43 美来の過去②

 美来は付き合いの長い蒼龍という人間の事を良く知っていた。人の内心を読んで立ち回るのは得意だったのだ。蒼龍から解放されたいという一心で作戦を練り、慎重であると同時に大胆に作戦を実行した。


 樹と二人きりになる事に成功し、互いに目を閉じてどちらから奪ったのか分からないキス画像を撮影した。そして、その日の内に蒼龍に会いに行き事故を装ってその画像に見せ付けた。「何なんだこれ!?」と詰め寄られたタイミングで「ごめんなさいっ。……言い訳はしないわ」と泣き崩れる。その台詞はとても曖昧な響きでもって、見事に蒼龍を惑わせた。キスしてごめんなさいなのか、はたまた、油断してキスされてしまってごめんなさいなのか。蒼龍は母親の事もあり、基本的には女子に強く感情をぶつけたりはしない。よって、泣き崩れて会話が難しくなった美来が「私がいけないの」とただただ繰り返す姿に、その場で強く詰め寄る事はしなかった。思惑通り、樹側から事情を聞こうと判断を先送りにしたのだった。


 その翌日、美来は蒼龍の学校に在学している友人から、蒼龍が話をまともに聞こうとせずに、怒りに任せに樹を殴った と情報を得る。


 ほら、やっぱり殴った。


 美来は友人から遅かれ早かれ蒼龍はいつか誰かに手を上げたのだろうと確信し、その対象が自分だったかもしれなかったと思うとゾッとした。ただ、同時にリスクを負いつつも実行した作戦が思惑通りに進んでいる事にほっともした。キス写真を見た瞬間激情した蒼龍に自分が殴られる可能性もゼロではなかった。けれども、予想通り美来は殴られる事はなく、その拳は樹に振り下ろされた。


 美来は蒼龍の中に暴力願望があると前提を置いた上で、キスをどちらからしたのかを敢えて分からない状態にさせた。そして美来か樹か、どちらが裏切ったのかを蒼龍に考えさせる時間を一晩与えたのだ。するとその一晩で蒼龍はきっとこう考える。


 美来はこれまで自分や他の誰かと付き合う事はあってもキスをした事はない。だから、自分からキスなんてするはずがない。


 そう、美来は男子と付き合った事は何回もあったがキスをした事は一度もなかったのだ。理由は至ってシンプル。唇と唇を合わせるという行為が生理的に無理だったからだ。過去に何度かトライしようとした事はあったが、クラスで一二を争うイケメン相手でも食べ物を食べる口と口をくっつける気にはならなかった。当然樹とのキスにも抵抗はあったし、今回の作戦を思いついた時は自分がキスをすることが出来るかどうかが一番の問題点でもあった。しかし、いざその時になると目を閉じてじっとしている樹の顔がまるで作り物のように整っていて、普段は感じる生々しさと不潔さが驚くほど感じられず、さらりと自ら口付けられたのだ。


 一晩考えて、美来の方から男子にキスをする訳がないと勝手に思い込んだ蒼龍は樹が無理矢理美来にキスしたと考える。よってその怒りは樹に向く。激情はきっと暴力に変わる。美来の予想は見事に的中したのだった。


 樹には申し訳なく思ったが、背に腹は代えられなかった。男子同士の取っ組み合いの喧嘩など良くある事なのだからと敢えて深く考える事はやめた。とにかく、蒼龍の暴力衝動は自分ではなく樹に向けられた。一度も二度も変わらないとまでは言わないが、一度殴ってしまえば二発目が飛び出すハードルは俄然低くなる。蒼龍は誰彼構わず暴力を振るって暴れ回るタイプではない。があれば他者には優しくなれる男のはずだ。何故なら彼の父がだから。


 その日の放課後、美来は仕上げをするため、自ら蒼龍に電話を掛けた。


『心配になってそっちの学校にいる友達に蒼龍くんの様子を聞いたの……。私、ちゃんと謝ったよね? 私が悪いって言ったよね? なのにどうして松田くんを殴ったの!?』


『暴力を振るう人は許せないってあんなに言っていたのに、信じられない!』


『私が、松田くんを勝手に好きになっちゃったの』


『私、蒼龍くんの事もまだ好きだったのに……暴力を振るう男の人は好きになれない』


『もう、別れよう。これ以上一緒にいるのはお互いに無理だよ』


『今まで有難う。さようなら』


 一方的に伝えたい事を言って電話を切った。


 美来は蒼龍が傷つくと分かっていた。けれども、それと同時に自身に少しでも非があれば言い訳せず、自分自身の事を責める真面目な男だという事も知っていた。勘違いで親友を殴り、彼女が嫌う暴力を振るった。これが蒼龍の非になったのだ。


 この時点で美来は暴力の対象を他者に移し、自分にしつこく執着したところで二度と手元には戻って来ないと蒼龍に思わせる事に成功したとほぼ確信した。


 ハイリスクな非常に難しい事をした自覚はあった。ただ、美来にとって暴力を避け蒼龍とある意味円滑に別れるためには必要な事だった。


 念のため、そのやり取りの後は蒼龍と樹に繋がる連絡手段はすべてブロックし、会いに来られても絶対に会わないように対策をした。そのためならば平気で学校を休に、友人の家に適当な理由を言って雲隠れした事もあった。


 そうして二人を避けながらも、自分からキスをした事はもう教えてあるから、蒼龍と樹ならゆっくりと互いの関係を改善していくだろうと勝手な予想を立てた。


 雨降って地固まるというし、どうか困難を乗り越えて二人なら元通りの親友に戻るだろうと一人願いながら、二人との関係を完全に絶ったのだった。


 よって、自らのした事が切っ掛けで樹が壮絶なイジメを受け、高校中退に追い込まれる事になったと知ったのは、美来が高校を卒業した後、地元を離れて暮らすようになってからだった。大学の友人が“レックス”というYouTuberの存在を教えてくれた直後、彼らの学校に在学していた友人に久々に連絡を取った時だ。





 美来はその場で泣き崩れた床に座り込んだ。


「私っ、怖くてっ。自分が殴られたらどうじようって、あの時はそれしか考えられなくてっ、松田くんに全部を押し付けてしまったの! 自分の事しか考えてなかった……。松田くんの身に起こった事を知ってからは暫く後悔の念で夜も眠れなかったっ。本当に、本当にっ、してはいけない事をしてしまったと何度も何度も自分を責めたわ。今日まで片時も自分の仕出かした事を忘れたことはないのっ。……過ちに気が付いたのが遅すぎて、有名人になった松田くんに今更謝ったところで嫌な事を思い出させるだけだって、連絡を取る事も出来なかったっ。でも、松田くんの顔をメディアで見る度に胸が苦しくなって、謝りたい気持ちで一杯になって……。あの広場で直接顔を見てしまったら、謝りたい衝動が止まらなくなってしまって……。本当に、ごめんなさいっ。謝ったところで許して貰えるとも思わないけど、気持ちを伝えたかったの。それと、蒼龍くんと私の事情を知る事で、少しだけでも当時の心の引っ掛かりを減らせたらって思って。全てを隠さずに話させて貰ったわ」


 美来は長い長い一人語りを終え、顔にハンカチを押し付けグスグスと鼻を鳴らした。


 レックスの話だけでは分からなかった美来と蒼龍に焦点を当てた話は月としてはそれなりに納得するところもあった。女性が筋力で勝る事が出来ない男性からの暴力に恐怖心を抱く気持ちも同じ性別に生まれた身として理解出来ない事もない。


 月がそんな事を脳の片隅で考えたとき、美来の啜り泣きが響く室内の空気を淡々とした声が一刀両断した。


「話は聞いた。帰る」

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