4-2

 休みを挟んで出勤すると、ぼくの机に真理がいた。

「この前、ごめんなさい。あなたがそこまで小説をだいじにしてるとはおもわなかった。でもわたし、本心でいったの。それだけ理解して欲しくて」

 同僚が聞いている前でそんなことを信じろというほうが暴力ではないだろうか。ぼくはそう思ったけれどさすがに言うことはできなかった。新居浜総務部長は常務理事でもあって、つまりこの巨大な電力会社でそれなりの権限があるひとだし、その権限を最大限利用して強硬な手段をとることでも有名だった。実際件のお局は彼女とぶつかった末に退職まで追い込まれている。さすがに今ここで職を失うわけにもいかない。けれどぼくの机に座るのだけはやめて欲しかった。真理は脚が長いらしい。誰から聞いたのか忘れたけれど、つまりそういうことなのだろうがぼくはそれで仕事ができないしぼくという個人にとっては間違いなく逆効果だろう。彼女はそんなことすらわかっていなかった。わかっているふりだけし続けていた。

「そういえば石本くん、もうすぐ誕生日だったね」

「そうだけど、別に祝ってもらう必要はないよ」

「そんなこと言わないでよ。同期でしょ」

「同期だけど、それ以上でも以下でもない。あなたが総務部長の娘だろうがそうでなかろうがぼくの態度が変わらないのと同じ。むしろ、それで態度を変えるならあなたに失礼だよ。あなたを見ているのではなくて新居浜総務部長を見ているわけだからさ」

「……そっか。そうだね」

 真理は納得したようだった。涙型の真珠はやはり右耳からつかず離れずの距離にいて、ぼくを見下ろしている。

「ごめんなさいね、忙しい時間に」

「ぼくに関わっても、なにもいいことなんかないと思うよ」

 その言葉を彼女は全く聞いていなかったわけだが、振り向いて寂しそうな表情を見せたことで、どうにか聞いているふうに見せられてしまった。この微妙な隙で今の潮間のぼくがいる。

 ゆっくりと、重たい身体を起こした。時計を見るともうすぐ正午になるところだった。このまま家にいると真理にすべてを支配されてしまいそうだった。あたりまえだが彼女のことなんか一秒たりとも考えたくはない。ただ脳はそう都合よくできていないのだということを思い知らされる。これを軽く考えるような人間は総じて、そんな現実が存在することを知らないか、知りたくないかのどちらかなのだ。どちらにしても罪深いし、彼らのような人間が生きているだけで他人にこうして「めいわくをかけている」ということを肝に銘じて欲しいと常々思うけれど、彼らはむしろそういったことを一切肝に銘じないからこそ生き続けていられるのだろう。でなければ今頃あの浜辺には毎日まいにちそういう無遠慮な人間だった水死体があがりつづけるはずだ。人間が集団で社会という秩序を形成している以上、こうしたゆがみを誰かが拾わないことには回らないことになっているが、しかしゆがみがないことにしなければ全員が狂ってしまう。必要な犠牲なのだろう。ふざけるな。ぼくは家を飛び出した。

 潮間電鉄に乗って小一時間、潮間駅でクリニックに電話をかけ、JR潮間線に乗って千歳まで向かう。例によって佐久間空港駅で大量の人とトランクが詰め込まれる。こんな昼間だというのにみんなどこへ向かおうというのだろう。だいたい佐久間空港から東京駅に直通する特急だってあるのに、わざわざ千歳で乗り換える必要なんてあるのだろうかといつも思う。日本語だらけの言葉が混線していていつも気持ち悪くなってしまうから、ぼくはここで音楽プレーヤーをかける。そういえばここに入っている曲もしばらく更新していない。診察が終わったらライブハウス街をのぞいてみよう。

 診察はいつもと変わらないまま終わった。こめかみの痛みはフラッシュバックと関連しているらしく、ただ頓服を出された。薬代と運賃を含めると一万円はゆうに超える。けれどもそれが他の健康なひとびとに実感として知られるということはないだろう。そういうちょっとしたところに絶望の淵は開いていて簡単にぼくらを飲み込んでいってしまうから、ぼくは淵に立ちつつ入らないように細心の注意を払った。いや、ほんとうはすでに片足をどっぷり突っ込んでしまっているような気もする。いずれにしても、それを無意識に飛び越えられるひとがうらやましいしうらめしい。

 クリニックから駅を挟んで反対方向に行くと、ラブホテルとライブハウスが入り乱れる若者御用達の区画に入る。業態が全く違うのになぜこのふたつは入り乱れるように同じ区画に立っているのだろう。千歳ばかりではないというふうに聞いた。だから、おそらく立地的にそういうものなのだろう。

 ライブハウスのイベントを調べようとスマートフォンを手にすると、暗くなった画面の奥に見覚えのある女の姿が映った。抜けるような絶妙な色の髪、目立ちはしないけれどなぜか同じものをみた記憶がないワンピース。

 間違いなく新居浜真理だった。

 背筋をナイフの背でなぞられたみたいに身体が凍りついた。後ろ、少し遠くに新居浜真理がいる。あれは間違いなく真理だ。真理だとしか思えない。新進気鋭のバンドを見つけようと思ったのにそれどころではなくなった。しかし振り返ればぼくが感づいたことに気づかれてしまう。どうすればいい、どうすれば、どうすれば真理に感づかれないまま無事に帰ることができるのだろう。とりあえず振り返らずに道を三回左折すれば撒けるだろうか。角を曲がる。真理はまだいた。曲がる。遠くに真理がいる。曲がる。ぼくはいつのまにかスマートフォンを自撮りモードにして後ろを確認していた。通りがかった金髪の女のひとが怪訝そうに振り返った。真理らしい姿はもう見えなかった。

 身体じゅうから変な汗が噴き出して、急に止まった蒸気機関車のように口から息が勢いよく漏れた。呼吸を整えて一目散に千歳駅に駆け込んで、六番線ホームを目指す。いやな予感がした。いったんトイレに入って、薬を飲んだ。ふう、と息をもう一度ゆっくり吐いて、こっそり外をうかがう。

 追いかけてくる様子はなかった。すでに入線していた列車に乗り込んで、ぼくはロングシートの端に腰掛けた。

 反対側、五番線ホームのベンチをおもむろに見ると、その服装の真理が座っていた。耳元にきらりと真珠が見えた気がした。びくり、と身体の中が波打つようにゆがむ。雷が落ちる瞬間というのはおそらくこの数千倍の力がかかるのだろう。真理はこちらに気づいていないふうだった。ぼくはゆっくりと顔を下げて、目を閉じた。ほどなくして列車は千歳駅を発車したが、潮間駅に着くまで目を開けることができなかった。

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