5-5

「それ、読まねェ方がいいかもしんねーぞ」


 とある資料に手を伸ばした時、ジガバチが言った。それは、ワークデスクらしきもの上に置いてあった。それは、エデン計画の内部告発に関する書類のようだった。

 そう言われると気になってしまうというのが人の性(さが)だ。

 彼の制止を無視すると、パラパラとそれを捲った。名簿だった。恐らく、羅列されているのは内部告発に賛同する者の名前だった。顔写真と簡単な個人データ、署名欄が記載されている。

 ほとんどすべての顔写真のところにバツ印がされていた。大芹(おおぜり)と、楪(ゆずりは)と言う署名とともに掲載された写真を含むいくつかのページを除いては。


「……やっぱり、そうだったんだ」


 彼女の口から出てきた言葉は、そんな陳腐なものだった。勝手に進路を決めて、病的に教育熱心で、時折射殺すような“悪意”を向けるアゲハにとっての母親像を線で繋げる。

 ヒイラギは母を信用できない、と言った。そんなのこちらのセリフだ。ヒイラギは母から愛されていたのだから。

 彼女の心の奥底から、筆舌に尽くしがたいグロテスクな感情が沸き上がるのを感じた。


「母親が死ぬのって……、いや、殺すほど憎むってどういう感じなんですか」


 アゲハは思わず口にしたことにショックを受けた。そして、零れ落ちたその言葉は二度と拾えないのだ、という事実にひどく後悔する。これではまるで、母親を憎んでいるようではないか。死を望んでいるようではないか。ほんの、これしきの事でだ。

 ジガバチとは背負う業、受けた苦痛まるで違うというのに、なんとあさましいことか。そう、彼女は心の中で自分の取るに足らない葛藤を愚弄する。できれば聞き流してほしかった。だが、その意図に反し、空気は張りつめていた。


「なあ、アゲハ。俺はこう見えても、弟がいたんだぜ」


 その沈黙を破ったのはジガバチの方だった。嘲笑されるか、あるいは揶揄されると思ったが、そうではなかった。何気ない言動の端々に、特有の気遣いを感じていたアゲハは彼が長男であることは別段驚かなかった。

 それよりも、この先何が言いたいのか、それに専らの興味があった。


「……そんでよ、頭がおかしい母親も、そン時は普通だった。普通の母親ってのが何か知らねーけどな」

 

 彼女はオオゼリの写真に目を落とした。鼻筋、眉の形、長くて薄い唇がそっくりだった。目を細めて、ほんの少し口角を上げて笑う彼女は、淡く、清廉で美人だった。だが、その美しさの内には猛毒を孕んでいたのだ。それが嘘のように高潔な女性に見えた。


「弟はどこの誰の子供かしらねェ。いつからか母親の腹が膨らみ始めて、いつの間にか生まれた。俺と父親は間違いなく違う、異父兄弟ってやつだった。でも、そんなこたァここら辺ではよくあることだったから、俺も母親も気にしてなかった。けど、弱者がここで生き残るのは難しいんだ」


 不穏な話の区切り方に、ふと顔が暗くなる。アゲハたち市民が、アンティーターでのうのうと甘い蜜を吸って暮らしている傍らで、廃都市では過酷な生存競争が繰り広げられているのだ。


「夕餉時、いつものように二人で両手いっぱいに荷物を持って、帰る途中だった。そン時強盗に襲われた。俺は走って逃げれたけどよ、ちっせェ弟は捕まっちまった。有り金も荷物も全部渡しても放しちゃァくれなかった。それで気付いた。逃げねーと死ぬって。向こうは多勢の大人で十いくつのガキが何したって勝負は見えてンだろ? 俺は弟を置いて逃げた。後ろの方で、アイツの悲鳴と笑い声が聞こえた。それが途切れた時、次は俺の番だって思って、死ぬ物狂いで走った。逃げきれた時、途轍もなく安心した。母親がおかしくなりだしたのもそれがきっかけだったけどよ、俺はこの選択をちっとも後悔しちゃァいねーよ」


 ジガバチは嘲笑った。自らに向けた、嘲笑だと彼女は思った。何か気の利いた言葉を掛けなければいけない、そう思った矢先、目が合った。


「なんだよ。流石のお姫様も、俺のこと呆れたってか?」


 彼女はここぞとばかりに、ブンブンと首を横に振った。あまりに強く振ったからか、その滑稽な姿に彼は乾いた声で笑った。


「質問に答えてやるよ。俺は母親をそれほど憎んでなかったし、今もそうだぜ。全部自分が選んだ選択肢の結果だからなァ。身の危険を感じたから勢いで殺しちまっただけ。でも、そのおかげで今はこうしてお前の目の前にいる」


 そう言うと、アゲハの頬を摘まんだ。


「そんなん、せいせいしてンに決まってんだろ」


 いつかの、ハイエナに揶揄(からか)われた日のことを思い出す。そして、頬が熱くなった。しかし、ジガバチはぱっと指を話して続けた。


「なア、何で人を殺しちゃいけないんだ? 同腹の兄弟を殺して孵化する生き物なんてザラにいんだぜ。生まれ落ちた瞬間母親を殺して生き延びる生き物だって、交尾中にオスを食い殺すヤツだって、いんだぜ? 何で人だけダメなんだ?」


「……その人の大切な家族とか友達が、死んだら悲しむから、とか……?」


 我ながら絞り出した答えが、まるで月並みで笑いだしそうになる。どの口が言っているのだろうか。

 アゲハは母親から無碍にされていたわけではない。最後の誕生日の日だって、ケーキを作ってくれてお祝いしてくれた。保衛官が来た時だって、気丈に振舞っていた。衣食住も満足に与えられて、手を上げられたことだって一度もない。

 愛情は少なからずあったはずだった。理想的な母と娘の像も点をつなげば、結べていたはずだった。

 それでも、一瞬でも母を死ねばいいのにと思ってしまったのだ。おまけにヒイラギにも嫉妬した。それが彼女の心を苦しめた。


「じゃァ、そいつの大切に思ってるやつだったら別に殺してもいいじゃねーか」


 アゲハは何も答えられなかった。確かにそうだ。それでは殺してもいい人が、いくつも存在することになる。


「ダメなのは分かる、でも理想的な理由を後付けすることができねー。だから、殺すなっつールールがあんだろ? でも、ここにはそんなモンねェんだぜ、アゲハ」


「……私にお母さんを殺せって言ってるんですか?」


「そうじゃねェ。姉だからとか、娘だからとかそんなんに囚われて欲しくねーんだ。知りもしねー、他人が決めた理想像だろ、そんなん。愛されてたら何されても憎んじゃダメなのかよ? 家族だったら何されても許さねーとだめなのかよ? 自分の心を大切しろ、アゲハ。誰が何と言おうと、自分がどうしたいかってのが一番の答えだ」


 気付いたら泣いていた。拭っても、拭っても、涙がとめどなく溢れて来た。何を言い出すのか、そう思って一言も漏らすまいと聞いていたら、一番欲しい言葉を貰ったからだった。


「楯突くやつがいたら俺がぶっ殺してやる。だから好きなようにしろ」


 ジガバチの前で醜く涙を流したのは、何度になるだろう。それなのに、一度も困惑したり、怒られたりすることはなかった。

 いつものように涙が枯れるほど、喉が痛くなるほど泣きじゃくったのだった。



 ヤママユの家宅捜索はパンゴリンから帰るとすぐに、実行に移した。ウシアブの一味を討伐する計画の日は目下に迫っていた日だった。


「居間の地下が怪しいと思います。そこで死体を解体して、人間の剥製を作っていたみたいです」


 アゲハはハイエナと妙な距離を取りながら、足早に向かった。


「そうか。それより……」


 彼は妙な区切りをつけ、彼女を見下ろす。思わずドキッとした。たどたどしい態度について、言及されるのかと思ったのだ。


「妙だ。話からして、ウシアブは相当な規模の麻薬市場を持っているはずだ。それなのに、構成員の数が少なすぎる。十数人で、本当に成り立つのか? ヤママユがウシアブと関係があるとしたら、なおさらだ」


 しかしアゲハの爆上がりした心悸を引き起こす心配事は、杞憂に終わった。あの日からちょっとした彼の言動で、心を揺さぶられてばかりいる。そんな自分が惨めで仕方がない。これではナナホシと同じ穴の狢ではないか。

 ハイエナが言っていることは、一理ある。製薬会社の製造工場の一端を拠点としているが、護衛はわずか十数人。多く見積もっても二十と幾何(いくばく)だそうだ。ショウジョウから独立した彼らが小規模なのは納得ができる。少数精鋭部隊なのだろうか。


「アゲハ、止まれ」


 ヤママユの家がある敷地内に足を踏み入れた時、ハイエナが声を上げた。咄嗟に止まったが、彼は大きく後ろにアゲハを突き飛ばす。そして、頭上から降って来た“何か”からの攻撃を、ワイヤーで往(い)なした。

 尻もちをついた彼女は、もんどりを打った最中、ふと鳥の羽のようなものが見えた気がして振り返った。


「ここに何の用だ!」


 どすの利いた女の声が頭上から聞こえたとき、彼女はわが目を疑った。人の容貌をし、人の声を出していた。しかし、それは人ではなかったのだ。

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