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 シオマソニックの後かたづけもひと段落して、潮間は延々と続く日常に飲まれようとしていた。薄曇りで蒸し暑い夏の日々も終わりに近づき、潮風は相変わらず吹きすさんでいる。

 原付を降りてバイク店に入ろうとしたところで、中に見知った顔を見かけた。

「石本さん」

 三島だった。灰色のウィンドブレーカーに白いヘルメットが目立つ。手で引いているバイクも白い。ステージに立ったかれの衣装はいつも真っ白なシャツだった。ほんとうは白が好きなのかもしれない。

「ちょうど調整してもらっていたところなんです」

 三島はバイクに視線を向けた。大きくはないが、原付よりは確実に速いことをぼくは知っている。

「これ、高校生の時に買ったんです。僕、高校が佐久間にあって。電車通学が面倒だったのでこれで行けないかと思って」

「佐久間までは遠いと思うな」

「はい。実際行ったら二時間近くかかっちゃって。高速乗れませんからね」

 三島は寂しそうに言った。なんとなく、その高校での思い出はそんなに美しいものではないのだろうという気がして、ぼくはそれ以上聞くのをやめた。

 シオマソニック以降、かれは少し落ち着いたような気がした。それまではどこか脂ぎった闘志を感じたのだけれど、今目の前にいるかれは、どこにでもいるふつうの青年そのものだった。あえていえば、「としをとった」という風に思えた。もっとも、かれから見れば、ぼくもそう見えているに違いないし、実際ぼくもそうなのだろうと思う。そして、たぶん、ぼくは「としをとった」ひとにはなりたくないとどこかで思っていたような気がする。確証はないけれど。

 やがて来るであろう冬のためのグローブを買ったり、転んでも大丈夫なようにプロテクターを買ったりした。急な坂をのぼることもあるかもしれないし、このまちの道路にはガードレールがほとんどなかったから、バランスを崩したときに何か守るものがないと原付とはいえ大けがをするだろうと考えた。バイク屋のおじさんはやっぱり親切に、そういうのはきちんとしたメーカーのものを買った方がよい、といって膝と肘につける物を選んでくれた。ぼくは礼を言って原付に跨った。

 三島はまた灯台に向かったのだろうか。邪魔をすべきかどうか少し考えて、ぼくは灯台が見たいのだと思い進路を決めた。

 灯台が近づいても三島の気配はなかった。けれどぼくはあの浜辺をはじめて見つけた時と同じように、かれが灯台にいないとわかってもその先に進まざるを得ないような気がした。

 霧先灯台はあのときと全く変わらずに立っていた。これだけ潮風が吹き続けていても、ずっと立ち続けているのはどんな気分なのだろう。ぼくは急にそんなどうでもいいことが気になった。けれど、気になったところで灯台が語りかけてくるわけでもない。

 灯台の脇に原付を止めて崖をのぞき込んだ。とがった岩場は、崖の上から落ちてきた人間の身体をいとも簡単に砕き、切り裂き別のものへと変換してしまうだろう。日中で薄曇りなのに、崖の下は薄暗く見えた。うすら寒いものを感じて、思わずぼくはスマートフォンを手にして「潮間 自殺」と検索した。すると非常に多くのブログやウェブサイトが引っかかったが、ほとんどの画像がこの霧先灯台の写真をあげていた。思った通り、こここそが自殺の名所と呼ばれる場所だった。飛び降りれば浜辺にたどり着いて老警官に発見されるだろう。しかし、よく考えれば毎日のように遺体が流れ着くのに、この周りには転落しないよう注意を促すような看板や柵すらない。もっとも、それはなんとなく想像がつく。このまちはガードレールや柵自体がほとんどないからだ。けれども逆に、誰かが飛び降りたような跡も見あたらないのだ。たとえばそろえられた靴だとか、それこそ転落した身体そのものだとかが、見回してもその気配すらない。あれだけ遺体が流れ着いていて、しかもここに柵すら立てないほどの「なにか」があるにもかかわらず。

 ぼくはぞっとした。あの浜辺に初めてきた時と同じ感覚に襲われた。ぼくは今、ほんとうに潮間にいるのだろうか。それすらわからなくなるような、急に無重力の中に放り出されるような感覚に全身を掴まれた。不可解ともまた違う、しっかりとした筋があるけれどもそれをぼくは見られないようになっているとでもいえばいいだろうか。しいて言葉にするならそういう表現になるだろう。また、ぼくはそんな感覚にとらわれながらも、ふしぎと怖いとは感じなかった。

 もう一度海を見渡した。夕方に近づいて強い風は少しずつ弱くなっていた。波の音が絶えず響いている。海は灰色のまま水平線まで続いていて、白い波は眼下から南へ続いていた。少し下った先はひらけていて建物が集まっていた。潮間のほぼ唯一の市街地、潮間市役所周辺だ。市役所からここまで相当な高低差がある。下る道はいつ見てもとても急だ。荒涼とした風景はしかし、あの浜辺と同じようにぼくの心に残っていた。

 だからぼくは、なんてことのない一日だったはずのこの日を今もはっきりと覚えているし、忘れることはないのだろうと思う。そうして、ぼくの心に深くふかく侵入してくる景色が増えていくことによって、抜け出せない日々が徐々にじょじょにほどけていくのであった。実際その日は帰ってすぐに強い雨が降り始めたけれど、こめかみの痛みは少なくともおぼえがないくらいには鋭くなかったし、あの日の夢を見た記憶がなかった。

 もっとも、それに気がついたのはだいぶあとになってからだった。

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