その日は朝から薄曇りで、盆にかかる時期なのにそれほど暑くなさそうだった。ただ湿度はかなり高かった。早朝、ぼくが公園に向かうと葦山氏とその会社のひとたち、三島とハヅキ、そして発電所や電鉄、市役所なんかの関係するひとたちがいた。何を言ったのかはよく覚えていないが、とりあえずぼくの言葉から当日は始まった。

 ステージは葦山氏が手配したイベント業者が前日までにしっかりと設営してくれていたおかげで、こぢんまりとしているけれどもそれなりのものができあがっていた。三島が配線を確認する。

「思っていたよりもいい設備ですね」

 かれはぼくに笑いかけた。わくわくした顔の裏に、ぼくは緊張を読みとった。

「そうなんだ」

「僕、大学で電気工学やってたんですよ。スピーカーとか、こういう設備とかのことを知りたくて」

「なるほど」

「そのおかげで発電所でも働けているんです」

 つまり、かれは最初から音楽で生きようとして、すべてを整えていたということだ。逆にいえば、かれはずいぶんと若い頃から綿密に進路を考えていたということになる。何もかもを「つぶしがきくから」と欲張りに進んでいった結果、ついになにものにもなることができなかったぼくとはそこが大きく違っていた。かれをそこまで音楽に向かわせたのは何だろう。考えても仕方がないのでぼくは目の前の仕事に集中した。

 出演者の弁当を市役所隣の弁当屋に取りに行ったり、酒屋から飲み物を運んだりしているうちに日は高くのぼって開場の時間が近づいてきた。昼から夕方にかけての短いフェスだ。夜になれば列車の本数が減るし、同じ理由で朝早くから開くわけにもいかない。だから実質の開演時間はそんなに長くない。けれど、このステージに取り組んでいるのは昨日から待機してくださっている業者のひとたちを除けば、みんな「ただ音楽が好きなだけのひと」にすぎなかった。そしてぼくは、その最たるうちのひとりだった。

 リハーサルでドラムの位置を舞台班に細かく指示して帰ってきた三島は、さすがに緊張の面もちを隠せなくなってきていた。

「当たり前ですけれど、僕、こんな大きなステージで今までやったことがなくて」

 かれ自身も緊張しているということが明白だったのだろう、視線を向けると少し寂しげにはにかんだ。

「僕たちの音楽って、はっきりいって多くの人に手放しで受け入れられるようなものではないと思うんです。僕だってそれを目指してきましたから」

 しかし、出演しようとするほかのアーティストと比べると、かれの表情はしっかりと固まっていた。それは決意そのものでもあった。シオマソニックで、しっかりとした演奏をする、ということを第一に考えている顔だった。

「君には、出来ると思うよ」

 ぼくはそれだけを言った。それだけしか、言う言葉がなかった。

 開場がはじまった。チケットは簡単な紙製のリストバンドだった。灰色のリストバンドをした老若男女さまざまなひとびとがそろそろとステージに入っていく。手製の、しかもはじめてのフェスのわりにひとはいた。少なくとも、千歳のライブハウスとは比べものにならないくらい多かったと思う。三島とハヅキ、その友達たち、そしてスタッフたちがこぞってポスターを作ったりSNSで拡散したりしていたおかげだった。とくになにもしていないのに、ステージの明かりがついたとき、ぼくは感慨深くなりすぎて涙がでてきた。思えば、なにか大きなことを最後まで成し遂げられたこと、その一部にぼくが関わっていると感じられたことは今までなかったはずだ。

「感無量じゃろう」

 オープニングのバンドが入って曲を奏で始めて、ようやくとなりに葦山氏がいたことに気づいた。

「こうして、若者たちが一丸となって何かをするというのは、わたしのような老いぼれでもどこか、美しく見えるもんじゃな。トシの問題ではないのかもしれんが」

 葦山氏はぼくに身体を向けた。

「石本くんも、観客席で演技を見たらどうかの。祥太くんとハヅキちゃんの勇姿も見たいじゃろう。ここは、わたしらに任せて。せっかくの、シオマソニックなんじゃから」

 そう言ってぼくを観客席のいちばん後ろの席に連れて行くと、満面の笑みでステージの方へ消えていった。

 新進気鋭のバンドたちはどれもこれも自分たちの矜持を全面に押し出した演奏を披露していて、曲の合間も息をつく暇がなかった。いつもは強く吹く午後の潮風も、なぜか今日はやけにおだやかで、もともと日の光が強くないからあまり暑くなることもなく、演奏を聞くことに集中できた。しいて言えば、ぼくがこちら側にいていいのだろうかという気はしていたが結局葦山氏に甘えることにした。関東電力の職員、つまり発電所にいるはずのないぼくの会社のひとびとはだれもいなかった。嘱託のひとたちは、市ノ瀬主任が来ていたのは見たけれど他はわからなかった。三島が呼んだ何人かの若手職員はスタッフとして働いていたはずだが、見に来ていただけのひとは記憶にない。

 ぼくは彼らの演奏にのめりこんでしまっていた。もちろん、一番印象に残ったのは最後に演奏するかれらだった。

 スタッフによるドラムの移動が終わると、かれらはすぐに出てきて、観客に向けてしっかりと一礼をした。決してまばらでない拍手を浴びていたかれらは、もはや千歳にいたときのかれらでもなかった。やはりかれらは、ここが潮間であるということをしっかりと見すえていた。他の出演者とはそこがはっきりとちがっていた。

 頭を上げると向かい合うように配置につく。それが珍しいと思ったのか、場の空気はどことなく、これから何が起こるのだろうという興味が支配していた。

 意を決したようにハヅキがドラムを軽妙に打ち鳴らして、一気に雰囲気が変わった。三島の表情からわずかに漂っていた迷いが消える。ギターが静寂と衝撃の隙間を打ち抜き、ドラムの軽やかな変拍子に素朴な旋律をのせ、かれは全身で自らの言葉を語った。三島は激しくうなりハヅキと共鳴していく。かれらはなにかと必死で戦っていた。襲いかかる敵を自動小銃の三点バーストで撃ち落としていくように、ハヅキは得物を打ち鳴らす。三島は応じるようにハヅキを向いて激しくギターを鳴らした。エフェクターを踏み抜いて音が激しく歪み大小さまざまなスピーカーに反響して会場をふしぎな熱狂が包み込んだ。

 僕の世界はだれにも壊せはしない。

 三島は投げはなつように叫ぶ。その立ち姿はむしろ独唱する声楽者のようにしっかりとしていて、冷静にギターを歪ませている。ハヅキの激しいドラムの拍動はしかし、よく聞けばワルツのような優雅さをもって刹那の狂いもなくかれの言葉を飲み込む。

 たったふたり。

 たったふたりだった。たったふたりのかれらが、ステージを、公園を、潮間を震わせていた。それは共鳴や共振と呼べるものではなく、むしろぼくらとかれらの境界を破壊しているように思えた。

 真珠だ。

 ぼくは思った。かれらは互いに異物を取り込んで、互いに真珠を作りあっているのだ。その力が釣り合っていま、ここで轟音となって会場を包み込んでいる。

 いや、違う。ぼくは気づいた。

 かれらにとって、ここが、ぼくらが、真珠なのだ。

 そうだ、かれらの名前はアコヤガイだ。

 真珠を造り出す貝。

 かつて潮間で大量に生み出されていた貝。

 それなのに潮間のどこを探しても、今はいない貝。

 潮間のすべてを、ものがたる貝。

 かれらはその名を背負ってここにいた。

 こころの聖域を作り出すんだ。

 三島の高く力のある声が響く。かれが奏でる音はすべて高い。対するハヅキの叩く音も高い。高いが、同時に重さもあった。凄まじく重たいものをふたりが全力で持ち上げているような、異様な執念とこだわりと、そしてすべてにねむる純粋さをはっきりと感じた。

 千歳で聞いたかれらとも明らかに異なっていた。別の曲で、まったく別のすがたをぼくは見た。しかし、いずれの曲も、ふたりのあるがままのかたちとは別の、引き込まれるような重力をどこか身体の端で感じるような響きがあった。かれらが作り出す深淵をぼくはのぞきこみたいという衝動を抑えかねていた。おそらく、かれらが持つ最大の魅力であり、力でもあるのはその部分ではないかと思うのだが、しかしぼくはこれ以上かれらを言葉にすることは難しいように感じた。ぼくはぼくの言葉だけでかれらを表したかった。ぼくだけの真珠で、かれらを数えたかったのだ。

 だけれど、このときぼくは、まだそれには気がついていなかった。気がつかなかったからこそ、ぼくはこのシオマソニックを冷静に振り返ることができたのだろう、と思う。そして、この時点で気がついていれば、おそらく今のぼくは、もしかするとここではないどこかにいるのかもしれない。だけれど、当時のぼくが気づいてくれなかったからこそ、今のぼくはこれを書いている。そうしてぼくは過去から今へと線路を引き続けている。引き続けることが、できるようになったからだ。

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