6-2

 潮間に来てから、めっきり外に出ることが減った。潮間駅でたいていの用を果たせるせいなのだけれど、それとは別に「外に出たくない」と思うような何かがこのまちにはあるのだろうと思う。だから、クリニックの用事以外でJR潮間線に乗るのは春以来だった。

 千歳駅がやたらに大きく感じるようになった。外は土砂降りだった。千歳に近づくにつれて頭痛がひどくなってきたので、改札内のトイレで薬を飲んだ。頭痛薬というわけではないけれど、そういう指示なのでそれ以外に飲みたくもなかった。

 かれらのライブは夕方だった。まだ少しだけ時間がある。駅前をぶらぶら歩きながら、何かを腹に入れておかないといけないと思った。スマートフォンをかざして後ろをついてきているひとがいないことは確認済みだ。ライブハウスの方へと続く道にもたくさんの飲食店が並んでいるが、とくに何かを食べる気にはなれなかった。なるべくひとが入りにくそうなところ、特に女のひとが入りにくそうなところを探そうと思ったけれど、それすら面倒になってしまって、結局目の前のラーメン屋に入った。

 中盛りまで同じ値段だというつけ麺を食べて身体がひたすらに重い。学生の頃は難なく食べられたはずなのに、今の胃腸はどうもそうではないようだった。げんなりしながら傘をひろげて薄暗い道を歩いていく。夕方になっていた。スマートフォンで確認すると開場時間を過ぎたところだった。ライブハウスはこのあたりのようだが場所がよくわからなかった。あたりをぐるりと一周して、どうやらそれらしい建物の前へたどり着いた。戦争を題材にしたテレビゲームで見たことのある、コンクリートで出来たトーチカを何重にもかさねたようなビルで、いかにも防音に優れているふうだった。

 扉を開けると受付には明るい紫色の髪でエメラルドグリーンのシャドウが目立つ女のひとが立っていた。耳のピアスはいち、に、さん、し、ご、まで数えてわからなくなった。とにかくたくさんついている。三島から聞いていた通りライブの名前と自分の名前をいって現金を出すと、女のひとはチケットをひょい、と出してそこのエレベーターで四階です、とぶっきらぼうに言った。見た目よりも優しいひとなんだな、と思いながらぼくは女のひとの横を通り過ぎてエレベーターを呼んだ。

 おそらくどの階も同じつくりになっているのだろう。ぶ厚い扉をあけると左手にすぐバーカウンターがあって、右手にステージ、奥には物販用のブースがあった。同人誌の即売会を思いだして懐かしい気分になった。バーカウンターの女のひとと目があった。ふわりと意味ありげにほほえまれてもぼくは勝手が分からない。そういえば、とチケットの半券を見ると、ドリンクと引き替えできる旨が書いてあった。額面を見れば「ワンドリンク込み」とちいさく書かれている。半券をカウンターに出してオレンジジュースを注文した。女のひとはしゃがみこんでしばらく在庫を探したあと、ようやくジュースの瓶をとりだして栓抜きであけてくれた。ぼくはありがとうと言って受け取る。

 四つのバンドが出て、「アコヤガイ」は最後のようだった。残りの三つのバンドも三島とは親交が深いということと、シオマソニック当日はどうやらあけられるらしいということは事前にかれから聞いていた。

 ぽつぽつとひとびとが入ってきた。みんなぼくよりずっと若い。学生ばかりのようだった。なんとなく服装が決まらなかったので出張用のスーツを着てきたけれどやっぱり浮いてしまった。けれど、それこそ学生時代のような私服で行っても結局浮いてしまうだろう。赤、黄色、緑などの濃くて鮮やかな色が目立った。はたして潮間でそんな色を見た記憶がなかった。潮間の「赤」はあせてしまっていて昔「はだいろ」と呼ばれていた色みたいになっているのがほとんどだし、黄色も青も信号を除けばほとんど見ない。発電所の区画で注意喚起のために使われているくらいだろうか。ここが千歳であって潮間ではないということを、こんなことで強く感じさせられるとは思わなかった。

 イヤープロテクターを耳に押し込んでいると、灰色のウィンドブレーカーを着た長身の男が近づいてきた。

「石本さん、今日はよろしくおねがいします」

「誘ってくれてありがとう。他のバンドも面白そうだね」

「ええ、今回は僕の企画なんです。だから好きなバンドだけ呼びました」

 チケットをよく見ていなかったのだが、どうやら「アコヤガイ」のはじめての主催ライブだったようだ。だから最後に配置されているのだろう。

「楽しみにしているよ」

「よろしくお願いします」

 かれはゆっくりと頭を下げた。

 ほどなくして照明が落ち、扉が閉められた。

 最初のバンドは小柄な女のひとが先頭で、のっぽのギター、髪の長いベースが入り、最後にがっしりとした体育会系みたいなドラムが入ってきた。見た目通りパワフルな演奏をしていたが、いずれも少し昔のポップスを意識したような曲調で、ピアノの音が欲しいなと思った。バンド名は忘れてしまった。

 ふたつめのバンドはピアノがふたりいて、真ん中の男のひとがボーカルだった。全員天津甘栗みたいな髪をしていて、服装もコンテンポラリーな雰囲気で統一されていて途中で入れ替わっても見分けがつかないなと思った。電子音楽とトーンの高いボーカルがうまいことかみ合っていて、異空間にいるみたいな気分だった。彼らには声をかけたいなと率直に思った。ぼくはその名前をおぼえた。CDを買おうと思って物販のブースに立ち寄ったらサブスクリプションサービスに登録しているからCDはまだ出してないという。仕方がないので歌詞の書かれたカードのセットを買った。

 みっつめのバンドはよく覚えていない。オレンジジュースだったはずなのになんだか眠くなってしまってあんまり曲をしっかりと聞けなかった。そういうアンビエントな曲調だったということは覚えているけれど。

 そして、あっという間に最後の「アコヤガイ」の演奏時間になった。

 三島が出てきた。生成りに近い色のズボンに真っ白なシャツを着ている。あまりにも色が薄い組み合わせなので灰色のギターがやけに目立った。その後ろからハヅキもあがってきた。黒いワンピースかと思ったら、彼女も白いブラウスと白いスカートだった。そういう衣装らしい。ハヅキは三島と適度な距離を取りながら、わたしはじぶんでここにいるのだ、というように歩調を変えた。ドラムもボーカルのマイクも横向きに配置されている。かれらは互いに向き合っていて、ぼくらの方をほとんど向いていない。少なくともぼくはそんなバンドを今まで見たことがなかった。

 かれらは間違いなく潮間の空気を纏っていた。生まれから育ちまですべて負の符号を持っていることに慣れすぎてしまったような、自らの背負うものが重いことに気がついていないような、どこか独特の雰囲気をその身に宿しているのだ。かれは数回目配せして軽くチューニングをすると、挨拶もせずにいきなりギターをひずませた。その上にドラムの正確なビートが乗っていく。ギターは少しずつエスカレートしていき、速度をあげていく。ギターとドラムの刻む呼吸があと少しで一致する、というその瞬間にかれは叫ぶように歌い始めた。

 海の底に沈んでいく僕を君はまだ知らない。知らなくていい。知る必要はない。心地よい水圧を君は知らなくていい。

 重苦しく引き下ろすような曲だと思った。かれも彼女もふたりとも、一貫してぼくらを海の底に引きずりこむような演奏をしていた。

 これだ。

 ぼくが、音楽に求めていたもののひとつがここにあった。この「アコヤガイ」なる音楽をぼくは今まで知らなかったことすら後悔した。ふたりは一貫して、最近求められている、共感だとか華々しさだとか軽々しさだとかをすべてはねつけて、それぞれの核にあるみにくくも輝くような何かをナイフでこじ開けていくような音楽を作っていた。

 明日になったら。

 明日になったら。

 悲痛な声で絞り出すように歌うボーカルの最後のフレーズには、明日なんかほんとうはこない方がいいという想いが込められているような気がした。わかるわかる、と軽々しく言ってはいけない。かれらはそれを無批判に受け入れて勝手に共感しようとしている聞き手を心の底から憎んでいる。そしてその憎悪すらもギターとドラムだけの純粋で美しい音色に覆い隠してしまう。ぼくはかれらがなぜ「アコヤガイ」という名前を使って活動しているのかを感覚的に知った。そして、かれらは間違いなく潮間のひとだと確信した。

 曲の最後の音をつなげ、かれはエフェクターで音を変えてさらに演奏を続けた。

 満ち足りたことなんてないけれど、足りないものばかりだけれど、君の名前を僕は知りたい。

 切ないほどに純朴な言葉だった。暮れなずむ海原のように平らかでまっすぐで、こんな詞すらも書けるのかと思った。三島が詞を書いていて、ハヅキと一緒に曲を作るということは聞いていたけれど、こうまで渾然一体となった曲を聞き続けていると、かれらはすさまじいこだわりと努力のなかで、ほんとうのほんとうに融合するようにして曲ができるのだと思わされる。

 海辺を駆ける君は、綺麗だ。

 三島がまっすぐ叫んで、ハヅキがコーラスをのせて「アコヤガイ」はコーダを奏でる。複雑なリズムを難なく刻みながら全身全霊でドラムを叩くハヅキ。意に介さないような涼しい顔をしながら、一心不乱にギターをかき鳴らす三島。やがてふたりの音は重合し分散し、そして収束した。

 余韻がライブハウスに充満しきってから、かれらは深々と頭を下げた。

 かれらがシオマソニックの最後を飾ることはぼくにとって確定的だった。ライブ限定のステッカーとファーストミニアルバムを買った。

「どうでした?」

 物販にいたのは三島だった。

「とてもよかった。葦山さんに話してみるよ。あと、今日いたバンドでもうひとつ話を聞きたいところがあるから、話をしておいてほしい」

 ぼくの答えを聞いてかれは無邪気に喜んだ。

「ありがとうございます。最高の演奏ができるようにがんばります」

 なぜだろう、ぼくはかれのその言葉をきいてむしろ少し不安になってしまった。もちろん、かれは全力を賭して仕事をしてくれることは明白だったし、おそらく演奏だって手を抜かないだろう。不安がどこからやってきているのかぼくはわからなかった。そして、まさにそれこそわからなければ、と思ったのだった。

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