5-2
潮間駅に着いた頃にはとっぷりと日が暮れていた。このまちは暗くなるととことん空が暗いことが多いせいか、やけに街灯がまぶしく感じることがある。今日がその日だったようで、駅前は昼間のように明るかった。
店に入ろうとすると、灰色のウィンドブレーカーを着た青年とすれ違った。かれはちいさく会釈をした。飢えた狼のような瞳と背負ったギターケースが、かれが何者なのかを教えてくれた。白いバイクに乗って駅とは反対方向に走り去っていく背中をぼんやりと見送った。
バイク屋はぼくのことを知っていた。はじめて店に入ったとき、まちを移動するのに原付が欲しい、と言うと、車じゃなくて原付を選ぶとはさすが、わかってるねえ、と言いながら気前よくいろいろなことを教えてくれたのだった。結局運転に自信がなかったので初心者でも簡単に乗りこなせるというスクーター型の原付を買った。それを今日、引き取りにきたのである。雨の日はゴーグルをしないと潮が目にしみるよ、というのでゴーグルを買うと、グローブとヘルメットはサービスだから、といって淡い灰色のグローブと黒いヘルメットをくれた。
原付とはいえ教習以来乗ったことがなかったので、スロットルをひねると思った以上に加速して驚いてしまった。駅前なのに車通りはほとんどなく、たまに通るのはバスとバイクばかりだった。ぼくはかれが走り去った方向に何があるのか気になった。駅から離れるけれども、少なくとも潮間から出るということはないだろう。そう思って駅に背を向けてスロットルをめいっぱいひねった。
この潮間というまちは、西以外の三方を海に囲まれている。だから、JR潮間線が伸びる方以外はすべて灰色の海につながっている。実際すぐに切り立った崖と海とが目の前に現れた。ガードレールがないので慎重にブレーキをかける。丁字路だった。右手、かなりのぼった先には灯台が見える。雲に隠れてはいるが月の光がわずかに漏れた。左の道は潮間とそれ以外を隔てる小高い山へと続いているようだった。スマートフォンで灯台を調べてみると「霧崎灯台」というらしい。切り立った崖の先の仄暗い海はほんとうにここが世界の果てのように思われた。水平線の端に陸地の建物による灯りが見える。おそらく江原県の陸地だろう。千歳県と江原県を分ける臼広川の河口は潮間よりもずっと西のところにあって、ここは海の上に突き出た半島のような形になっているのだ。なんとなく、灯台に向かおうと思った。
車どころか、なんにも通っていなかった。もしかしたらかれは反対方向に行ったのかもしれない。けれどなんとなくかれが灯台にいるような気がした。それは勘というにはあまりにも薄弱だったけれど、むしろ「推測」よりはずっとたしからしいと思った。
思っていたより灯台はずっと遠かった。霧崎灯台は、その名前の通り海を切り裂いているようなとがった岬にあった。道は灯台の前で大きく折れ曲がり、南へ続いている。おそらく、ずっと下っていけばそのうち潮間電鉄と並行する道路につながるだろう。バス停に貼ってある時刻表は朝と夕方、それも片手で数えるほどしか通らないことを示していた。しかし灯台それ自体は思っていたほど荒れてはおらず、未だに現役で動いているということをものがたっていた。
潮風に乗って聞こえてきたギターの音が、ぼくの勘を確信に変えた。はたしてそれはぼくが待ち望んでいた音だった。
いつか僕が宇宙になったら。
夜を飲み干して未来へ語ろう。
だからもう忘れて、いいよ。
高く伸びやかな声はしかし、その音色とは相反するような切なさを隠し持っていた。アコースティックギターに乗せられた声は押し寄せてくる波の音にかき消されず、しっかりとぼくまで届いた。荒波がとがった岩を磨いていく。灯台をまわりこむと、灰色の青年がギターを持って立っていた。
かれだった。灰色のウィンドブレーカーを着ているのになぜか違和感をおぼえた。さっきすれちがったときと寸分違わぬ恰好なのに、それだけがふしぎだった。
かれはぼくを見上げて、ギターをケースの中に置いて立ち上がった。
「所長、ですよね。石本さん、でしたっけ」
かれは想像通りの木訥とした口調で言った。ぼくは会釈とうなずきを同時に返した。
「三島祥太といいます。ご存じかもしれませんけど」
三島は右手を差し出した。握手は苦手だけれど、ぼくはなんとか不自然じゃないタイミングで右手を出して握手をした。
「どこかで、バンドか何かやってるの?」
これは、勘というよりはそうであってほしいという願望が先行していたのだが、結果的にそれがかれに伝わることはなかった。
「月に一回か二回くらい千歳で演奏してるんです。もし良ければ来週もやるので、観にきてくれませんか?」
「いいのかい?」
「もちろん」
「ありがとう、きっと行くよ」
三島は恥ずかしそうにほほえんだ。
「石本さんは、どうして潮間に来たんですか」
かれは若かった。おそらく新卒なのかもしれない。それでも、身体はぼくよりひとまわり大きかった。潮間の人間は小柄なひとが多いから、よく考えれば今までかれに気づかなかったのはふしぎだ。もっとも、それに似たようなことはいくらでもある。故事成語にもあったはずだけれど、なんていうか忘れた。
「はなすと長くなるな」
「あ、じゃあ『うしお』でどうですか」
意外な店を指名された。別によく行く店なのでぼくはゆっくりうなずいた。
三島のバイクは小柄だが当然原付ではないのでぼくより軽やかに、そして素早く坂を下った。急な坂でちょっと目をそらした隙にハンドルを間違えそうで怖かった。雨が降っていたらとてもじゃないが通りたくはない。そう思うくらいには急だった。
「ハヅキ!」
店に入るなり三島はだれかを呼んだ。小柄な少女がすっとこちらに向かってきた。葦山氏と飲んでいたときに目があった、あの黒子の少女だった。彼女とバンドを組んでいるということなのだろうか。しかしそれにしてはひとが少なすぎやしないか。もしかしてフォークドゥオなのだろうか、いや、そうなのかもしれない。謎は深まるばかりだった。ちいさく頭を下げた彼女は小動物のように愛くるしい表情をしている。子どものころ見たドラマに出ていた、子役あがりの女優にこんな感じの顔つきのひとがいたような気がするが、名前を覚えていない。
「このひと、おれの職場の上司」
「うん、知ってる。この前来てた」
「来てたんですか?」
三島は目を丸くした。なぜ驚く必要があるのだろうか。潮間に酒を飲んで入り浸れるようなお店は潮間駅の商業施設を除けばそう多くはない。単純な、見た目からくるイメージの問題だろうか。
三島に促され、ぼくは扉のすぐ脇の席に座った。この机は座ったことがない。葦山氏と来るときはいつも一番奥の机に通されている。
「改めて。紹介します、僕の相棒、市川ハヅキです」
三島の紹介とともに会釈した彼女は、かれと並ぶとその小柄さが目立つ。胸元に彼女の頭がくるくらいだから、ぼくより頭ひとつ小さいくらいの背だ。顔立ちが全く似ていないのに、兄妹みたいだと思った。
「僕たちはツーピースバンドとして活動しています」
こういうときのために作っておいてよかった、と三島は気恥ずかしさと浮かれがこんがらがったような笑みを浮かべてポケットの名刺入れの下側から名刺を取り出した。会社で作っているものよりもずっと薄くて、角が丸く切り抜かれている。表面は虹色にうっすらと光った。
「アコヤガイ、っていうバンドなの?」
「はい。僕がギターボーカルで、ハヅキがドラムコーラスです」
「え、ギターとドラムのツーピースなの?」
あまりにも率直にかれが話すものだからぼくは同じく率直に驚いてしまった。
「ええ、そうです」
三島はきりり、と音がしそうなほどのしたり顔でウィンドブレーカーを脱いだ。今まで着ていたことすら忘れていたが、脱いではじめて、かれはずっと真っ白なシャツを着ていたことに気がついた。
そして、まるで対になるように市川ハヅキは真っ黒なワンピースを着ている。三島の影を彼女が背負っているのだろうか、もしかするとそんな作風なのかもしれない、ときわめて単純に思ったが、一方でそんなはずはないだろう、ドラムとギターしかないなんて相当とがってるじゃないか、絶対に既成概念などないバンドだ、とも思った。いずれにしても、ぼくにとってかれらの登場は「渡りに豪華客船」といっても過言ではなかった。それはかれらだけではなく、かれらの知り合いにも出演の交渉ができるということに他ならないのだから。
市川ハヅキはごくふつうの少女でしかないように見える。けれど、こうして三島とふたり並ぶと、なぜだろう、いわゆる単なるアベックのような雰囲気ではなくどこか血のつながりすら生ぬるいほどの強靱な絆をそこに読みとってしまう。それがかれらのどこに出ているのか、ぼくは言葉にすることができなかった。
耳のおくでつばを飲み込む音がした。
「アコヤガイのおふたりに、おはなししたいことがあります」
三島が注意深く聞こうとしているのに対して、ハヅキはむしろ決然とした表情をしていて、心のどこかのぼくが、あ、やっぱりな、といった。
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