14ー1

 千歳のクリニックから潮間に帰ってくるとなぜか安心するようになった。千歳は県庁所在地で、いうまでもなく大都市だが実のところ駅前の再開発が遅れていて大小さまざまな雑居ビルがひしめいている。駅からほんの少し歩くだけで猥雑な繁華街が姿を現すのだ。新宿のようなきらびやかさも、池袋のような猥雑さも、渋谷のような軽やかさも、新橋のような親しみやすさも、天馬のような下町の積み重ねもなく全部がぜんぶ中途半端で、だから東京の大都市と比べるとずいぶんうらぶれてしまっている。ぼくはそんな千歳が嫌いではなかったのだが、潮間の生活になれてしまうと千歳でも騒々しいと感じるようになった。千歳からは天佐電鉄千歳線に乗れば直通する東京メトロを介して宇佐見には帰れるのだが、それも気が進まなくてぼくは自然と潮間から出なくなっていた。発電所に勤めるようになってからというもの千歳より西に行ってないことに気がついたが、それで特に不自由していないということにも同時に気づいた。少なくとも潮間というまちはぼくがこれまで住んでいたどのまちよりも静かだったし、シオマソニックが終わってからも夜になれば虫の音すらほとんど聞こえないくらいで、時折吹く風と、とめどなく押し寄せる波の音がするだけだった。そういった「恵まれた環境」によって病状もゆるやかに回復していると医師も言っていた。奇跡的に人事異動とぼくがかみ合っている、と彼は表現していた。だからぼくは千歳に戻るつもりは全くなかったし、ほんとうはそう返事をすべきだと思った。

 けれど、肝心のそれを綴るための言葉がいまだに出てこなかった。三島にかけようとした言葉と同じように、重要なピースが抜け落ちているような感じがして、便箋をいくつも無駄にした。そうして何枚も書いていると、やりたくもないことにどうしてこれほど労力をかけなくてはならないのだろうと思ってしまい万年筆を放り投げたくなってしまうのだ。そうしてかれこれ数週間が経ち、肌寒さすら感じられるようになってきてしまった。

 潮間駅に着くと、葦山氏から電話があった。駅の商業施設のほうで待っている、とのことだった。葦山氏がこの商業施設の店を使うとは知らなかった。「うしお」でも別によかったけれど、むしろ近くでちょうどよかったのかもしれない。そういえばこの商業施設の飲食店には入ったことがない。

 小洒落てはいるものの、どこかで見たことのあるような雰囲気のイタリアンのチェーン店で葦山氏は待っていた。ぼくに向かって手を振ると店員を呼ぶボタンを押した。

「どうじゃ、たまにはこういうのもよいじゃろう」

 すでに生ハムとチーズの盛り合わせと赤ワインのボトルが並んでいた。葦山氏は現れた店員にグラスとカルパッチョ、ポテトのオーブン焼きを注文した。

「石本くんは?」

 いきなりそう聞いてきたので、ぼくは素早くメニューをめくってブイヤベースとバゲットを注文した。店員が行ってしまってからなぜ肉料理にしなかったのだろうと思ったがもう遅い。

「しかし、偶然だったのう。まさか潮間駅にいたとは」

「病院からの帰りです」

「なるほど、今日は非番だったのじゃな」

 葦山氏は納得したように深くうなずいた。

「たまにはこういった店を使うのも悪くないのう。だいたい和食に偏りがちだから、本当にたまに洋食というか、イタリアンみたいなものが食べたくなるんじゃ」

 それこそ、葦山氏ほどのひとならば希望を出せばどんな料理でも食べられるような気がしたので、ぼくはなんだか妙だと思った。

「どうじゃ、発電所は。辛気くさかろう」

 思えばこの話題も藪から棒だったのだが、そのときのぼくは特になにも感じることなく、登場したブイヤベースを口に運んでいた。

「どうでしょう、静かに仕事が進んでいくので、たまに自分が何をしているのかわからなくなることはあります。けれど、あの台風の日、ぼくは潮間というまちを文字通り背負っているのだと気がつきました」

 仕事はそれほど多くない。日がな一日、座ったりあたりを散歩したり、やってくる業者に挨拶をしたり、本社や千歳支社からくる書面調査に回答したり、そんな毎日だった。やりがいがないかもしれないが、つまらないと思ったことはないし、実際ここに来る前とやっていたことはそんなに変わらなかった。ただ、シオマソニックから、ぼくは積極的に給湯室のお茶菓子を整理したり、執務室の中を掃除したり、そういった細かいことをなんとなくやってみている。市ノ瀬主任から特になにかを言われたわけではないし、実際言ってこないのだから、これでいいのだろう。

 はっきりと意識が変わったのは、台風のとき、そして三島に叫んだときだった。あのとき、ぼくはこの潮間というまちをわからないままふれつづけることを選んだ。だから、潮間から離れるという選択肢は、もうぼくに残されていないのだと気づいた。これは潮間に残る道を模索する、というようなものではなく潮間にいなければならないという使命めいたなにかが、ぼくの中にたしかに存在しているということである。

「なるほどなあ。たしかに、発電所の長というのは、その机の上だけのものではない。けれど、その重さは座ってみなければわからないものよのう」

 しかし、それは葦山氏にとってはわかりきっていることではないのか。ぼくはふしぎに思った。よくよく考えれば、なぜ潮間駅に出てまで、葦山氏はぼくと酒を飲もうと思ったのだろう。「うしお」が飽きてしまったのか、それとも。

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