エピローグ
南山駅に着いた。最終列車から降りたのはぼくひとりだった。この周囲は比較的海抜が高いから潮間でもそれなりの地位の人間ばかりが住んでいるので、電鉄を日常的に利用するのは発電所がらみのひとたちを除けば、自動車の運転が難しい高齢者くらいだった。彼らはこんな夜中に出歩くことはない。
市ノ瀬主任を喫煙所に呼び出したのがもうずいぶん前のことのように思われた。葦山氏からはなしを聞いていたらしく、ふんふん、と気のない返事をしながら相槌を打っていた。はなしが終わると、少し考えてから、びっくりするほど低い声でこう言った。
「石本さん。私は、あなたが嫌いです。あなたが好きなこのまちと、あなたが嫌いでした。それはあなたが厳しい国立大学の試験をいとも簡単に潜り抜けたからだとか、約束された将来を自ら踏みにじった大馬鹿職員だからだとかそういうものではなく、あなたは自分自身の力だけで人生を選択し、それを貫く力があるというところが嫌いでした。ええ、嫉妬でしょう。嫉妬です。私だって人間ですから嫉妬くらいします。あなたは都合のいいときだけ、私や高光さんや祥太くんを『ひと』として見ていますね。都合が悪ければまるっきりそうと扱ってくれないのに。その器用さが嫌いでした。だから最初に言ったでしょう、関わるなと。そんなあなただから、一瞬でも『ひと』として扱われたら、あなたを忘れられなくなるんですよ。新居浜部長の娘さんも、私も、高光さんも祥太くんもそうです。あなたの無意識な不器用さと理不尽な冷たさが私は憎いです」
無表情のまま、主任は滔々と語った。途中から身体にくさびを打ち込まれているような感じがしたので、彼女の言っていることはおそらくほんとうなのだろうと思った。
「どこを向いてもあなたの話ばかりだった私の気持ちなんて、きっと考えもしないでしょうけれど、それでも、まあ、このまま千歳に戻るよりはよかったんじゃないでしょうかね」
終業のブザーと同時に、彼女は胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。このまちの人間で一番煙草が似合わないと思っていた主任は、煙草をくゆらす妙齢のひとへとかわってしまった。
「あなたも、どうですか?」
「吸わないのですが、ひとついいですか」
「そう言うと思っていました」
主任に火をつけてもらうと、凄まじい勢いで口の中に煙が広がった。ほんとうにはじめて吸う煙草はとても苦くて、せきこんでしまった。主任はふふ、と意地の悪い笑みを浮かべている。
「喫茶店、私も好きなところで、よく連れて行ってもらっていました。なので、毎日のように通いますから、覚悟してください」
「それは心強いです。よろしくお願いします」
ぼくの言葉に、はあ、と主任は大きくため息をついた。
「そういうところ、なんですけどね」
もちろん、ぼくだってわかっている。もうわからないふりをするのをやめたから。とは言えなかった。だからその日以降は、最後の日と後任の入れ替えがわかる日まで、ぼくも主任も三島も、お互い全く言葉を交わさなかった。交わす、必要がなかった。
月はあの日と同じで円かったけれど、珍しくすっきりと晴れ渡っていたからあの日より心なしか明るいような気がした。宿舎の扉を開けて、ぼくは使い込んだ万年筆で原稿用紙に最後の部分を書いた。そして淡泊な便箋にこう書いた。
新居浜真理様
お手紙ありがとうございます。けれど、ぼくは貴女をそういうひとにすることは出来ません。なぜなら、貴女が興味を覚えているぼくは、ぼくが嫌いなぼくだからです。
小説をよみたいと言ってましたね。貴女への返事を書こうとして出来上がったこの紙束は、貴女がどう思うかわかりませんが、ぼくにとってはれっきとした小説です。差し上げます。読まなくてもいいです。出来たら読まないでください。
さようなら。
簡潔なメモと、原稿用紙の束を大きな封筒に放り込み、ひもできつく綴じた。真っ白な封筒には退職届を入れた。新居浜総務部長宛てにしておいた。千歳に行って結局受け取ってもらえなかったから、辞令のお返しのように投げつけてやりたかったけれど、これで十分なような気もしてきた。彼女からもらった、ぼくの名前が入った万年筆を箱に入れて、それも持った。
ぼくに明日が来ることはない。今日と、その先があるだけだ。毎日やってくるのは今日であって明日ではない。そうして今日を生き抜きながら、ぼくはぼくがなさなくてはならないことを見つけ、果たしていく。そういう生き方をすることに決めたのだ。だから、もう戻ることはできない。わかる前に戻ることはできなくなってしまった。
月光が煌々としているのが慣れなくて、夜なのに眩しいと感じてしまう。家の荷物は葦山氏が手配して、昼間のうちに喫茶店の二階に移送されていた。だからここにあるのは月の光だけだった。ぼくの影はしっかりと立っていた。彼女はきっと、もう眠っているだろう。
南山駅前にちいさな郵便ポストがあった。そこに封筒を差し入れた。真理への封筒は大きすぎて入れづらかったけれど、なんとか押し込んだ。ここから先は郵便屋の仕事だ。列車が来ない駅はがらんとしてひとけがなかった。月明りが強いせいか怖くはなかった。月は円いままだ。踵を返して、ぼくは宿舎の脇の道を下った。慎重に砂地を歩いていくと、あの浜辺にたどり着いた。浜辺はぼんやりと光っていた。月明りを吸い取ろうと呼吸をしているみたいに、その光が瞬いていた。
波はほとんどないけれど、確かに流れはこちらに向いていなかった。ぼくは万年筆を静かに浮かべた。すっと、万年筆は海面を滑り出して、音もなく浜辺を離れていった。贈答品用のしっかりとした箱だから沈むことはなく、またぷかぷかと揺れ動くこともなく、船のように前へ前へと進んでいき、あっという間に見えなくなってしまった。
「ごめんなさい」
きみをわかれなくて。
きみをうけとめられなくて。
きみをさわれなくて。
埋葬に似ている、と思った。このまちでは、人は海へと還る。だからぼくはこうすることをおぼえた。こうしなければならなくなってしまった。
ぼくはなぜか悲しいような気がした。それはまぼろしだろうか。けれど、すべてに取り残されてしまったようなこの気持ちはきっとだれにもわかられないまま、ただここにありつづける。
砂でも真珠でもない中途半端な核たちのうえにぼくは座り込んだ。
その粒のひとつひとつが震えて見えた。
震える真珠 ひざのうらはやお/新津意次 @hizanourahayao
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