44 我慢の限界

 レックスは美来に見向きもせずにノートパソコンを閉じ、それを足元に置いてあった鞄にしまい始めた。


「えっ? ちょっと待って、帰るって――――」


 美来はメイクの崩れた泣き顔を上げ、唖然とした表情を浮かべた。レックスはそんな彼女を一瞥もしないまま、鞄を持って立ち上がる。ギィと椅子と床が擦れる音に鼓膜を刺激された美来がはっとして声を張る。


「待ってっ! 何か、私に言いたいことはないの!? 私、恨み言でも何でも聞く覚悟で来たのっ。松田くんがスッキリするまで、弱かった私を 罵ってくれてもいいんだよっ!?」


「種田さん、後片付けお願いします。五島さんはもうこの部屋から出て下さい」


 他人行儀に種田と月が呼ばれたのは美来に対して自分の内側を見せるつもりがないというレックスの意思表示なのだろう。退出を促すようにレックスは鞄とコートを持って月の許へやって来た。美来の声を無視し続ける無表情には『穢れるから早くここから離れて』と書いてあるように見えた。


 これではこの前に美来と遭遇した時と何も変わらない。ここには何かしらの変化を求めて来たはずなのに。過去の因縁を断ち切って、新しい一歩を踏み出すんじゃなかったの? 本当にこのままこの場を離れて、美来を置いて行って良いの?


 そんな疑問が頭に浮かぶ。ただ、優先すべきはレックスの心だと、月は椅子から腰を浮かす。するとその瞬間、美来は立ち上がってレックスに駆け寄った。


「ねぇ、待って! なんで、何も言わずに帰ろうとするの!? 私、反省してるんだよっ。ずっと謝りたいって思ってたの。松田くんの苦しみを想うと切なくて申し訳なくて、眠れない夜も何度もあった! 自分はなんて酷い事をしたんだろうって、ずっとずっと思い続けてきたの! ねぇ、私の話を聞いて何か思うところがあったんじゃない? 何か私に言いたい事はない?」


 美来は無言のレックスに耐えられないのか、必死に何か言って欲しいと請うた。月には美来が何を言って欲しいのかがさっぱり分からない。目の前に立つ二人にどう対応するべきかが分からず、困惑して見上げる事しか出来なかった。


 ツカツカ足音がした。種田が美来を押しのけるようにして二人の間に割って入ったのだ。今にもレックスの腕に触れて縋りつきそうだった美来は邪魔が入ったとでも言いたげに眉を顰めた。


「ちょっと、急に何ですか!? 今私は松田くんと話をしているんですけど!!」


「入室前に申し上げましたが、松田への過度の接近はお控え下さい」


「私が松田くんに何が出来るって言うんですか!? 私は女で松田くんは男の人です! 万が一私に害意があったとしても、貴方達みたいに体の大きな男の人なら腕力のないひ弱な女なんて人捻り じゃないですか!」


「今はそういうお話をしているのではありません。とにかく、まずは落ち着いて下さい。まだ話し足りない事があるなら私がお伺いしますから」


 種田がレックスの盾になるようにして美来に落ち着くようにと促す。しかし、美来の興奮は収まるどころか悪化した。


「貴方に用はありません! 私は松田くんと話をしに来たんです! 」


「それは重々承知しておりますが、松田本人はもう帰ると意思表示しておりますので、面会はここまでとさせていただきます」


「まだ私が一方的に話をしただけじゃないですか!」


「ええ。しかし、貴方の目的は松田への謝罪だったはずです。貴方は松田に対して謝意を口にされていましたので、目的は達成されています」


 種田の言葉に美来はぐっと押し黙った。


 このまま帰って良いのか迷うところではあったが、話を一方的に聞き続ける状況は宜しくないと感じていた月はこのタイミングで美来に歯止めがきいた事にほっと胸を撫で下ろす。


 実のところ、月は美来の一人語りを聞いている最中からじわりじわりと頭と胸の内に溜まっていった自らの感情を持て余していた。その感情は今では頭を軽く傾けただけでタプンと波打ちそうな程の量になっており、溢れ出さないように出来る限り心を水平に保っているような状態だったのだ。


 しかし、ほっとしたのも束の間、美来は種田の前で吊り上げていた眉をこれでもかという程ハの字に下げ、顔を覆ってまた泣きだした。その姿を見て月の水面が再び揺れはじめる。


「そんな酷いっ。私、もしかしたら昔の話を聞いて感情的になった松田くんに殴られても仕方ないって覚悟でここまで来たんです! 男の人は女より力が強いから、悪い事をしようと思えば力任せに何でも出来ちゃんですよ? でも、私は勇気を振り絞ってここまで来たんです! マネージャーさんは怖い顔で私を見下ろすし、松田くんは何を考えているのか分からない無表情で目も合わせてくれないし、私ここに来てからずっと怖かったんですっ。そんな中、必死にした告白に何か言葉を返して欲しいと願うのはそんなにいけない事ですか!?」


 月の水面がぐわんぐわんと大きな波を立て始める。


 ヤバイ。落ち着かなきゃ。


 胸を押さえて深呼吸を一回。それで、少し波が小さくなったと思った月の視界の隅に見えたのは握り込まれたレックスの拳だった。それは力んでぷるぷると震えていた。


 これはよろしくない状況だとレックスの顔色を窺うべく視線を上げた。


「ぁっ」


 月は思わず短く声を上げてしまう。


 怒りがそこに浮かんでいると思っていた。しかし、見上げたレックスはとても悲しく辛そうな顔で下唇を噛んでいた。綺麗で大きな瞳の水分の膜が厚くなっている。それに気が付くと同時に美来の声が耳から入り込んできて月の脳と心を揺らす。


「ねぇ、松田くんお願いだから、何か言ってっ。私、貴方をテレビやスマホで目にする度に胸が引き裂かれるように辛かった。そんな日は必ず枕を涙で濡らしたわ。自分の仕出かした事を忘れる日なんてなかった。本当に反省しているの。だから、一言――――」


 ぐわんぐわんと揺れていた水面が頭と心の器の中でぐるんと一回転した瞬間、その液体が――――月の中に蓄積されたが、一気に沸騰した。


「まさか、許して欲しい、なんて思っていませんよね?」


 月はゆらりと立ち上がった。

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