3-1

 休日の朝、崖の下からなにやら音がすると思ってのぞいてみると、あの浜辺で人が倒れていた。警察の駐在員が無遠慮にそれを検分している。潮風にさらされて色が薄くなった灰色の制服が、白い浜辺と黒い海のどちらにも溶け込まなくて目立っている。この前と同じように、野次馬らしき影はみあたらない。ぼくは急いで崖を駆け下りた。

「ああ、あんたは発電所の」

 ぼくの父親より少し若いくらいの、定年退職間際と思われる年老いた警察官は、思っていたよりずっと落ち着いていた。倒れている人をのぞき込もうとして、

「だめだめ、死んでるよ」

 と制止された。

 確かに、生きているひとのそれではないことは見てわかった。ドラマなどではこういうときに吐き気とかショックが起こるのがふつうなのだろうけれど、幸か不幸かぼくはなにも感じなかったし、なにも思わなかった。ただ、ひとだったそれが流れ着いていて、この浜辺を汚している、程度にしか思わなかった。

「そうか、あんた知らないんだな」

「何をですか」

「ここはな、潮間の海岸すぐ近くを流れるいろんな海流が全部集まってくる場所で、元々は人工的な浜辺だったんだけど、十年ほど前かな、インターネットで、ここらで切り立った崖になっている場所がいくつか自殺の名所として取り上げられるようになってから、飛び込んだ人間がけっこうな頻度でここにあがってくるようになっちまってな、そんで人工海水浴場の計画が全部ぱあになったんだよ」

 にわかには信じがたい話だった。けれど、一帯に広がる真珠のような粒を見ているとそれがどうやら真実のようにも聞こえてくる。それに、実際にぼくは前にもここで人を見ているのだ。

「この前も、見ました」

「ああそうだろう。だいたい一週間に二、三人はあがるね。いやな世の中だよ全く。おれが子供のころはこんなまちじゃなかったんだけどね。あんな発電所なんかもちろんなかったし、ほんとに何にもなかったけど魚はうまかったし、みんなもっと顔色がよかったんだ。あんたに言ってもしょうがないと思ってるけどね、それをぜんぶ、あいつが変えちまったんだよ」

 老警官は警棒で崖の向こうにある発電所を指した。憎々しい感情がありありとこもっている目だった。

「まあこんだけ頻繁にあがってるもんだからもうだれも気にしないみたいだし、正直おれも毎日のように見てるから馴れちまったよ。あんたもじきに馴れるだろうよ」

「そうですか」

「ああそうだよ、人間ってのはそういうふうにできてるんだよ。どんなにわけがわからなくたってそれが毎日のように起こっていれば、全く気にしなくなるもんなんだ」

 それには心当たりがあった。千歳にいた頃の会社の常識で、世間の常識だったものなんかほとんどないくらいだった。実際、そうであることもいつしか忘れてしまうところだった。このまちに来てぼくはようやく気がついた。

「だいたいこうも毎日曇りばっかりで水平線だってろくに見えない日ばっかりなんだから気も滅入るし飛び込みたくもなるさ。まあ自殺の名所として紹介した奴は絶対に許さんけどもな」

 老警官は多弁だった。久しぶりにひとと話したのかもしれなかった。

「だからあんたも気にしなさんな。言っちゃ悪いがこういうことをいちいちいちいち気にしてたらあんただってこのホトケサンみたいになっちまうかもしれんからな」

「はあ、そうですか」

「ほんとに信じらんないくらい多いんだよ、むしろおれみたいな潮間の人間だから感じないのかもしれんが、このずーっと同じような天気と景色が続くというのは他の場所ではそうそうないだろう」

「どうでしょうね」

 どうでもいいな、と思ってしまった。千歳の空はほとんど見たことがなくておぼえがないし、幼いころ見た宇佐見の空はどうだっただろう。あまりおぼえていないし、よくわからない。

「まあともかくもうすぐ車が来るから安心してくれ。これはあんたにはいっさい関係ない人間の人生の終わり、ただそれだけだ」

 老警官はそう言って表情を消した。それ以上かける言葉が見つからなかった。

 シオマソニック実行委員会というものに入ることになったのを、葦山氏からのメッセージで知った。委員会はグループチャットと数名のアカウントから発足したらしい。葦山氏と、おそらく市役所や電鉄に勤めているだろうと予想できるひともいた。そしてぼくはすでに「考案者」として有名になっていた。そういった試みはしたことがなかったけれど、葦山氏の熱意は伝わってきた。彼はどうしても潮間ににぎわいを取り戻したいらしい。老警官が言っていたように、このままでは飛び込み自殺のまちとなってしまうことを感じたのかもしれなかった。ぼく自身も音楽が好きだし、なんとなく文化祭のような感じがしてふしぎといやな気がしなかった。

「期待しているよ。なにかあったら気軽に連絡してくれ」

 葦山氏のメッセージが入っていて驚いたのも数日前のことである。決起集会のようなものもやるそうだがぼくはたまたま私用があって参加できなかった。その「シオマソニック」のグループチャットのひとつ下にあるグループの、最後の会合に行っていたからだ。

「潮間から出てきたのか」

「ああ、もうそっちに住んでいるから」

 本名を知らないかれらと関わるのも、これで最後だろう。ぼくはなんとなくそう思った。結局残ったのは、ぼくと、今度結婚するかれらだけだった。

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