⑦公園(二十歳の冬)


 年が明けてすぐ、柚子から電話があった。

 今から少し会えないか、と。

 私からの連絡は無視するくせになんなんだとは思ったけど、会いたい気持ちが先行していつもの公園へ向かった。

 遊具にはうっすら雪化粧。

 いつものベンチに、柚子が座っていた。


「久しぶり」


 声をかけると、鼻を真っ赤にした柚子の顔がふやっと綻んだ。

 思わず、息を飲む。予想していなかった。てっきり、暗い話だと……嫌な事だと思っていたのに。


「ごめんね、急に呼び出して」


 柚子が横にずれてスペースを空けてくれたので、隣に腰掛ける。

 息が白くなって、宙に飛んだ。


「柚子と会うの、二年近くぶり」

「卒業式以来だね、ごめんね」

「何に対して謝ってる?」

「私ね、小説家として生きる道、諦めたの」

「……うん」


 あぁ、やっぱり、暗い話か……いや、その話しでしょ、当たり前じゃん。

 私たちの関係はそこから始まった。


「高校の時、絵奈は私の小説を読んでくれた、嬉しい感想をくれたのに、怒ってごめん」

「それは……何も知らないのに、偉そうに口出してごめん」

「ううん、合ってるよ。絵奈の言葉があってたって、今になって気がついた」


 私もそう思う、という言葉は口にしなかった。テレビやゲームは禁止だった、娯楽といえば本を読む事ぐらいで……同年代の中では、読書量は多いと思う。

 そんな私だからわかる。

 柚子の小説は絶対、本にして売るべきだ。

 

「きっと私より、絵奈のほうが小説家に向いてるよ」


 なに?

 私のほうが?

 何言ってるの、柚子。どうしてそうなるの?


「そんなことない! 私は文章なんてレポートとか論文しか書いたことないし、柚子みたいな才能は」

「だったら書いてみてよ」

「え?」

「一行でも、一ページでもいい、書いてみて。私より上手く書ける。絵奈は、小説家として生きていける……なーんちゃって、例えばの話!」

「…………え?」


 立ち上がった柚子が、悪戯な笑みを見せて振り返った。

 振り切ったような、吹っ切れたような、爽やかな笑顔。


「絵奈のほうが小説家に向いてるとか、例えばの話!」

「あ、そっか……」

「書いてみよう、とか思った?」

「いや……うん、書けるかも? とは、思った」


 嘘がつけなかった。

 私の言葉に、柚子が目を細める。


「私が小説をやめるって話は本当。苦しかった、ずっと。頑張って書いても誰にも褒めてもらえなくて、つまらなくて。そうしたら次は、作品を完成させる事が怖くなった。誰か読んでくれるかな、褒めてもらえるかなって。その期待が裏切られると、最後は書けなくなった。誰が読むだろう、誰も読まないよ。誰が必要としてくれるだろう、誰も必要としないよ。誰が期待してるかな、誰も期待してないって……相談できる人もいないし、逃げ道もわからなくて一人、苦しかった」

「柚子……」


 目元を拭って笑う柚子に手を伸ばそうとしたが、柚子が背を向けたので手を止めてしまった。

 大きく深呼吸した柚子が再び、私に振り返る。


「だから今日は、絵奈にお別れを言いにきたの」

「お別れ?」

「小説家としての私は今日で終わり。柚野奈々という小説家は今日、死ぬの。だから、お別れ」

「……柚子は、死なないよね?」


 私の質問には答えず、柚子はふふふっと笑う。

 全てを見通したような、軽やかな笑顔で。


「私はずっと、小説家になるために生きてきた。私は小説家の卵だ、将来は大物作家だって、自分に言い聞かせて。だけどそれが無理なら、こんなにつらい人生はない。お別れしたいの、小説家である私と」

「過去の自分と、訣別するってこと?」

「サヨナラをしてくれる? 絵奈」


 柚子が伸ばした手に、恐る恐る自分の手のひらを合わせた。

 怖かった。

 何が?

 その正体が何かはわからないけど怖くて、柚子の手はとても温かかった。


「温かいね、柚子の手」

「絵奈の手も」

「気持ちが伝わるね」

「それは、どうかな?」

「ねぇ、柚子。また会えるよね?」

「その答えは、絵奈の心の中に」

「なにそれ。もー、ほんと、小説家ってやつは」

「もう終わりだよ、絵奈。小説家の私は、今日でおしまい」

「そう、だったね……バイバイ、ゆ……柚子にバイバイするのは変かな? えっと、柚野せんせ」

「柚子でいいよ。バイバイ、絵奈」

「バイバイ、柚子」


 繋いだ手は、柚子のほうから離れた。

 そのままくるんっと、踵を返して歩き出す。


「え? 柚子、帰るの?」

「お別れしにきただけだから」


 振り向かない柚子の背中に、私は大きく手を振った。


「また……また連絡するね! またね、柚子!」

「……バイバイ、絵奈」


 見えていたのかは知らないけれど、同じように手を振り返してくれた柚子。

 それが、私が見た柚子の最後の姿、この世に存在している柚子と交わした最後の言葉だった。


 どこで会った?

 どんな話をした?

 どうやって別れた?


 たくさんの大人が私に詰め寄ったのは翌日の事。

 七瀬柚子の訃報とともに彼らは、私の元へやってきた。握手を交わした三時間後には、その温もりは消えていただろうと。

 成人式には行けないと、親に話していたらしい。

 ないじゃなくて、ない、だって。

 日常生活にまでそんな、面白い言い換えしないでよ。


「全くもう、小説家ってやつは……」


 茶化してみてももう、返事をくれる人はこの世にいなかった。

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