8ー1

 海は灰色のまま、ぼくの目の前にただありつづけていた。三角座りをして、ぼくは水平線を眺めていた。手のひらに砂利粒がついている。白くて球状のかたちをしているそれは、真珠を作るのに使われるものだという。真珠になり損なってしまったものばかりがここに集められてしまっている。潮間の海岸は切り立った崖がほとんどで、海水浴が出来そうな砂浜はなかった。唯一崖のないところが養殖用の船を出したりする事業基地となっていて、そこからまちが広がっていった。港から離れたこの浜辺には、もともとだれも住んでいなかったのだという。

 両脇を崖に囲まれて、この浜辺は洞窟のようにへこんでいた。崖の上から見ると三日月のように大きく曲がっているのがわかる。

 海も空も、灰色だった。

 もとより灰色の多いまちだ。

 波はゆるやかに浜辺に寄せては返し、寄せては返しを繰り返している。

 ぼくはなぜ自分が三角座りをしていたのか忘れてしまった。砂利粒が食い込んで尻が痛いから、もうかなりの時間座り込んでいたようだ。立ち上がろうとして、足が痺れていることに気づいた。

 大きな波が押し寄せた。

 目の前の海が盛り上がる。

 海面が割れて、女のひとが飛び出してきた。

 彼女は何も身に纏っていなかった。

 明るい栗色の髪の毛は乳房まで伸びていた。腰は細い。脚はすらりとしているが、太股は遊びだといわんばかりのわずかなたるみがあった。

 吐き気に襲われた。

 それは水に濡れていた。

 新居浜真理が、そこにいた。


 宿舎の布団だったことに安堵した。

 雨が降っていた。むわりとした独特の湿気を感じながら、こめかみがえぐられるような痛みを発している。

 気持ちの悪い夢を見た。けれどそれ以上はよく覚えていない。自分の身体の中の一番知られたくない部分をまじまじと見つめられているような気分だった。吐き気もひどい。けれど吐けるものを口に入れていない。水をめいっぱい飲んでトイレで吐いた。頓服の薬を飲む。吐き出さないように気をつけて、ぼくは職場に電話した。

 市ノ瀬主任は予想以上に優しかった。

「この時期は体調を崩しがちですし、石本さんとしても大事な時期でしょうから、こじらせないように十分注意していただいて、様子を見て厳しいようであれば明日も休んでください」

 主任の声が暖かく聞こえる。ぼくは彼女を動揺させないように最低限の注意を払って電話を切り、床に座り込んだ。

 潮間に来てからここまで体調が悪くなったことはない。前回も、吐き気はさほどきつくなかった。何が原因なのだろう。いや、むしろ潮間における原因なんてものはきっとない。あるとしたら、季節だとか、天気だとかそういうものだろう。ぼくはさしたる根拠もなくそう思った。

 なんとなくドアポストを見たら、封筒が入っていた。クリーム色の紙にピンクの花があしらわれている。動悸が激しくなった。頓服薬は玄関に吐き出された。封筒にそれがかかることはかろうじて避けられた。

 考えるまでもなく、ぼくにあてられた手紙だ。彼女の手書きの文字を全く見たことがないのに、ほぼ間違いなくそれだろうということがわかってしまった。潮間に移ったぼくにわざわざ手書きで手紙を寄越すような人間が他にいるとも思えなかった。封を開ける気力がなかった。まだ午前中なのにすっかり疲れ切ってしまった。全身が水を吸った綿みたいに重たい。まるで海からあがってきたみたいだと思った。

 嫌悪感と倦怠感が交互に襲ってきていた。ほんとうに風邪を引いているかもしれないと思い体温計を出してきたが、平熱の三十五度を示すばかりだ。少なくとも病院へ向かう必要はないみたいだった。

 横になるが、目をつぶるとまた真理が出てきそうで怖かった。こめかみの痛みは増してきていた。もはや平手打ちの痛みをはるかに超えて、脳に届くかと思うくらいの長さの釘を金槌で打ち込まれているような痛みだった。なぜその痛みをぼくが受けなければいけないのか全くわからなかった。

 音楽プレーヤーを手に取った。イヤホンをつけずにスピーカーにつないだ。

 海の底に沈んでいく。靴の底に重りが入っているみたいに、ぼくはまっすぐ沈んでいった。ぼんやりとした明かりがどんどん遠くなっていき、方向が曖昧になった。

 いつのまにかぼくは息をしていなかった。けれど心地よかった。水の中ではそれが自然だ。身体の輪郭もぼんやりとぼやけはじめ、身体は形を失っていく。遠くに見えるのは何だろう。暗い水の中に白い点が現れた。徐々に大きくなっている。近づいているということなのだろうか。光は遠く、周りはどんどん暗くなっていく。底も見える気配がない。白い点はゆっくりと近づき、球状のなにかに変わった。水が冷たい。痛いとは思わなかった。きっとぼくにとって心地よい冷たさだ。

 白い球はぼくより大きかった。中から音が聞こえる。ギターを弾いているのは三島だ。聞いたことのない旋律だけれどそう思った。かれの手癖は独特だから、一度それを聞いてしまえば遠くからでもわかってしまう。ドラムはきっとハヅキだろう。

 白い球は光り輝いた。

 真珠だ。

 気づいたときには身体がそれに引き込まれていた。息が苦しい。呼吸をしようとしてその仕方を忘れていることに気づいた。海面は遠い。かれらは近づいている。

 わたし、真珠好きなんだよね。

 真理の声が聞こえた。

 目を覚ましたときには夕方が近づいていた。雨はあがっていて、ずきずきとした痛みはだいぶ和らいでいた。ものすごく苦しかったような気がする。

 スピーカーからはアコヤガイからもらった音源が流れていた。ミニアルバムの最後の曲、ぼくがライブハウスで聞いた、かれらとの最初の曲だった。

 明日になったら。

 このフレーズばかり繰り返されている。言葉がどこに向かっているのかわからないが、これだけ繰り返すように、つぶやくように歌うかれらは明日を望んでいないはずだ。だからこの曲は落ち着くけれど悲しい。

 ぼくは原稿用紙を取り出して机に並べた。自分の万年筆を久しぶりに取り出す。書き出してみるとインクは記憶よりも濃くなっていたけれど詰まっている様子はなかった。

 かれらに触発されたのかもしれない。なんとなく、小説を書きたくなった。けれど文章が思い浮かばない。仕事の文章は書くことが出来るのに、小説を書くことができないのは、目的のない文を綴ることができなくなったということでもあるのだろう。けれどぼくはなんとなく、潮間の景色をもう少し眺め続ければ小説が書けそうな気がしていた。この「なんとなく」だけは否定することができないような気もしていて、つまりそれはいってしまえば確信に近い「なんとなく」だった。

 空気はまだ湿気を吸い続けていて重かったけれど、頭はだいぶ軽くなったような気がした。ぼくはぞんざいに手紙の封を開いた。やはり、真理からの手紙だった。恋愛小説の表題で使われる書体のような、丸みを帯びつつもすっと走るようなペン字独特の疾走感があって、それでもきちんと整っているような、いわゆる「お嬢様の字」として完璧ともいっていい筆跡を書けるひとを、ぼくは他に思いつけなかった。

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