46 もう一つの真実

「ムーちゃん、泣かないで。そんなに目を強く擦ったら腫れちゃうよ」


 えっ、私泣いてるの?


 驚きで思わず指摘をしてきたレックスを振り返って仰ぐと、今にも泣き出しそうな顔をしたレックスが優しい目で月を見下ろしていた。


「…………松田さんは、泣いてもいいんですよ?」


 あまりに切ない笑顔に我慢しなくて良いと感情のままに言えば、レックスは首を横に振った。


「ムーちゃんが代わりに泣いてくれたから俺はいいや。ありがと」


 手首が柔く解放され、頭にポンと労わるように大きな手がのせられた。


「わっ、私、松田さんが不快になるような事っ、言っちゃったかもっ――――」


 ダムが決壊したかのようにボロボロと涙が零れてきて、さらには喉が詰まってしゃくり上げてしまう。まともに喋ることすら出来なくなった月の頭を一撫でしたレックスはポケットからハンカチを取り出して月に差し出した。


「うんん。全然。まして、俺が口に出しにくい事を全部言ってくれた感じだった。お陰で少し自分を客観視して冷静になれた」


 差し出されたハンカチを受け取るべきかどうかを迷って手が出せないでいた月の目元にレックスが直接ハンカチを押し当ててきた。慌てて自分でやるからとハンカチを受け取ったタイミングで唖然とした声が二人だけの空気を霧散させる。


「何? まさか、松田くん……五島さんと付き合ってるの?」


 違うけど、まさかとはなんだ。


 そう内心で反射的に噛みついて、すぐに誤解を解こうとした月の代わりに淡々とした声を発したのは種田だった。


「松田のプライベートな情報を貴方に開示する必要を感じません。よってお答え致しかねます」


 先程月に対して砕けた声とは打って変わった仕事口調に美来がぐっと口を紡ぐ。しかし、直ぐに感情を露わにした目が月を見やり、鼻で笑った。


「貴方みたいに他人の込み入った事情に無遠慮に踏み込んで来る上に、態々謝りに来た人間を悪いようにしか捉えない人が松田くんの恋人? そんな訳な――――」


「――――黙って」


 ピシャリと空気を凍らす音が室内に響いた。それは月とは比べ物にならないくらい低い声だった。性差と同時に怒り具合の違いを聞いた者に瞬時に理解させる迫力があり、その場の誰もが息を呑む気配がした。


「俺のをこれ以上酷く言う事は許さない」


「えっ? 何言って? 大切な人達?」


 本気で意味が分からないと言いたげな美来の目がきょろきょろと意味もなく左右に揺れる。散々何か話して欲しいと願っていたのに、いざレックスが喋り出すとその肩は縮こまった。


 美来同様に、大切な人達とは誰を表しているのかが分からない月はレックスを見上げて次なる言葉を待った。


「そんなの、ムーちゃんとに決まってる」


 美来と月は同時に目を丸くした。ただ、言葉を失っている美来とは違い、月からはするりと問いが出て来た。


「蒼龍さんとは和解されていらっしゃるんですか?」


 自分が大切な人にカウントされている事に関する感情は一瞬でどこかに吹っ飛び、蒼龍の名前が出て来た事に月は驚かずにはいられなかった。レックスは緩く首を横に振った。すると美来の表情がガラリと変わる。まるで希望を見つけたかのように瞳が輝く。


「やっぱり、松田くんってとっても優しい人ね。自分を殴ってイジメて来た張本人をもう自分の中で許しているなんて、普通の人なら出来ない事よ。だから、私の事も――――」


「和解はしていない。謝罪をされた上でって懇願されたから。だから俺は蒼龍がした事を今でも許さないし、今後も許さない」


 美来の瞳の輝きが一気に陰り、代わりに焦燥が顔に浮かぶ。その表情で美来はどうしようもない程レックスに許されたいのだという事が透けて見えた。


 レックスはいつの間にか美来に真っ直ぐに向き直って立っていた。


「蒼龍は俺が高校を中退する少し前、俺が投稿した動画をYouTube内で見つけてすぐ、俺の家に来たんだ。毎日来ては誰も出て来ない玄関の前で土下座して、涙を流しながら俺に謝り続けた」


 レックスは切なげに噛みしめるように当時の蒼龍の様子を語った。


 蒼龍がレックスの動画を見つけたのは偶然だった。しかし、その偶然は蒼龍に多大な衝撃を与えた。不登校になって以降顔を見ていなかったレックスの顔色や肌艶がかつて見た事がない程悪く、やつれていた。にもかかわらず、そんなレックスの顔を見て視聴者達はレックスの見た目をイケメンだとコメントしている。蒼龍は愕然としたという。


 ――――こんなの全然イケメンでも何でもない。本当の樹はもっともっと輝いていた。


 そんな思考が脳裏を過った瞬間、蒼龍はそれまで視界を埋め尽くしていた霧が晴れ、夢から目覚めるかのような感覚に見舞われ、自分の仕出かした事を明確に自覚した。そして、レックスに対する罪悪感がこれでもかという程膨れ上がり、居ても立っても居られなくなった。それから毎日のように単身レックスの家にやって来ては、門前払いされても玄関の前で地べたに額を擦り付けて謝罪を繰り返したという。はじめはレックスも家族も取り合うつもりはなく、無視し続けた。しかし、一週間連続で蒼龍の謝罪が続くとレックスは根負けして蒼龍を家に入れて話を聞いた。


「蒼龍はね、実家のリビングで俺と両親が居る前でボロボロ泣きながら謝ってきた。そして自分の気持ちを包み隠さず語ったよ。最初に殴ったのは恋人が無理矢理俺にキスをされたと思い込んでいたせい。俺が事実を誤魔化そうとしているかのように見えて、不誠実な態度の男に大切な恋人が弄ばれて傷つけられた事が許せなくて、頭に血が上って殴ったって。でもって二回目は、暴力を振るう父親を軽蔑し殴られる母親の気持ちに寄り添って生きて来たつもりだったのに、感情に任せて手を出してしまった自分、加えて暴力を嫌う恋人に別れを告げられた自分に絶望している時に、暴力を振るうのは何も自分だけじゃないって事を証明したかったんだってさ。だから蒼龍はやり返す正当な理由がある俺に手を出して欲しかったんだ。けれども、俺はあの時蒼龍を殴らなかった。いつの間にか興奮して俺に手を出させる事に固執した蒼龍はまた殴ったらきっとやり返してくるって、殴って欲しくて俺を殴った。それでも結局俺はやり返さなかった。それで、より深く自分に絶望している時に、他の男子達が俺に手を出し酷い事をしている事に気が付いた。蒼龍はそれを見てほっとしたらしい。最低なのは自分だけじゃない。人を傷つけるのは自分だけじゃないって。だから自分は手を出さずに他の調子に乗った奴らのイジメを止めずに見続けてたって」


「……そんな、酷いっ」


 ぽろりと溢れた月の感想にレックスはゆっくりと頷いた。


「そう、酷い。それを蒼龍も分かって俺のところに謝りにきた。だから、一生許さないで自分を恨んでくれって頭を下げたんだ。俺と俺の家族の怒りを背負ってその後の人生を過ごすって。でもって俺はその頃学校を中退する事を考えていたからそれを伝えたんだ。そしたら、俺のその後の活動が阻害されないようにって、自らイジメの証拠動画を撮影しようって提案してきた。しかも、自分も加害者側としてイジメグループをコントロールしながら動画に映るって」


 月は目を見張った。


「イジメ動画の撮影は蒼龍さんの発案だったんですか?」


「そう。もう自分は謝りに来てるんだからうまいこと言って逃げれば良いのに、自分から主犯をしっかり演じてたよ。それ以上にビックリしたのが、俺が動画テロをして学校側が慌てふためいて謝りに来た時に蒼龍は来ないで、翌日に母親と二人で来たんだ。二人で改めて深々と頭を下げて謝って、母親は離婚、蒼龍は高校を中退して二人で人生やり直すって」


 言葉が出てこなかった。そんな展開があったとは全く予想していなかった。けれども腑に落ちるところもあった。イジメの動画を撮影して相手をギャフンと言わせて謝らせただけで、レックスの男性に対する不信感が無くなるものかと、月は少しばかり引っ掛かっていた。蒼龍が度重なる謝罪をした上に、家族の形を変えてまで自分を変えようとする姿を見せたというのなら、その誠意がレックスの中の不信感を和らげたのかもしれない。そう思う事は月の中で難しくなかった。


 詳しい事情を知らない美来は自分の中で情報を整理しているのか少しの間唖然とした顔で黙っていた。そんな美来にレックスは静かな声で言った。


「蒼龍は何もかも自分が悪いって言ってたよ。当時の恋人が暴挙に出たのも自分が至らなかったからだって言って、許してやってくれって」


 美来は弾かれたように瞬きをして、唇を噛んで俯いた。そんな美来の腕からコートがずるりと落ちたが、それに構う者は誰もいなかった。


「……私が許して欲しいと願うのはそんなにいけない事? 弱かった当時の自分を曝け出して、謝罪をするのでは足りないって? 私にも土下座して、仕事を辞めて詫びなくちゃ許さないって? それとも、今後の人生松田くんの姿をメディアで見るたびに反省して涙して生きろって?」


 乾いた笑いを零しながら美来は自分の身を守るかのように腕を組んだ。


 きっと罪悪感に耐えられるほど美来の心は強くない。同時にレックスの胸中を悟る程の想像力もないのだろうと、月には思えた。


 誰だって自分として生きているんだから自分がかわいいに決まっている。それでも他人に優しく出来るのは他人の幸せが自分の幸せに通じているからだ。通じていなかったら最低限の外面を保つくらいの優しさしか必要ない。目に見えない相手の心を懸命に想像するよりも自分が可哀想だと慰める方が精神的なメリットが大きい。


 つまりは美来にとってレックスはその程度だということだ。その程度の相手が日常生活を送る中でチラチラ視界に入り、過去の罪悪感を刺激して思い出させてくる。それが堪らなく煩わしかったのだろう。


 何の返事をすることなく、黙ってレックスは美来から目を逸らした。その目が陰っているような気がして、何かを諦めたように見えて、月の方は黙っていられなくなった。


「遠野さんは何もしなくていいんじゃないですか。松田さんが許せると自然と思ったその時が、貴方が許される時なんじゃないですか。そして、それは今じゃない。だから、貴方は日々、あらゆる画面上で輝く松田さんを見て反省するしかないですよ」


「だからぁ、何で貴方にそんな事を言われなきゃいけないの?」


 苛立った美来がヒールの高い靴で床を踏み付けた。


 確かに私は部外者だ。そう心で呟いて月は深呼吸をした後声を張った。


「貴方に松田さんを癒す事は無理そうだからです! だからもう大人しく今の日常を過ごしていてください。松田さんは私が精一杯癒します! だから、貴方のしでかした事が松田さんの中で過去になって、もう許してあげてもいいかって不意に思える日がいつか来るのをひたすら待っていればいいと思います!」


「罪悪感で眠れない日々がどれほど苦しいか分かりもしないで、何をっ」


 美来が感情的になって月に一歩踏み出した。伸びてきた手は月の飾りっ気のない服を掴もうとしたが、そうはならなかった。


 月は自分に向かって伸びてきた手を両手でぎゅっと強く握りしめていた。


「突然心を傷つけられて、信頼を踏み付けにされて、大切な人とそれまでの生活を失った苦しみを知りもしないのはそっちの方です!!」


 月の脳裏に和司の姿が過ぎる。けれども直ぐに頭を横に振ってその顔を消した。


 自分の悩みなんてレックスの経験した事と比べれば大した事ではない。


 驚くくらいあっさりと月はそう考えた。同時にその理由がするりと頭に入ってきた。


 だって、私は名前は否定されたかもしれないけれど、ショックで死ぬほど悲しかったけれど――――私という存在そのものを否定され故意に傷つけられた事などなかった。


 レックスはトラウマや見た目に関するコンプレックスを抱えつつも、全ての女性を拒否するのではなく、ある程度は心を開いて誠実に接していた。見た目を武器にした動画を自ら投稿し続けて、自分の価値を勝手に決めつけて心を蔑ろにしてきた人間に負けないようにと対抗し続けている。


 私も今よりもっと強くなりたい。自分の心を背を丸くして守るだけじゃなくて、大切な人を守って、曇りのない自然な笑顔を引き出したい。


「貴方がするべき事は許しを乞うことではなく、許せると思ってもらえる心を松田さんに作って貰うための努力なんじゃないでしょうか? 今のままの貴方には出来る事はないと思います。だからもう帰ってください!」


 月は自分がこんな事を言うような立場ではないという事は重々承知の上でも言わずにはいられなかった。


 両手で握りしめた美来の手を自らの想いが伝わりますようにとさらにぎゅっと握りしめ、真っ直ぐに目を見つめた。数秒、目がしっかりと合った状態で静寂が訪れる。見つめている美来の目にみるみる涙が溜まっていくのが分かり、それが溢れる寸前に手が払い除けられ顔が背けられた。


「もういい、帰るっ」


 グスっと鼻を鳴らして美来が体を反転させた。触れる体温が失せた両手を所在ないまま宙に浮かせた月はその背中をただ見つめる。


 全く反省していないとは思わない。でなきゃ態々謝りに来たりはしない。涙も演技ではない。ただ涙を流す対象が“可哀想な自分”なのだ。表面上、自分が悪いから罵っても良いとは口にはしたが、その展開の後に「許す」の一言とのセットを期待していた。レックスがされた事に対しての想像力と謝意が足りず、望んでいた結果を得るには足らないものが多過ぎたのだ。


 口出しをした癖に、何一つプラスになる事を残せなかった。


 月は宙ぶらりんになっていた手を胸に引き寄せ、己の不甲斐なさに打ちひしがれた時だった。


「ちょっと待って」


 レックスが一歩前に出た。声を掛けられた美来の動きが止まる。足元に落ちたコートを手に取って胸に抱えた背中が不安気に丸くなる。


「連絡先、置いてって」


「えっ?」


 勢いよく振り返る美来。その目は何かを期待した光を宿しかけるが、レックスがその光が完全に灯る前に声を重ねた。


「万が一、ムーちゃんが言うが来た時用に」


「…………万が一なのね」


 意気消沈した顔で美来が顔を伏せる。


「わざわざ聞かなくても、五島さんが知ってるから――――」


「いや、直接教えて。でもって、連絡が来ない限り俺が許してないって事を感じながら生きて」


 その言葉はそれまでにその部屋で誰が発した言葉よりも重かった。俯いて目元に重なった前髪で美来の目を見ることは出来なかったが、頬を伝う涙は見えず、その代わりに引き結ばれた口元が戦慄いた。


「…………本当に、ごめん」


「…………うん」


 それは、レックスと美来の心が面会中にしっかりと通じた唯一の瞬間だったかもしれない。

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