11
「石本さん、ちょっと」
三島が仕事を休んだ日、ぼくは市ノ瀬主任に発電所の外の喫煙所まで連れ出された。勤務中の喫煙は固く禁じられているので当然のことながらだれもいないし、つまりそういうことだった。
「なにか、知りませんか?」
三島の様子が変だ、というのを聞いて、気持ちをどこに置いていいのかわからなくなった。確かにシオマソニックからかれは明らかにおとなしくなった。しかし――これを主任に言うことは出来ないが――創作をするような人間にとってはそれくらいの浮き沈みがあるのがふつうである。ぼくも小説を書いていた頃はもっと浮き沈みが激しかった。書けなくなってから、明らかに気分は安定してきているように思う。
ただ気にならないかと言われればうそだった。いつも通りの時間が過ぎて駐車場から原付を取り出すと、バイクに乗った三島が横を駆け抜けていく。ぼくはぼくで、なんだか出かけたかったから、追いかけるように発電所からの道を駆けた。
なんとなく港に行きたくなったので、市役所の前の交差点を折れた。ただ帰宅するだけと思われる三島は同じ交差点を直進していった。市役所から公園を通り過ぎるとすぐにちいさな港が現れる。波止場にはいくつかの船が、さほど手入れをされていないまま並んでいた。風のわりに穏やかな波だった。
防波堤のふもとに降りると、水平線の先から月がのぼってきていた。夜はまだ夏のままの空気を残してはいたが、匂いはすでに秋のものとなっていた。この港はなぜか磯臭くない。波も穏やかで、海草や藤壷も少ないから、それが関係しているのかもしれなかった。
きっとぼくがギターを持っていれば弾き語りをしてしまいそうなほど落ち着いた空気だった。防波堤に腰を下ろすと、長い風雨にさらされたその肌はやたらにざらついていてあの灯台の下に広がる岸壁を思い出した。
雨が降ればいい。
君も来ればいい。
ギターの音と歌声がした。
三島だ。
どこにいるのか、見渡しても見つけられなかった。空耳かもしれなかったけれど、それにしてはあまりにもはっきりと聞こえすぎている。けれどそれらしい人影はない。
風が吹いてきた。三島の歌声は風にのって向かってきている。風上は、灯台の方向だった。港から灯台までは急な坂道が続いているが、つまりそれは道のりに比べれば直線的な距離はさほどないということだった。ぼくは原付に乗ってスロットルをふかした。
灯台の近くの崖に座っていた三島は、近づくと立ち上がった。
「ヘルメット、ちゃんとつけたほうがいいですよ」
首ひもが重かった。ヘルメットもまともにかぶらずにぼくはここまで走ってきてしまったらしい。
「まあ、ここでヘルメットなんてかぶるのは僕と石本さんくらいなものでしょうけど」
ぼんやりとした月の光に照らされて、三島の輪郭がうかびあがった。かれのほほえみはやっぱりどこか寂しそうに見えた。少なくとも、シオマソニックの前までほとんど見たことがなかった表情だ。
「どうにも、気分が晴れないんです」
それを訊きに来たんでしょう、と言いたげな視線に、ぼくは何も言えなかった。
「石本さんも、薄々は気がついていると思うんですけど、世界って僕らの手には決して届かないじゃないですか。あのステージで僕らは完璧な演技をした。――そう、それは、完璧でした」
かれの言うとおり、シオマソニックのラストを飾ったアコヤガイは完璧だった。ぼくもそう思っていた。思えば、だからこそぼくは今後の展開に思うところがあったのかもしれなかった。
「完璧だったからこそ、僕は気づいてしまったんです。どれだけ否定しようが、気づかないふりをしようが、所詮僕は、潮間の男なのだと」
かれの瞳は揺らいでいた。何かにおびえているように見えたけれど、ぼくにはそれが何かわからなかった。
「ああそうか、石本さんは知りませんよね。ごめんなさい」
その顔にはあきらめとぼくに対するなんらかの憐れみが浮かんでいた。
「潮間の男はね――この海にひかれていくんです」
三島は芝居がかった仕草で崖の先の海原を示した。白く長い指はよく見ると中指にペンだこが、ひとさし指には弦の痕がついていた。男らしくも均整の取れたきれいな身体だと思っていたけれど、かれも当然のように生きているのだ。もちろん、ぼくだって。
「ご存じでしょう? この灯台は、外では自殺の名所として毎日のように人が訪れて、死んでいます。僕の父はそうやって死んだ人たちと同じように死にました」
かれはそれがさも当たり前であるかのような口調で言った。しかし、むしろかれはぼくに語ることによって潮間にいないひとたちにとっては当たり前ではないということを知っているぶん、それはかれにとってもう当たり前ではないのだ。だからこそ、かれの苦悩は、かれ自身が考えるそれよりもずっと深いようにぼくには思えた。
「いったい君は何におびえているんだ?」
「わかりませんよ。ただ、あの日見た潮間の景色は、僕らが見ていた潮間ではなかったし、あの日集まっていた人たちは、僕らを見てはいなかった」
どういうことなのか、ぼくにはよくわからなかった。シオマソニックに訪れたひとたちはおそらく、みんなが「アコヤガイ」の演奏に震えたはずだ。少なくともぼくはそう思っていた。かれらを見ていないひとなんて、いたのだろうか。
「おそらくこのままでは、僕もきっと海に飲まれてしまうでしょうね」
うつむいた三島をなおも月明かりは照らしている。かれはそのまま抱えているギターを手に取り、つまびき始めた。
宇宙の片隅に居たいんじゃなくて、僕はここで宇宙になりたい。
君が瞬く星なら僕はそれを包み込む宇宙になりたい。
それがとてつもなくいとおしいと感じるのは、ただの気のせい。
即興で歌っているとは思えないその言葉はけれども少なくとも、ぼくが今まで聞いたアコヤガイの曲にはなかったはずだった。
「愛するひとの前で、歌なんかうたえませんよ。あなただってそうでしょう?」
「まあ、確かに、その通りだと思う。そのひとに直接向けられた愛の言葉ほど、信じがたいものはないと思うよ。感情と言葉が釣り合っていないのだから」
だからぼくは真理を拒絶し続けたし、これからも拒絶し続けるのだろう。ぼくはぼく自身の行動の理由なんか全く考えないけれど、こうしてある日突然わかってしまうのだ。わかってしまったが最後、わかる前に戻ることはできなくなってしまう。それは暴力に違いなかった。
「ぼくは、ぼくの言葉をわかってしまったから、小説を書けなくなってしまったのかもしれない」
その言葉すら、水蒸気とともに溶けて消えた。三島は寂しく笑うのみで、言葉を重ねない。
「ぼくと君はおそらく似ている。けれどだからきっと違う世界が見えているんだ」
「そうかもしれません。僕は僕の考える響きを大切にしたくてここまでやってきました。最初はベースもいたんです。でも、結局ハヅキのドラムと出会ってからは要らなかった。そう、要らないんです」
ハヅキのようなドラムを今までぼくは聞いたことがなかったし、おそらく多くの聞き手がそう思うほどに、彼女の振るバチには独特のふしがあった。それは小説で言えば文体のようなものかもしれない。そのリズムに乗せることができるものも限られていて、三島はたまたまそれが出来た。そうしてアコヤガイはできあがった。
「このまちを小説にしていくのは、覚悟が必要だと思います」
「なんで潮間を小説にしようとしているって思ったの?」
「いえ、石本さんがやりそうなことだな、と思っただけです」
三島は恥ずかしそうにそう言った。少しだけ表情が明るくなった気がする。
「このまちを描くなら、石本さんもこのまちに足をふみ入れる必要があります」
かれの言葉を聞いて、ようやく表情の理由がわかったような気がした。
「君は、潮間から逃れようとしている」
「そうです。僕はこのまちの誘惑から、しがらみから逃れたい。僕の響きを確かなものにするにはそうするしかないんです。けれど、それにはあまりにも、僕には潮間が染み着いている」
三島の目から一筋の涙がつたった。
「この業は、あなたにわかることはないのだと思います」
涙を親指で拭ってかれは続ける。
「真珠という宝石は、本来貝殻の中に侵入してきた異物を封じ込めるための、アコヤガイの防衛本能によって創られたものです。だから――」
「その核にあるものは、汚い」
「そう、僕はその核から目をそらし続けています。けれどもう、それが限界に近づいている。僕は僕自身の音を奏でるために、その核がいかなるものであるのかを見定めなくてはならなくなってきている。そして僕はそれがたまらなく怖い。怖いんだ」
ヒステリックな――という言葉が適切かどうかぼくは一瞬悩んだが結局はそう表現する以外にないと思い、ここでそう表現することにした――かれの叫びをむしろどこか醒めたような目で見てしまっていた。ジグソーパズルの重要なピースをなくしてしまった絵のように精細を欠いたものを見させられているようだった。確かにそれはどうしようもなく醜かったし、醜いこと自体が美しい、というような副次的な美しさすら存在しないくらいに純粋なみにくさがあった。けれどぼくはそれがなぜみにくいと思ったのか、この時は気がつかなかった。ただ、かれとぼくは近しいながら大きく異なっていて、それをわかりあうことはおそらくない、とはじめて感じただけだった。
だからぼくはあのときのかれに声をかけることが出来なかった。しばらくの間はそれを後悔したように思う。けれど、こうしてそれを思い出していると、あのときにかれに声をかけなかったぼくはむしろ正しかったし、そうであったからこそ今のぼくがいるのだとはっきりといえてしまうのであった。この灯台での出来事はぼくの中で忘れ得ぬ思い出のひとつになった。
そこから先、ぼくは灯台からどうやって帰ったのか、かれが何を語ったのかを覚えていない。けれどはっきりとしているのは、少なくともぼくはなにも語っていなかったということだった。だからこそ、今、ここでぼくは語るようにこれを書いている。
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