14-2
「石本くん、実はだな」
考えを巡らせ始めたとき、葦山氏は真剣な表情で話を切り出した。
市役所の近くにある喫茶店を営んでいたわたしの知り合いが、倒れてしまってね。急遽店をたたむことになったんだ。わたしはそこが気に入っていてね。コーヒーも紅茶も、大手の飲料会社のサーバーを借りたような既製品なのだが、なにしろそこから見える海の景色がとても好きなのだ。もっとも、わたしが貸しているところなのだが、このままでは店をつぶして、駐車場にしたほうがいいだろうって息子が言うんだよ。あいつは頭がいいが風情というものがいまいちわかってないやつでな。
まあそれはいいのだが。
葦山氏は前のめりになって、ぼくと目を合わせた。
「喫茶店のマスターをやってみんか?」
どんな顔をすればいいのか、わからなかった。一応、関東電力に勤めているのは安定した収入があるからで、つまりぼくはサラリーマンとしての生活を前提として今まで生きてきた。急にそんなはなしを振られたところで、どう答えればいいのかわかるわけがなかった。
「もともとな、ほとんど家賃をもらっとらんようなところだったんじゃ。二階は2LDKの立派なすみかにもなるぞ。つまりじゃ、少なくともねどこは心配する必要はない」
あと、会社のほうも心配しなくてよいぞ。
葦山氏は最後のことばをぼそっとつぶやいたが、それもわかりきっていた。シオマソニックの同僚の嫌がらせを対処したのは葦山氏だし、結局「アコヤガイ」以外のアーティストは葦山氏が手配してくれた。
それに。
ぼくの見間違いでなければ、葦山氏と市ノ瀬主任は「親密な関係」だった。つまり、どうあがこうが、すでにぼくは葦山氏と切っても切り離せないほどの縁と恩讐ができあがっていた。
「もちろん、今の暮らしのほうが安定しておるし、潮間というまちを俯瞰しながら小説を書いて暮らしたいという君の希望にも十分答えられるものじゃろう。それはわかっておるよ」
硬いチーズがぼろぼろと口の中を転がっていったのでワインでのどの奥に流した。
「けれどな、石本くん、わたしは君にもっと潮間のことを知って貰いたいし、欲を言ってしまえば、俯瞰のようなものではなくて、地面に寄った、この色の薄い潮間のいまの風景を書いて欲しいのじゃ」
「葦山さんはぼくの小説を読んだことがありましたっけ」
「読んだことはない。ないが、君が小説を、このまちの小説を書けない理由ならおおよそ見当がついておる。わたしは、それをできるだけ解消したいのじゃ」
おせっかいなのはわかっておるが、頼む、このわたしを助けると思って引き受けてくれないだろうか。
きちんとした恰好の、きちんとした体格の老人が頭を下げるときというのは、あらゆる意味で「なりふり構わず」なのだろうとぼくはふと思った。
しぜんと真理が頭に浮かんだ。もう二度と彼女に会うことはないと思えば、確かに魅力的だった。
同時に三島のことも思った。「アコヤガイ」の音楽はSNSを通して爆発的といっていいくらいの速度で浸透していった。バンドの公式アカウントのフォロワー数はいつの間にか四桁になっていたし、もうすぐ五桁になるかもしれないという勢いだった。シオマソニックによって、かれらは確実に音楽の世界で「デビュー」を果たせるかもしれないのだ。三島ほどの人間がそこに勝機(もしくは、商機)を見いださないはずがない。つまり、かれは徹底的に考え抜いて潮間を離れることを決断したのだ。潮間に残りつづければ、ぼくは三島が大きくなっていくのを、少なくとも間近で見ることはできなくなってしまう。かれの音楽でぼくは震えた。だから、ぼくはどうしてもぼくの小説でかれを震わせてみたくなってしまった。はたして、潮間から書いた小説でかれを震わせられるのかぼくには自信がなかった。
しかし、そう、もうわかっているとおり、ぼくはどうあがこうがすでに葦山氏のてのひらの上から出ることなど出来なかったし、そうするつもりもなかった。ぼくにとって潮間というまちは、もはやかけがえのないふるさとと同じになっていた。宇佐見という出生地はあるものの、通勤も通学も他の都市に出かけていたぼくは、ふるさとというものが今までなかった。そうしてたどり着いたのが潮間だった。だからやっぱりぼくには潮間を見捨てたり、離れたりする選択肢はないのだと改めて気づいた。つまり、いうまでもなく、ぼくに断るという選択肢は最初からなかった。
ぼくはゆっくりと頭を下げた。コンクリートのろくろが一瞬だけ頭の中をかすめたけれど、すぐに消えた。
「ありがとう。君には助けられてばっかりだ。できるかぎりのことはするから、よろしく頼んだ」
葦山氏はぼくのてのひらをつかむように握手をした。そのてのひらは思っていたよりもずっと冷たくて、硬かった。
「これで、君も、潮間のひとになれるはずだ」
お店のドアをくぐって、葦山氏は陽気に笑った。喫茶店だけで暮らしていけるのかどうか不安になったけれど、少なくとも葦山氏が生きているうちはどうにかなるのだろう、と珍しく楽観的に考えることができた。そのおかげで、ぼくはこれを今書けているのだから、やっぱり葦山氏には足を向けられないのだと思う。
南山駅で黒塗りの車に出迎えられて葦山氏は帰って行った。どうやら家のひとにも秘密だったらしい。
葦山氏から離れると、これからどうなるのだろうという不安が少しずつぼくの中に浸透してきてしまった。ふりほどくように、宿舎への道を急いだ。
途中、崖の上を歩いていると、あの浜辺に妙な気配があった。神のお告げというわけではないだろうけれど、違和感とも胸騒ぎとも違った。夢中で坂を下って砂に足を取られそうになってあの浜辺に出て、その正体に気づいた。
一糸まとわぬ姿の女のひとが、浜辺に流れ着いていた。海草のように黒くぬめっている長い髪は最低限そのほうがいいところだけを都合よく隠した。女のひとに外傷はなかった。目を閉じ、眠っているようだった。喉仏がゆっくりと動いている。
「生きている!」
ぼくは思わず叫んだ。
「おい! 本当か!」
崖のかげから現れた老警官が女のひとを懐中電灯で照らす。
「救急車だ」
「はい」
手元のスマートフォンで救急を呼んだ。程なくして静かなまちの中にサイレンが聞こえ、近づいてすぐ近くで消えた。救急隊が女のひとを運び込んでいく。
「無事だといいな」
老警官の言葉にぼくは素直にうなずけなかった。台風の前だったら素直ではなかったけれどうなずいていたかもしれない。
「あの、ぼくは?」
「ああ、あとはこっちでやるからいいよ」
老警官はいつにない冷淡な様子だった。
「帰りなさい。台風で疲れているのだろう」
そのほほえみも、見たことがないくらいささやかでぼくはなぜか怖いと思った。けれど老警官がそういう以上、言うとおりにしたほうがいいのだろう。ぼくはそう思って宿舎へ引き返した。
奇しくも、ぼくはそこで気を落ち着かせようとしておもむろに原稿用紙と万年筆をとって、夜が明けるまで文章を綴り続けた。書いていても何もわからなかった。それはぼくにしか書けなかった。だからぼくはこれを書き上げないといけないと思った。ぼくにとって、それは小説以外のなにものでもなかったのだから。
そう、ほんとうのことをいえば、これはつまり、そうやって書かれたものなのだ。
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