42 美来の過去①

 美来と蒼龍は中学一年生から三年生までずっと同じクラスだった。


 蒼龍は高校時代とは違い、そこまで個人で目立つような生徒ではなかった。ただそんな彼は一部の生徒や教師からは注目を集める存在だった。何故なら彼の父親がそれなりに名の通った県議会議員だったからだ。美来も蒼龍の父親の地位を知っている生徒の一人だった。家が近所で、毎日他の家と比べて倍以上の敷地面積を誇る立派な豪邸の前を通学していたからだ。


 小学生の時も同じ学校ではあったが同じクラスになったことはなく、近所でも疎遠だった。中学生になると互いに会話のタイミングがあれば砕けて話をするようになり、いつしか良くしゃべる異性のクラスメイトくらいには親しくなっていた。


 そんな二人の関係に変化が訪れたのは中学二年生の冬。蒼龍が学校を三日連続で休んだ日の放課後、近所に住んでいるからと担任に頼まれて連絡プリント類を届けた時だった。


 日が沈んで少し経過した後に訪れた豪邸の玄関。そこで美来を出迎えたのは目の周りに青痣を作り頬にシップを張った痛々しい姿の蒼龍の母だった。彼女はドジをして顔面から転んじゃったのと恥じ入るように笑ったが、美来には到底それが信じられなかった。転んだだけで出来るような怪我には一切見えなかったのだ。それでも何も口にすることが出来ず、プリントを渡して早々に帰路についた美来を夜道で呼び止めたのは蒼龍だった。


 母親の怪我の事は誰にも言わないで欲しい欲しいと願った蒼龍に美来は出来る限り優しく声を掛けた。


「勿論誰にも言わないよ。安浦くん大丈夫? とっても辛そうだよ? 私に何か出来る事ある ?」


 その美来の声に蒼龍は堰を切ったかのように道端で泣き出し、辛い胸の内を語った。父親が母親に暴力を振るうのだと。三日間学校を休んだのは怒りと興奮状態を数日引きずる父親が母親にまた手を出すのを防ぐためだと。


 蒼龍はそれまで誰にも相談することが出来ずに辛かったと泣きじゃくり、美来は出来る限りそんな蒼龍を慰め、辛くなったらいつでも話を聞くからと約束をした。


 その後、蒼龍は父親の事を美来に数回相談した。その内容はすべて母親に対する暴力に関してで、その度に蒼龍は自分が母親を守らなくてはならないと語り、美来はそんな蒼龍を励まし、癒そうと心掛けた。苦しんでいる蒼龍をどうにかしてあげたいという一心で美来は蒼龍に接し続けたのだ。ただ、当時の美来にとって蒼龍は恋愛対象ではなかった。一方、蒼龍は美来に恋をした。


 中三の春、美来は蒼龍に付き合って欲しいと告白された。気持ちは嬉しかったが美来は当時クラスの中でもイケメンで運動神経も良い男子に好意を寄せていたので、その理由をはっきりと伝えて交際を断る。蒼龍はその場は大人しく引き下がった。その後、美来は気まずさから蒼龍を避けるようなことはせず、それ以前と同じように接し、家庭の相談にも丁寧にのった。すると、蒼龍は徐々に好意をアピールするようになっていった。柔道で頭角を現しはじめたのもこの頃からだった。周囲の女子が言うには蒼龍は未だに交際を諦めておらず、運動神経が良い男が好きな美来の為に部活を頑張り始めたとのことだった。


 二度目の告白は卒業式の終わった後にされた。ただタイミング悪く、美来はその直前に告白して来た男子と試しに付き合う事を決めてしまっていたので、再び蒼龍の事は振る事になった。自分じゃダメなのかと食い下がられたが、一度受けた告白をなかった事には出来ないと、蒼龍の好意には応えられないと丁寧に交際を断った。


 その後の二人は同級生が集まる機会に顔を合わす程度の交流になったが、蒼龍から醸し出される好意の気配は薄まることはなかった。そうして偶々当時の彼氏と別れた直後に観戦して欲しいと誘われた全国大会で蒼龍が見事入賞を果たし、その勇姿に心を奪われた美来は蒼龍の告白を受ける運びとなった。


 蒼龍は付き合ってみるとそれまで以上に優しくて面白く、男らしさもあり、それまでに美来が付き合った事のないタイプだった 。それまでに自分が面食いである自覚があった美来は蒼龍相手でも楽しく交際出来ている自分に満足していた。


 そんな二人の交際に影が差したのは蒼龍が樹を紹介した瞬間からだった。


 美来は樹を見た瞬間衝撃を受けた。テレビでしか見た事がないような整った顔に見惚れずにはいられなかった。それでも美来はまだ樹に恋をした訳ではなかった。けれども、親しくしている蒼龍と樹の姿を見ている内、美来はまず当時の樹の彼女を羨むようになった。そんな自分の心に気が付いた後はどうしても気持ちが樹に向く事を止める事は出来なかった。


 美来はそれまで恋愛に関しては自分に素直に生きて来た。気持ちが向けば付き合うし、冷めれば別れる。だから、樹への好意を自覚して直ぐに美来は蒼龍との交際を終わりにしようとした。しかし、人生で初めて美来は別れ話を切り出す事が出来なかった。何故なら蒼龍が樹に対してとても大きなコンプレックスを抱いている事に気が付いたからだ。


 蒼龍の母親が父親に殴られる理由。様々な理由がかつて蒼龍の口から語られたが、中でも衝撃的でずっと覚えているものがあった。


「父さんは母さんのことをブサイクだって罵るんだ。で、どうして俺を父さん似じゃなくて母さん似に産んだんだって言いながら殴る事がある……」


 悲痛な表情を浮かべてそう語った蒼龍。


 そして、蒼龍はそれまでに何度となく樹について語る際、その性格の良さや面白さを語ると同時に見た目を褒めていた。加えて「本当に自分とは違う……」と切なそうに呟く事が多かった。話を聞いたその場では然程気にしていなかったが、別れを意識し始めてからは蒼龍が樹のルックスの事を強く意識している事に美来はやっと気が付いた。


 蒼龍は樹の事を友人としてとても深く慕っていた。親友だと自ら語り、人として男として敬意を払っているようにも見えた。そして樹からも親友だと思われていることを誇っていた。ただ、仲が深まれば深まる程蒼龍が変えたくともどうしても変えられず、父親から汚いものを見るような目で見られ、母親が傷つけられる理由になっている見た目を比較してしまう。そうして、自信を擦り減らしているようだった。


 美来が樹に惹かれた理由は見た目だった。蒼龍が中学時代から自分を強く慕い心の支えにしていると自覚していた美来は、そんな事は口が裂けても言えなかった。すると、それまで別れを告げる時はその理由を包み隠さず明かしていた美来はどうやって蒼龍との交際を終わらせれば良いのかが分からなくなってしまった。蒼龍はきっと簡単には諦めてはくれない。なにせ、中学を卒業してもなお自分を慕い続けていた相手なのだから。そう思えてならなかった。


 ずるずると気持ちが樹に向いている事を言えずに交際を続けていると、美来は自分の気持ちが蒼龍に勘付かれているような気がしてきた。そう思う度に蒼龍は美来を手放すまいとあれこれと手を尽くし声を掛け、美来の愛情を確認してきた。徐々に必死になって自分を繋ぎ止めようとする焦燥が蒼龍の表情に現れるようになる。美来にはその表情が少しずつ怖く見えてきてしまう。


 美来は蒼龍の父親の顔を町に張り出される選挙ポスターで知っていた。全体的な造形は似ていなかったが唯一目だけが蒼龍に似ていた。妻を殴る男は美来の中で好きな相手を殴る男と同意だった。そんな男と蒼龍の目が脳裏で重なって見えた。するとほんの一瞬美来の中に悪い想像が生まれた。蒼龍の母を自分に、殴る父親を蒼龍に当てはめてしまったのだ。ゾッとしてすぐにその想像を頭から打ち消した美来だったが、 僅かに残った恐怖の残滓は蒼龍に自分が執着されていると感じる度に膨らんでいき、いつしか大きなしこりとなって美来の精神を蝕んだ。


 いつか自分も蒼龍の母のように殴られるのではないか。


 はじめはただの妄想に過ぎなかった。しかし、時間が経つに連れいつの間にか蒼龍が家庭の相談をしなくなり、美来を繋ぎとめるための言動ばかり取るようになると美来の妄想は現実味を帯びてきた。


 自分を見る目が怖い。


 解放してくれようとしないのが怖い 。


 話しをしている時に固く握られた拳に籠る力が怖い。


 少しずつ露骨に樹の事を引き合いに出して自らと比較し、自身を卑下して樹を持ち上げつつも嫉妬心を隠しきれなくなっていった蒼龍が怖い。


 精神的に追い詰められた美来はいつしか別れるというよりも、蒼龍から向けられる執着をどう解消するかを考えるようになっていった。


 そうして思い付いたのが、自分への執着を他者に向ける事。蒼龍の中にある暴力という狂気を振るう相手を作り上げ、その人物に蒼龍の意識が向いている間に自身は呪縛を解消して逃げ出そうという考えだった。


 その被害者となったのが、美来が好意を向けている相手であると同時に蒼龍が親友と言って慕いつつも嫉妬心を抱かずにはいられない樹だった。

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