6ー1

 書けなくなった日を忘れたことはない。ぼくの三十の誕生日だったから。

 誕生日はふつうに過ごすことにしている。さもなければ、ぼくがなにもせずに一年を過ごしたことがぼく自身にばれてしまうからだった。なんでもない日のひとつとして処理しなければ、去年の誕生日から一年が経過したことにすら耐えられないのだ。しいて言うなら、その静けさだけが一年を息災に過ごした褒賞ということもできるかもしれないけれど。

 その日、勤務が終わると社屋の外で新居浜真理に待ち伏せされていた。この頃にはぼくは彼女のお気に入りとして知られてしまっていて、よけいに会社にいるのがしんどくなりはじめていた。できれば避けたかったけれど、それすら見抜かれていたようで、出口の死角から急に現れたのだ。

「三十歳の誕生日おめでとう。これ、小説書くのに使って」

 彼女は細長い贈答品用のしっかりした小箱をさっとぼくに押しつけ、すたすたと去っていった。ヒールの音がやけに早かったのを今でも忘れていない。

 家に帰ってそれを開けると、万年筆だった。しかも、ぼくが小説を書くときに使っていたものと全く同じモデルのものだった。ご丁寧に名前まで入れられている。

 そう、ほんとうのことをいえば、それから思うように小説を書けなくなってしまったのだ。なにを書いても気持ち悪くて、気持ち悪かった。気持ち悪さから逃れるために書こうとした文章は醜かった。インクに真理のしている香水の匂いがして見るたび書くたび吐き気がした。

 真珠なんかほんとうは大嫌いだ。どういいわけしようが、そうに違いなかった。

 スマートフォンの通知音で目を覚ました。床に倒れていたようで背中が痛い。こめかみも痛い。外を見れば薄暗い空から静かに雨が降っていた。蒸し暑い。スマートフォンも充電されておらず電池がわずかだった。充電ケーブルにつなぎながら通知をタップする。三島からのメッセージだった。昨日はありがとう、ハヅキの言葉のとおり、僕も音楽を聞いてから判断するようにしていたが、昨日はオファーされたこと自体に舞い上がってしまって申し訳ない、という旨のメッセージだった。思っていたより丁寧だと思ったが、もしかするとあの後ハヅキに何か言われたのだろうか。いうまでもなく、三島はとても張り切っていたし、すでにオファーされたかのようなふるまいは変わらなかった。実際ぼくもそんな気分になってきていた。ありがとう、おかげで気分も晴れたよ、とぼくも今の自分の気持ちをそのまま返した。よくよく考えれば、十年近く年齢の離れているぼくに対して、少し距離を感じているだろうに、ぼくはといえばその距離感をきちんと考えていなかったかもしれないと思ったが、もう遅い。図々しいのは最初のお願いから変わらないのだし、だったらそのまま図々しく振る舞っておくべきだろう。

 そういえば、ぼくはかれに昔小説を書いていたことを言ったような気がする。とはいえ、同人誌の在庫は結婚する仲間が引き取ったし、増刷なんかするはずがないので版なんかとってあるはずもなく、自分の小説の原稿は手書きだが潮間に移る時にシュレッダーにかけて捨て、写植してデータにしたものも同じく削除しているので、ぼくが小説を書いていた証拠は万年筆とそのインク、そして原稿用紙くらいしかなくなってしまっている。かれらに読んでもらえそうなものを書いていたかどうかはまったく自信がないけれど、それでもぼくの小説をとっておけばよかった。ぼくにとって小説を書くということ、かつて小説を書いていたということは今となっては少しだけ恥ずかしいことのような気もしていて、それでいて他に何か自分を見つけだすよりどころがないため、気を紛らわすために口走ってしまうところがある。よくないくせだ。こういう人間にひと付き合いは向いていないと自分では思う。それでも葦山氏やかれらのように、気にかけてくれるひとたちが潮間にいるというのはなんだかふしぎだった。ふしぎだし、今までのそれとは少し違っていて、ぼくはなぜだか、とても大事にしたいと思うようになった。

 雨が降ると真理の幻ばかり見えてしまう。ぼくは彼女の何がそこまでいやなのか実はよくわかっていない。ほんとうは好きなのかもしれない。けれど、だとしたらぼくは新居浜真理になんらかの執着を持っている自分自身がほんとうにいやなのだろう。おそらく、ぼくが彼女を避けたい理由の中で、ぼくに実害を与え続けたという部分を除くならば、彼女がなぜぼくにここまで興味を抱いているのかが全くわからないからなのだろうと思う。わからないものは苦手だ。だからわかりたいと思うし、わからなくては、と焦ってしまう。少なくとも潮間に来るまでぼくはそういう人間だった。そして、どうしてもわからないものを見放してしまった。大学のサークルや同人サークル、会社の同僚たち、そして新居浜真理。

 おなじく潮間というまちもわからなかった。海から絶え間なくびゅうびゅう吹き寄せる風、昼間の空を照らす弱々しい日光、北東南に延々と続く崖、潮間駅すぐ近くの、そんなに古くないはずなのにどこか陰気な商業施設、反対に年期の入りすぎた市役所周りの旧市街、なぜか「カミサマ」になった発電所、そして頻繁に、あまりにも頻繁に遺体が流れ着くあの浜辺。全部わからなかった。好きか嫌いかと言われればきっと嫌いと言うべきなのだろう。だけれどぼくはなぜかこのまちに対して嫌いという感情や言葉を使いたくないと思い始めた。なぜだろう、それはまだわからない。そう、まだ、わからない。わからなければ、という気持ちはあるし、きっとわかる日が来るのだろうという確信めいた予感すらある。だからぼくはまだ、潮間をわからないということをあきらめていなかった。もしかすると、ぼくは潮間というまちを書きたいのかもしれなかった。もちろん、そう思ったところで小説は書けるようにはならない。そもそも、ぼくのそれまでの小説の書き方にのっとれば、書けるようになるためには、潮間とぼくを何かしらで接続しないといけなかった。もしかすると、シオマソニックがそのケーブルのようなものになるかもしれなかった。

 天気は悪かった。浜辺の方で物音がする。また遺体が打ち上げられたのかもしれない。けれど今日はなんとなく出て行く気になれなかった。仕事は相変わらず退屈だけれど、かといって休むわけにもいかなかったから、ぼくは支度をした。

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