第10話 這いずるものと子どもたち
梅雨。しとしとと降る雨は、朝から同じ調子で降り続き、午後3時になっても止む気配はなかった。
(これは帰りも傘必要かなぁ……)
店の隅で乾かしている赤い番傘を見て、和雑貨屋九十九やの店主、真緒は軽くため息をついた。この番傘は、「着物を着るなら番傘だろう?」とわかるようなわからないような理屈を言って、夫が今も続いている東京下町の傘屋に注文した品だ。軽くて丈夫、骨の細工が美しい逸品だった。
観光客もこの雨で外出を諦めているのか、商店街全体が閑散としている。
今日は早く店仕舞いをしようかな、とぼんやり外を眺めていると。
ずるり。ずるり。
天井裏から音がした。真緒は最初、空耳かと思ったが、ずるずるという音は、店の奥から入り口あたりまで移動していた。真緒は息を呑み、店の奥にある階段箪笥へとそっと近づく。階段箪笥のてっぺんには、天井裏に入れる仕掛け板があった。そろそろと階段箪笥を登り、仕掛け板を外そうと決意したとき。
「なにしてんだねーちゃん?」
「なにしてんだまおねーちゃ?」
少し低くなり始めた声と可愛らしい声が、入り口から聞こえた。
振り返ると、この商店街を守る山寺の住職の息子・
「天井裏に何か居るみたいなの。今ならそっちの上あたりに居るから、確認しようと思って」
真緒はへっぴり腰のまま、顕星たちの上を指差した。2人は口を開けて揃って真上を見る。天井は今のところ静かだ。
「居るって、なにがいるのかわかんないのか?」
顕星が尋ねる。真緒は口の動きだけで「くちなわさま」と答えた。
「あー、蛇か」
顕星は面倒臭そうな顔をした。
「ヘビ? ヘビおいしい?」
「たぶん美味しかねーな。人間の食い物の方がずっと美味いぞ」
顕星は田代一家が狸のあやかしだと知っている数少ない人間だ。真緒の正体も人とは違うと見抜いている。和彦の問いに狸って蛇食べるんだっけ。と素朴な疑問を真緒が抱いていると、顕星が靴を脱いで上がり框に上がってきた。和彦も慌てて後から上がってくる。
「オレが確認してやるから、ねーちゃんどいてろ」
「でも危ないよ? 万が一毒を持ってたり力のある方だったりしたら……」
「色と大きさ、見るだけだろ。それともねーちゃん、蛇大丈夫なのか?」
「う」
真緒は答えに詰まった。爬虫類はガラス越しに見るのがやっとだ。
「仏教は清姫安珍の伝説がある。宗派は違えども縁起として親父から聞いている。裏山にも蛇は居る。だから蛇に縁がないわけじゃない。縁がないねーちゃんたちと会わせるより、オレの方が無事な確率が高い」
顕星はそうまくしたて、降りてこいと真緒に言った。真緒は大人しく階段箪笥を降りる。代わりに顕星がするすると階段箪笥を登っていった。ポケットから数珠を出す。口の中で短くお経を唱えてから、顕星は仕掛け板を上げた。天井裏は換気兼あかりとりのための格子の小窓がついている。
「お邪魔いたします。御身御姿を拝見致したくまかりこしました。しばし御容赦くださいませ」
よく通る声で顕星が口上を述べる。どこでこんな言葉を知るのだろう。真緒は肩口から先を天井に出している顕星を見てそう思った。父親の影響だろうが、まだ仏道の本格的なことは習っていないはずだ。それこそ門前の小僧か。
きゅっと、真緒の手を和彦が握ってきた。
「けんにーちゃならだいじょぶだよ」
にこりと笑う顔は、子狸そのものだ。真緒はうん、と頷いて手を握り返した。子ども特有の甘い香りと、柔らかで、温かな感触がした。
ほどなくして、ありがとうございましたと言って、顕星が仕掛け板を閉じて降りてきた。少し顔色が悪く見えるのは気のせいだろうか。
「どうだった?」
「白。太さ8センチくらい。とぐろ巻いて40センチ幅ってとこだからけっこう大きい」
うわあ。
真緒はその場に突っ伏した。まおねーちゃ、だいじょぶ? と和彦が声をかける。
「大丈夫〜……。嫌な予感が的中しただけだから〜」
「流れものの眷属らしいけど、御山に移すなら伯英さんにお願いした方がいい。一応親父にもねーちゃんの店にくちなわが出たって伝えておくけど、神社の方が神様として祀るから寺より縁が深いし、対策もできるだろうし」
あと今のでちょっと機嫌悪くなったみたいだから、やるなら明日の朝の方がいい、朝は気温低いから動きも鈍くなるしな、と顕星は付け加えた。
「ありがとう、顕星くん。和彦くんも手を握ってくれてありがとうね」
真緒は2人の少年に微笑んだ。どっちもぽっと頬を赤くして、顕星は大したことやってねーよ、とそっぽを向いて照れている。和彦にいたっては、いやぁそれほどでもぉと照れ照れして顔を両手で撫でて体をくねらせている。どちらも可愛らしいことこの上ない。
「ところでなんで2人が一緒なの?」
和彦が小学校へ通うのは来年からだ。同じ街の子ども同士としても歳が離れていて接点が少ない。
「ああ、通学体験。来年からこいつもスクールバスだろ? 一回乗せて酔ったり興奮して尻尾が出ないか様子見て、あと通学路にあるいろんな意味で危険な場所と、姿が戻っちゃったときに隠れさせてもらうお堂のあるお地蔵様にご挨拶してきたんだ。親父と美代おばさんと担任の先生の許可済み」
美代とは和彦の母であり、やはり狸のあやかしである。顕星の担任の久保田も、真緒は会ったことはないが、あやかしを見抜く目を持っているらしく、彼らに対する理解もあって、いい先生に当たったようです、と父の顕行が話していたことがある。
「和彦くんをよろしくね、顕星くん」
しっかり者の少年に、真緒はふんわりと笑いかけた。しっかり者の少年は、顔を真っ赤にして、じゃあ和彦送っていくから! とそそくさと子狸を連れて帰っていった。
翌朝、真緒はいつもより早く家を出た。レオンは昨日から出張で留守で、電話で声しか聞いていない。こういうときに居てくれると心強いのだが、大事なときに居ないのが夫である。
店の前には、昨夜連絡をした神主の
「伯英さま、章伯さん、おはようございます。お手を煩わせて申し訳ございません」
「いやいや、白蛇さまは丁重に扱わないとおおごとになります。御山の主様には、朝ご報告をいたしましたので、揉め事にはならないかと」
生物学上、ただのアルビノと判断されても、神の遣いとして畏怖されてきた歴史を忘れてはならない。白蛇の扱いは慎重になる。草刈りの最中、うっかり白蛇を傷つけてしまって呪われた農民。棲家とは知らずにその上に家を建ててしまい、病に苦しんだ家族。昔話を紐解くときりがない。
と、山寺の方から法衣に身を包んだ
「顕行さま? 顕星くんも?」
真緒は不思議そうに2人を見やった。顕行が息子をすっと前へ導く。顕星は右腕の袖をまくって、真緒に見せた。そこには昨日はなかった鱗がびっしりと生えている。真緒は息を飲み、顕行を見る。
「どうもお怒りに触れてしまったようで、昨夜からこの有様です。あやかしを見たら己で対処せず、大人を呼ぶことと常日頃から言っているのですが、昨日はあやかしかどうかも分からず対峙したのでまぁ不可抗力というところでしょう」
顕行は穏やかに真緒に語りかけた。伯英たちはこの話を先に聞いていたのだろう、静かに3人を見ていた。
「申し訳ございません、私が確認していればご子息は無事だったのに……」
真緒は泣きそうな表情で顕行に頭を下げた。子どもに不幸が降りかかるのを誰よりも案じていたはずなのに、お寺の子だからと軽率に頼ってしまった自分を責めた。
「いや、真緒さんが確認してお怒りに触れてしまったら、解きほどくのに複雑な手順が必要になったでしょう。愚息が確認したのは、まぁ正解ではありませんが、最適解だったのです」
顕行が優しく真緒を諭す。そろそろ準備を、と伯英が言った。僧侶は頷き、
「真緒さんは人避けの術を店とご自身にかけてください。私たち4人、中で対処します」
はい、と真緒は答え、店の鍵を開ける。
がらっ。ぴしゃ。
引き戸を開けて速攻で閉めた。4人は揃って首を傾げる。
ずずずと真緒が4人に振り返った。
「……畳の上にいらっしゃいます……」
「それは好都合。天井裏に上がらなくて済みますね」
「ささ、参りますよみなさん」
青ざめた真緒を置いて、男たちは平然と店の中へ入っていった。真緒は慌てて引き戸を閉め、人避けの術を使う。この術はレオンから学んだもので、顕行・伯英には簡素だから分かりやすくていいと好評(?)の術である。恐らく術式がシンプルだから解除しやすいという意味だろう。
店先に立つ自分にも術をかける。これで通行人には、真緒が見えないはずである。ときおり散歩中の犬に訝しがられるが、飼い主には気づかれない。
店内からくちなわの圧を感じる。それに応じる2つの大きな気配。伯英と顕行だろう。術を使っているので、伯英たちが何を言っているのかは聞き取れない。恐らく御霊を鎮める言葉を紡いでいるはずだ。皆、無事でありますように。真緒は手を合わせて祈った。
30分ほどして、がらりと引き戸が開いた。そこにはにこやかな笑顔で伯英が立っていた。
「無事、終わりました。顕星くんの肌の鱗も消えましたよ」
伯英の後ろから顕星が顔を出し、にゅうと腕を見せる。まっさらな、若々しい小麦色の肌が見えた。真緒はほぅ、と胸を押さえて安堵の息を吐く。
伯英と顕星が店から出て、次に鳥籠を抱えた章伯が出てきた。白い布は蛇眼を隠す役目のようだ。最後に顕行が出てきて、お疲れ様でした、とそこにいる全員に頭を下げた。
「皆さま、ありがとうございました。顕星くんも無事で本当よかった……」
真緒が深々と頭を下げた。いやなに、貴重な経験をさせていただきましたよ、と顕行が笑う。神仏の合わせ技など滅多にないものですからねぇ、と伯英も笑った。
「では、私はこの方を御山へと放して参りますので、お先に失礼いたします」
章伯はそう言うと、車のキーを懐から出してにこりとした。裏手にある駐車場に車を停めているのであろう、鳥籠を抱えて横道へと消える。
「今日はいい天気になりそうですねぇ」
顕行の呟きに、真緒は天を見上げた。
今日は久しぶりの青空が拝めそうだ。
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