8-3

 たちの悪いいたずらであって欲しかった。けれど、新居浜真理をかたる偽者が社内にいるはずがないし、まして社外に知られるほどでもないだろう。それに、この文字はやはり真理のものだと思うし、文面だってきっと真理が本心から「まごころをこめて」書いたものだということがありありとわかった。だからこそぼくは、あまりにも本心(あるいは、本心のようなもの)をあかしすぎているこの文面を笑い飛ばすことが出来なかった。逆に恐怖も感じなかった。どこか、遠い国のお姫様になったような、ぼくの目の前の景色とは全く異なるなにかが展開されていてふしぎだった。こめかみの痛みもなくなってしまった。

 そうだ、ぼくは今、潮間に生きている。真理が潮間に来ることは、きっとない。うすぼんやりと感じていたことが、この手紙によってたしかになりつつあった。彼女はこうして千歳から手紙を送ったり、千歳に来たぼくを後ろから追いかけたりするくらいが精一杯だったということなのだ。だから、ぼくが潮間にとどまり続けていれば、真理の無遠慮な知的好奇心に襲われずに済む。そういう返事を書けば、きっと二度と真理はぼくの前に姿を現さないだろう。

 しかし、そうなると厄介なのが新居浜総務部長である。ぼくが潮間にとどまり続けるであろうことと、真理が潮間に行きたがらないということはおそらくお見通しのはずだ。どんな手を使ってでも、ぼくを潮間から引きずり出すかもしれない。だとすれば、ここで思いのままに返事を書いてしまうのは早計ではないだろうか。ぼくだって多少の貯金はあるにせよ、今会社を叩き出されたらなかなか厳しい生活が待っていることは想像に難くない。この宿舎だって会社の持ち物なのだから、まず住むところから探さなくてはならないだろう。なぜ好きになるはずのないひとに正直な手紙を送っただけでこんな目に遭わなくちゃいけないのかと思うと、気楽に返事を書く気にはなれなかった。それにぼくはまだ、潮間で生き続けられるだけの資格があるようには思えなかった。潮間のひとびとは嫌いではなかったけれど、ぼくを見る目は彼ら同士を見るそれとは明らかに異なっていた。ぼくが今、潮間の人間として生きていくのは無理がある。だからしばらくは手紙のことなんか忘れて、ほうっておくことに決めた。そう思うと急に窓から崖の下が見えて、誰もいない静かな浜辺が見えた。珍しく波だってもいなかった。

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