45 月の怒り

「えっ?」


「謝ったから、泣いて反省して見せたから、昔の事は水に流して、これでもう恨みっこなし。なんて言われる事を期待していた何て言いませんよね?」


「ちょっ、急に何? 五島さんには関係ないわ。今、私と松田くんと――――」


「その松田さんが貴方と会話をするのを一生懸命我慢しているから私が代わりに話しているんです」


 左の視界の隅でレックスの頭が動く気配を感じた。ちらりと振り仰げば苦し気な表情が少しばかり変化して驚きの色がそこに浮かんでいた。


「何言ってるの? 松田くんはさっきから私と一切会話をしてくれないのよ。ちゃんと話を聞いてた?」


 ピクリと眉を一瞬だけ動かして美来が隠しきれない不愉快さを顔に出す。月はさっきまで顔を覆って号泣していた人間がよく表情を切り替えられるものだな、と明後日な感心をしながら発言の一部を訂正した。


「話は聞いていました。けれど、確かに今の松田さんがどう思っているのかを確認はしていません。勝手に気持ちを推測して先走った事を言いました」


「そう思うなら、静かに話を聞いてて――――」


「なので訂正します。ずっと我慢していたのは松田さんじゃなくて、私です」


 意味が分からないと言わんばかりに美来の表情がより露骨に歪む。


「ねぇ、急に何を言っているの? 会わせてくれた事には感謝しているけど、五島さんはただの仲介役であって私と松田くんの過去にとっては部外者なの。我慢する? それって何を?」


 あっ、それ聞いてくれるんだ。


 月はこれ幸いと右拳をぎゅっと握って掲げて見せた。


「遠野さんをぶん殴りたくなる衝動を必死に我慢していました」


「はっ?」


「えっ?」


「ぶっ!」


 美来、レックス、種田の順で声が聞こえてきたが、月は種田にだけ反応した。


「そこ、笑うところじゃないですよ!」


 レックスと美来の間に常に腕を差し込みつつ、月を見下ろせる位置に移動した種田が空いている方の手の甲で口元を押さえていた。笑いをかみ殺しているのは明白で、見上げる目を少々眇める。すると、種田は珍しく素直に「悪かった」と謝り、もの凄く意外な発言をした。


「いやぁ、流石俺の見込んだ女だよ」


「おや? 私はもしかしなくても褒められていますか?」


「おう。百点満点の花丸にニコちゃんマーク付けてやる」


 凄い高評価が出たもんだ、とかなりどうでも良い事に目を丸くしていた月の意識を現実に引き戻したのは美来だった。


「何意味わからない事を言っているの!? 私を殴りたい!? そんな事が許される訳が無いでしょう!!」


 目を剥いて怒りを露わにしている美来に月はコクリと頷いてみせた。


「はい、勿論暴力は許されるようなことではありません。なので、殴るときは傷害罪で逮捕されるくらいの覚悟を持って殴ります」


 拳をもう一度ぐっと握り込む。また僅かに種田が笑う気配を空気の振動から感じたが今度は無視する。その代わりに「ふざけているのっ!?」と声を荒げた美来に対して月はきっぱり「大真面目です」と声を張った。


「遠野さん、さっきから貴方は私の発言の表面の部分だけをなぞって怒っていらっしゃるようですけど、ちゃんと中身を考えて頂けませんか? 何故私が貴方を殴りたくなるのか。そこに想像力を働かせてくれませんか?」


「そんな事を言われても、想像しても一スタッフである貴方が私を殴りたくなる理由なんてさっぱり分からない。私の話を本当にちゃんと聞いていたの? 確かに私は過去にとても松田くんにとって良くない事をしたわ。けれどね、それは女の私が身を守る為に仕方がなかった事なの。そしたら、予想に反して事が大きくなってしまったの。だから、凄く反省したのよ。松田くんの事を考える度に申し訳なくて涙が出たし、眠れない夜も何度もあった。一度思い出してしまうと仕事中でも感情が高ぶって手が止まってしまうような事が今だってある。だから、きちんと謝りたいと思ったの。心の中にある思いを全て松田くんに打ち明けて、きっちりと謝罪をするために私はここに来て、実際に謝罪をしたのよ。それのどこに貴方が殴りたくなる要素があるって言うの?」


 この人は本気で言っているのか?


 月は耳を疑った。そしてぎりっと唇を噛む。じんわりと口内に血の味が滲んできたがそれに構っている余裕など一欠片もなかった。


 レックスが黙っているのに自分がしゃしゃり出る事は間違っているのかもしれない。けれども、今を逃したらレックスの心は擦り減って傷ついたままになってしまう。女なんて碌なもんじゃない、やっぱり心を開くもんじゃないと今後生きている間ずっと思い続けてしまうかもしれない。


 出過ぎた真似だと嫌われてしまう可能性は充分ある。だから、これから言うことはレックスの為なんかじゃない。ただただ、自分のために。自分の好きな人とを軽んじた人間の目を覚まさせるために。


 月はもう自分を抑える事が出来なかった。


「遠野さん。貴方は謝る事で罪悪感を減らしたかったんじゃないですか? 少しでも過去の過ちを軽くして、流す涙の量を、眠れない夜を、仕事に手が付かなくなる時間を減らしたかったんじゃないですか?」


「そんな事――――」


「ない、と言い切りますか?」


「…………ないとは言わないけれど」


 でしょうね。


 月は拳をぐっと握り込んだ。


「貴方は謝った事で心が軽くなる。けれども、貴方がもたらした情報と謝罪は松田さんにとっては何の癒しにもならない。まして、傷口を抉るようなものだとしたらどうします?」


「……えっ?」


「貴方が何をもって貴方の知っていた情報が松田さんの心を軽くする可能性があると判断したのかはわかりませんが、はっきり言って私は貴方の話を聞いて希望なんて一つも見出せなかった」


「っ、ちょっと待って! 何を言っているの? 私は、私が反省して謝る事と、私が暴力を恐れて仕方なくやった事だと、悪意から松田くんを陥れようとしたわけではないと教える事で、少しは救われる心があるかと――――」


「救われる訳がない!!」


 月は辛抱堪らず声を張り上げていた。


「暴力を受ける側に男も女も関係ない!! 殴られたら身も心も痛いんです!! なのに、貴方は自分可愛さに松田さんをサンドバックみたいに扱った!! 悪意がない? 人を二人も貶めておいて」


 美来が目を見張り、直後に眉を吊り上げて口を開こうとした。しかし、月はその先を聞きたくなかった。


「遠野さん。貴方の考え方は今も昔も自己中心的で傲慢です」


 きっぱりと言い切った月に美来の顔が真っ赤に染まった。


「ただのスタッフに何でそんな悪口を言われなきゃならないの!?」


 金切り声が鼓膜を不愉快に振動させる。その感覚が耳から消えない内に月は正面から美来を睨んだ。


「悪口ではなく事実です。貴方はとても不誠実な人だ」


「いい加減にっ――――」


 美来がとうとう激昂して月に対して一歩距離を詰めようとした瞬間。月はずっと美来に聞きたかった事を尋ねた。


「安浦蒼龍さん。貴方の元交際相手であり松田さんの親友だったその人に、貴方は松田さんと同じように形振り構わず会って謝罪をしようとしましたか?」


 月の問に対して美来は怪訝そうに眉間に皺を刻んだ。


「何を言ってるの? 蒼龍くんは松田くんを殴っていじめをした張本人よ。どうしてそんな事をした人に私が謝らなくてはいけないの? 私は暴力を振るわれる側になっていたかもしれないのに」


「遠野さんは蒼龍さんに実際に殴られたんですか?」


「はっ? 殴られないように自分の身を守ったの。さっき話したでしょ?」


「ですよね。そして、蒼龍さんは父親の行いは、暴力は良くない事だと認識した上で家庭の悩みを何度となく相談していたんですよね? なのに、貴方は蒼龍さんがお母さんを必死に守ろうとしていた事実を無視して、ただ血縁者に暴力を振るう人間がいるというだけで蒼龍さんも同類だと思い込んだ。それから、他者を暴力の捌け口にさせようと巧みに計画を練って嗾け、大切な親友との間に修復不可能な亀裂を生じさせた。ということですよね?」


「だから、私は彼に執着されているのが本当に怖くて――――」


「大好きな恋人の心が見た目に関するコンプレックスを抱えていた親友に揺らいでいるように見えたら誰だって必死に気持ちを繋ぎとめようと努力をするはずです。それに貴方は松田さんに好意がある事を蒼龍さんと縁を切るその瞬間まで口に出さなかった。自分にはまだチャンスがある、そう思って一生懸命恋人を手放すまいとするのは当然だと思います。蒼龍さんが貴方に対して暴力を振るいたい衝動がもし全くなかったとしたら、貴方のした事は自衛ではなく、攻撃ではないですか?」


「蒼龍くんは実際に松田くんを殴っているのよ?」


「キスをした経験が一度もない自分の恋人が親友とキスをしている意味深な画像を事故を装って見せつけて、松田さんの方から奪ったように勘違いをさせたのは他でもない貴方ですよね? 大切な恋人が涙を流して恋人ではない人間に唇を奪われた事を謝ってきたら、普通の人はキスを奪った相手、今回の場合は松田さんに対して腸が煮えくり返る程の怒りを抱いて当たり前なのでは? 暴力行為を肯定するつもりはありませんが、涙を流した貴方の事を想って感情的になってついつい拳が出てしまった、なんてことがあるとは思いませんか?」


「…………さっきから何? 貴方は松田くんの味方じゃなくて蒼龍くんの味方なの? 蒼龍くんは松田くんをイジメた張本人だって言うのに」


 美来は鼻で笑いながら月の事を薄情なスタッフだと罵った。


「何言ってるんですか? どうして私が蒼龍さんを許さなくちゃいけないんですか? 松田さんを感情に任せて殴って、その後もイジメに加担していた相手になんて一ミリも味方したくありません」


「言っていることが矛盾していると思うんだけど?」


 肩を竦められ、月はその姿にとことん神経を逆なでされた。カラカラに乾いた喉からなんとか声を絞り出す。


「私は可能性の話をしているだけです。貴方が言う通り蒼龍さんには暴力を振るいたいという願望があったのかもしれない。けれども、その可能性と同等にただ単に貴方の事を好いていて、本人が言う通り暴力なんて嫌っていて、それでも貴方の気持ちを思うと手を上げずにはいられなかった。――――その可能性が絶対になかったと言い切れますか!? そんな風に考えてあげる余地はなかったんですか!?」


「ほらっ、やっぱり蒼龍くんの味方じゃない!!」


 感情的になって大きくなった月の声に釣られて美来の声も大きくなる。月を指差して「スタッフの癖に松田くんファーストじゃなくていいの?」と皮肉気に口角を上げられ、とうとう月の感情は爆発した。体の横で掌に爪が食い込むほど握りしめていた手を持ち上げて、ヘアスタイルなんて気にする余裕など欠片も無い状態で自分の頭を乱雑に掻き毟った。


「だって、しょうがないじゃないですか!! 私だって出来るなら、遅刻してきて松田さんに対して一言も謝罪がないところとか、何かにつけて松田さんが有名人じゃなかったら謝りに来なそうな発言とか、男女の性差を逆手に取っていい様に利用してるところとか、自分の弱さを言い訳にして何もかも仕方なかったで片付けているところとか他にも色々言及して貴方をとっちめたいんです!! でも、もし、松田さんが親友だって本気で思って好いていた蒼龍さんって人が、万が一にも遠野さんの思い込みでさっき私が言ったような状況に追い込まれてしまっていたのならっ、……同情なんてしたくないのに、可哀想でっ。お家の辛い事情もあったのに、唯一心を開いて相談をしていた貴方に誤解されて、怖がられて、相談も無しにただ突き放す為だけに貶められて、自分も誤解から最悪な方法で親友を傷付ける事になったなんて……。殴って以降の蒼龍さんの行動は絶対に許せないけど、手を出すに至った過程を思うと…………きっと、松田さんはとても優しいから、蒼龍さんの当時の内心を思うと辛いんじゃないかって、親友だと思っていた相手の心を思うと自分にも何か出来る事があったんじゃないかって、自分を責めるんじゃないかってっ…………そう思えてしまって!」


 蒼龍がレックスにした事は最悪以外の何物でもない。殴られるレックスを想像するだけで月は怒りで臓腑が熱くなる。けれども、美来の話を聞いた直後のレックスは怒りではなく、悲しげな表情を浮かべていた。何を思ってそんな顔をしているのか、そう考えた瞬間、月の脳裏にはが苦しむ姿が思い浮かんだ。美来の話をもし蒼龍の立場で聞いたらどういう気持ちになるのかを想像してしまった。もし、レックスが同じ様に考えていたら、必要も無いのに蒼龍に同情してしまっていたら、益々苦しくなってしまったのではないか。レックスは自分みたいなコミュ障の異性にも手を差し伸べてくれる優しい人だから、一度心の内側に入れた親友の当時の心を慮らずにはいられないのではないか。月はそう考えずにはいられなくなってしまっていた。


 月はいつの間にか頭を掻き毟っていた手で目元を何度も強く擦っていた。その理由に気が付いたのは斜め後ろから伸びてきた手に優しく両手首を捕まえられてからだった。

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