚かお持ちでしょう? この子に合わせたらきっとモダンに着れますよ」

 室戸は反物の状態で、白大島を真緒に合わせていく。鏡を見ている真緒の表情がますます輝いていた。

(気ぃ抜くなよ。鏡に映んなくなっちまうからな)

 レオンは内心ヒヤヒヤしていた。吸血鬼は鏡に映らない。それは半人前の真緒にもあてはまることだった。鏡や写真に写るときは少し意識をしないと人外だとバレてしまう。この地は人外の存在を知っていたり、信じている友好的な人間が多いが、さすがに目の前に現れるのは驚くだろう。室戸も店長もいい人間だし、この関係を崩したくないな、とレオンは思っていた。


「まぁた紬かい? 一体何枚持ちゃ気が済むんだろうね」

 真緒と室戸が飛び上がらん勢いでびくりとした。振り返ると、箱を持った店長の後ろに小柄な老婆が背筋をしゃんと伸ばして立っていた。息子である店長の顔がとほほ、と言っている。

「婆さま、こんにちは」

「先代、いらしてたんですね」

 2人して引き攣った笑みを老婆に返した。室戸もこの婆さまが苦手らしい。

「白大島かい。ふん、あんたの歳じゃまだまだ着こなせないよ。もっと華やかな小紋におしと何度言ったらわかるんだい」

「婆さまのお歳になったらちょうど良くなるように、今から着慣れていくんです。あと、華やかな着物を着る歳は過ぎておりますので、そちらはご遠慮いたします」

 真緒が対人スキルを展開していく。人が苦手だからこそ、円滑に人間関係が築けるよう機転とユーモアを駆使して会話をする。自然と身につけた技術だ。

「言うようになったねぇ。帯は?」

 婆は反物の端を持って固まっている室戸に聞いた。

「あ、まだ決めてませ」

「そこの薔薇色の半幅を合わせな。着物が地味なんだから帯くらい派手にしといたほうがいいんだよ」

 ここまで憎まれ口を叩いても、苦手止まりで嫌悪されていないのはなぜか。婆の選ぶ品がそのひとにぴたりと合うからだった。長年培ってきた着物への目は確かだった。

 婆が指した薔薇色の地に、芥子だろうか、桃色の丸い花が規則的に並ぶ半幅帯を、室戸は真緒にあてた。

「わぁ、綺麗」

「あら、いいですねぇ」

 花嫁御寮の唇に、紅を差したかのように、その場がパッと明るく華やかになった。

「どうせお太鼓より半幅結ぶ方が多いんだろ。だったら最初から半幅で行けばいい。で? 八掛は?」

「まだ決めてま」

「真朱のぼかしじゃ派手かい?」

 婆は八掛の見本帳を開いて真緒に見せた。

「洒落柿のぼかしくらいがいいかなぁって」

「本当に地味だね、この娘は」

 好きにおし。

 婆のその言葉は、及第点だ、という意味だ。真緒と室戸と店長はほっと息を吐いた。

 八掛まで決めたので、室戸がくるくると帯と反物をまとめていく。その間に店長がやってきて、先日の浴衣です、と浴衣を真緒に見せた。紺地に桔梗と露芝が描かれた、古典的な浴衣だった。

「浴衣も地味だねぇ。あんた娘盛りを損しちまってるよ?」

「娘盛りは過ぎちゃっているんです。これから落ち着いた大人になろうと─」

「その丸顔じゃあ何を着てもこけしか座敷童子だよ」

 婆の言葉に思わずレオンが吹き出した。こけしみたいでキュートだとレオンもよく言っては、大人の女性になりたがっている真緒の機嫌を損ねていたからだ。

 なんだい、亭主もいたのかい。

 婆は今初めてレオンがその場にいることに気づいたようだ。

 

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