4ー1

 目を覚ますと雨が降っていた。左のこめかみが痛い。あの日真理にはたかれたところが、雨が降るたびにこうして痛む。五寸釘をゆっくりねじ込まれているみたいな感覚、とひとには説明するが、はっきりいってそんなにわかりやすいものではない。身体のどこかに開いているであろう穴に棒状の何かを押し込められたような、はっきりとしないけれどもただただ不快な感覚というのがきっとほんとうは正しいのだろう。説明もできないけれど。

 非番だった。もし非番じゃなかったら主任のあからさまなため息を電話の前で聞くことになっただろう。主任のそういうところは嫌いではないし、どちらかというと好感が持てた。少なくとも、いつでもにこにことされるよりはずっと優しいと思っている。わざわざ本人に面と向かって言うようなことではないけれど、言わないのもどこか変な気がしていまだにどうすればいいのかわからなかった。だれかにどう接すればいいのかわからなくなるというのが恋だ、なんてむかし知り合いの書き手にそんなことを嘯くひとがいたけれど、だとするならばぼくは間違いなく主任に恋をしているし、そして当たり前だけれど真理にも恋をしているということになるだろう。もしかすると彼から見ればぼくはまさにそういう状態で、つまるところ「ふたまたをかけている」ということになる。きわめてぞっとしない考えだった。こんなことを勝手に考えてしまう時点で具合が良くないのは明白だ。少し横になろう。こめかみの痛みは消える気配がなかった。景色がぐるぐると回る。回った景色は少しずつすこしずつ丸みを帯びて球になっていった。そのままぽとりぽとりと音をたてて雨の中に落ちていった。

 何かが起きるとき、必ず雨が降る。あの日も確か雨だった。由緒ある温泉地の大きな古めかしいホテル。気がつけばぼくはそこに戻ってしまう。

 もちろん、戻りたくて戻るはずがない。戻ってしまうものなのだ。

「どうして信じてくれないの」

 顔をはたかれて、怒号に近い高い声が浴びせられる。何度めだろう。数えてはいない。数えていたら楽になっただろうか。

「あなたがこんなに好きなのにどうして、ねえ」

 真理は酔っていた。ぼくが見た限りで最も酔っていた。普段曲がりなりにも持っていた、関東電力の総務部長の娘という矜持をどこかで破り捨てていたと思う。知らないけれど。ぼくの知ったことではない。知りたくもない。

「おんなは好きなのでしょう」

 彼女はぼくにもたれかかった。酸っぱい、誰かの身体の中の日本酒のにおいだ。吐きそう。ここでいつも吐きそうになる。逃げられない。壁に追いつめられている。両腕を外せば逃げられただろうってあとから同僚は言った。もちろん物理的にはできただろう。実際最終的にはそうした。けれど、そんなこと、おいそれとできるはずがないのだ。総務部長の娘であるとだれもが知っている彼女をぞんざいにふりほどいたら、ぼくはありもしない不祥事をふっかけられて懲戒解雇にでもなるだろう。だから関東電力に勤めている人間であればだれもできるはずがなかった。そんなこと、だれだってわかっているはずなのだ。

「あなたの好きなひとになりたいのに」

 右耳の真珠のイヤリングが大きく揺れている。ぼくのシャツに赤いひし形のしみがついた。いやだ。いやに決まっていた。だれが、なんと言おうとぼくはいやだった。たとえるなら彼女は玉ねぎで、ぼくは玉ねぎがほかの野菜のどれよりも嫌いだった。どこからが中身なのかがわからないから。ぼくの身体や心はぼく自身のものだということが彼女にはわからないのだ。いくら言ってもわからない。ただそれだけのことがどうしようもなくいやだ。その拒絶が彼女どころかその周りにまでまるっきり無視されたのが最悪でほんとうに許せなかった。

 結局ぼくは彼女をつきはなして駆けだし、自分の部屋に入って鍵をかけた。何度か外で大きな声がしていた。あっという間にぼくは人事室に呼ばれて彼女の身体を性的にもてあそんだことにされた。だけれどポケットにレコーダーを忍ばせていたことが幸いして懲戒は免れた。そうして潮間へ異動になった。

 目が覚めたら涙が流れていた。どうして流れているのかわからなかった。どうして、こうなってしまったのだろう。こうも雨が降っているとそんなことをまた考えてしまう。こめかみはまだえぐるような痛みを残していた。

 新居浜真理とはじめて出会った、というよりぼくがはじめて彼女を認識したのは入社して五年目の同期会だった。とくに行きたくもなかったが、節目だし、同じ部署に同期がいたので断るのも煩わしいからなんとなく出てみたのだった。払拭が不可能と思われる規模の不祥事を起こしたといっても関東電力はその名の通り関東地方の電力事業の主力を担う企業であるため、ぼくの同期も五十人くらいはいて、節目となる会も気合いが入っておりクラブハウスのようなところを借り切った立食形式のパーティだった。とはいえシャンパンがふるまわれ乾杯の音頭をとりさえすれば決まっていたかのように混沌ばかりが海のように会場を覆った。何がなんだかわからないまま、ぼくは会場の隅っこに座ってローストビーフと生ハムを食べながら赤ワインを飲んでいた。ふとフロアを見渡すと、ショートカットの明るい茶髪の女のひとと目が合った。見覚えがあるようなないような、単館上映の映画で見かける若手女優のようなくっきりとした顔だ。彼女は意味ありげにほほえんで、ぼくに近寄ってきた。右耳についているのが何かよくわからずに誰かの歯が欠けたのがついているのかと思ったがそんなはずはなかった。もう一度見たら涙型に歪んだ真珠だとわかった。

「石本くんだよね」

 彼女がぼくの隣に座ると、それに反応して数人の男女がさりげなくこちらを気にしたのがわかった。その動きでようやく気づいた。彼女があの「令嬢」なのか、と。

「もしかして、あなたが新居浜さん?」

「そう、新居浜真理です、なんて、内定式終わった後の最初の同期会の時、石本くんの隣だったじゃん、忘れたの?」

 彼女が気さくにぼくの肩をたたく。それだけで、おそらくぼくにとってはどうでもいい人物だったのだろうな、ということがはっきりとわかった。たぶん、ぼくが男に生まれてよかったと思える部分のほんとうに数少ないところだった。

「やだ、ほんとに忘れてるじゃん。わたしを忘れるなんてあり得ないよ」

 涙型の真珠がゆらゆらと揺れていた。どこか催眠術にかけようとしているみたいに、それはいかにも意味ありげにぼくを誘っていた。何に? わからない。

「でも、現にぼくはあなたにはじめて会ったのと同然ですけど」

 おそらく酔っていなければこんな対応はしなかったように思う。ぼくは彼女のその雰囲気を心底苦手に感じた。自分は尊重されて当然。尊重しない人間は人間とはみなさない。そういう思想を隠しもしないし、さらに言えば恵まれた容貌の持ち主であることがそれに拍車をかけているように思えた。髪の色も目立つくらいに薄いがかといって風紀を乱すほどではないという絶妙さで、だからかよけいに涙型のやたら大きな真珠だけが浮いているのだ。

「この真珠気になる?」

 真理はぼくの視線にめざとく気づいた。

「丸くない真珠なんてあるんだな、と思って」

「うん、そうなの。結構珍しいんだよ、これ。わたしね、真珠好きなの」

 右耳を前に出してうれしそうにほほえむ無邪気さが、ぼくにはかえって育ってきた環境のえげつなさを読みとってしまいより邪悪に見えてしまった。うわさを聞く限り彼女は「邪悪」と判断せざるを得なかった。入社してすぐ突っかかってきた有名なお局社員を父親に言いつけて僻地に異動させたことはぼくにも伝わるくらいだからあまりにも有名なのだろうし、それがもとで彼女に近寄る人間とそうでない人間ははっきりと分かれていた。ぼくは後者でありたかった。さらにいえば、今この瞬間まで完全に後者だったはずだった。

「ねえねえ、わたし不思議なウワサ聞いたんだけど、石本くんって小説書くの?」

 瞳にはめられたコンタクトレンズは、確か縁どりがされていて黒目が大きく見えるものではないか。おそらく彼女の本来の瞳はきっとこれより小さい。だからぼくのなにかが見えているはずはないだろう。とはいえ、ぼくも徐々に酒が抜け始めていて冷静さを取り戻していた。副業の規定はなかったはずだし、それが副業に値するかという意味では少なくとも生み出した資金という意味でノーに決まっているようなことなので、ぼくは首をふった。

「そういうようなものではないよ」

 けれどうそをついてもよけいな詮索をされるに決まっているので、適当にやりすごそうと思った。

「書いているってことね。いいなあ、わたしそういうの書く男ってあこがれるの。読ませて欲しいなあ」

「いやだよ」

 どう転んでもいやなので、真っ向から否定したのだが、彼女はその真っ向からの否定という反応に全く慣れていなかったようだった。一瞬固まって、小さな口が半開きになり瞳がふるふると震えたのがわかった。

「えっ、なんで?」

 つまり彼女はなにもわかっていないし、なにも感じてはいないのだろう。そしてぼくは自分が猛烈に怒りをおぼえていることにようやく気づいた。

「あなたが読んでも意味のないものだから」

 そうしてぼくは席を立って会場を出て行った。これで何か言われるならもう好きにしてくれ、と思った。

 しかし次の日冷静になって、お金がなくなって小説が書けなくなるほうがいやだと気づき、ICレコーダーを買って仕事をしているときや会社の人間が集まるときは常に録音しておくことにした。これでぼくにぬれぎぬを着せることはだいぶ難しくなるはずだったし、事実ぼくはこれで職を解かれるということを免れたわけで、このとき買ったのは間違っていなかったといえる。

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