市ノ瀬主任は非常に有能と言わざるを得なかった。ここでのぼくの仕事は、ただ自席について書類に目を通し、確認しました、という意味で三文判を押すことと、地元の企業の挨拶まわりの対応くらいで、ほかはすべて嘱託会社のだれかの仕事だった。主任はそれらをすべてひとてにとりまとめ、ぼくに報告だけをする。この席の意味と、初日の主任の言葉の意味が、だんだんわかってきた。

「今日は、葦山産業の前会長、葦山高光様がいらっしゃいます。会社運営は息子さんに譲られていますが、地元の名士の方ですので、失礼のないようにお願いします」

 主任がこうした形でなにか申し添えることは今までなかった。

 通路や執務室は殺風景だが、応接室だけはそれなりの調度品があつらえてあった。何度か入ったが、その格差はどこか寒々しいほどで、いつ入っても居心地の悪さを感じてしまう。

 滅多にしない四回の丁寧なノックの後、主任がゆっくりと扉を開けた。ぼくは思わず口を開けてしまった。主任に促されて入ってきたのは、グレーのスーツを着て、しわのないシャツに薄い黄色のネクタイをした恰幅のいい老人で、つまりぼくがはじめに乗ってきた列車で話しかけてきた、あのひとだった。

「またお会いしましたな、石本さん」

「お会いしていたんですか?」

 主任が怪訝そうにこちらを向く。疑っているのではなくて驚いているのだ。彼女のほぼ唯一の欠点として目つきがよくないところがあげられる。

「いや、少し前に列車で見かけてな、物珍しそうな顔をしていたから、これが今度の所長さんかなと思っただけじゃな」

 数日前に聞いた抑揚そのままで彼は語った。潮間の古い訛りらしいと主任からは聞いている。

「そうだったんですね」

 主任が手早くお茶をおいたので、ぼくは席を促した。葦山氏はありがとう、と主任に言葉をかけて奥に座った。この応接間の主はぼくではないと直感的に思った。そして、それにあらがう必要もすべもなにもないことも同時に気づいた。

「しかし若いのう。おいくつじゃ」

「三十二です」

「三十二? そんなトシで何をやらかしたんじゃ、たいそうな若者さのう」

 応接間の扉はぴったりと閉められた。

「わかった、大概あれじゃ、そういうもんじゃの」

 葦山氏は小指を立てた。ぼくは申し訳なさそうにうなずいた。間違ってはいなかったし、そういうことにしておいたほうがよいのだろうと思った。

「なるほど。石本さん、下の名前はなんと?」

「隆志です。地形の隆起の隆にこころざしと書きます」

「ほほう、結構けっこう、いい名前じゃ」

 葦山氏は剛胆に笑った。なるほど、主任がおそれるのも当然だ。この老人の、身体の芯から漲ってくる得体の知れないちからのようなものがあまりにも強すぎるのだ。それは、まさにぼくの倍以上も生きてこられたような人間にしか出せない凄みのようなもので、氏の中に底知れないものがあるようにみせている。実際それは確かなのだろうと思わせるなにかが氏の立ち居振る舞いにはあるのだ。それを言葉にできたなら、きっとぼくはここにいなかっただろう。

「改めて。ようこそ、さいはてのまちへ」

 この後、どうかな、と葦山氏は杯を傾けるジェスチャーをした。ぼくも嫌いではないし、今までの流れから断るべきではないと感じた。黙ってうなずくことにした。

 外に出れば山の向こうに夕日が沈んでいた。山を越えた先にはおなじ千歳県の山村が点々と続いているはずだ。千歳県は西側こそ首都圏に位置していて人工的でない土地などどこにもないようなところではあるが、県庁所在地の千歳を境に東側へいくとしばらくは広大な農地が広がって、それがなくなるとだんだんと標高があがってきて寂れた原野が姿を現し、深い森を抜けて崖のような山がそびえてから海になる。ぼくは千歳県の西端の、大都市に近い宇佐見というまちで生まれたからこんな景色がおなじ県の中にあるとは思っていなかった。はじめてこの地に足を運んだのは学生時代だった。ぼくは鉄道が好きで、あるとき、千歳県をぐるっと一周する旅行記を書きたくて、県内の旅客鉄道はすべて乗り潰そうと計画した。そのときに難関として立ちはだかったのが、JR潮間線と潮間電鉄だった。だから、潮間というまちそれ自体は、単にチェックポイントという意味ではあったにせよすごく印象的だった。

「そうか、そういうものなのか、なるほどな。しかし、面白いのう。君が旅をするというのも、小説や旅行記を書くというのも」

 ひとりでは絶対に入らないような、質素だけれど素人めに見ても高そうな料亭で、葦山氏は日本酒を傾けてぼくの話を聞いていた。少し、飲み過ぎてしまったようだ。身体が火を入れすぎた機関車みたいにぐるぐると回っている。

「宇佐見もまた、かつてはただの漁村だったと聞くがのう」

「ぼくが生まれた頃にはもうその面影はほとんどなかったです」

「そのようじゃな。おまえさんが意外にもこのまちが好きだと言ってくれたことにわたしは驚いとる」

 ふしぎなまちだと思った。海の近くで潮風がこうも荒々しいのに、にぎやかではないところが最もふしぎだと思った。港町というのはどこか、血気盛んでうるさいところのように思っていた。宇佐見はベッドタウンとして成長するために沿岸部を埋め立てていて、そうでない部分がやはり漁師の血を引いたものばかり暮らしているということが一目瞭然であるくらいせせこましいが、このまちは一転してすごく、静かだ。

 けれどもぼくは、やっぱりあの浜辺のことを言い出す気にはなれなかった。きっと話せばなにかしらの答えを聞き出せるだろうとは感じていた。だけれど、それはまだこのまちに来たばかりのぼくが聞いてはいけないことのような気がした。わからないままでいることがなぜか自然であるように思えたのだろう。

「このまちは、そうさな、死んでいることで、生きている、そう、いうなればそういうまちなんじゃ」

「なるほど、だから静かなのかもしれないですね」

 ぼくは思わず口走った。飲み過ぎている。葦山氏はしかし、ぼくの失礼な言葉に笑みを浮かべていた。

「静か、か。そうさな。静かすぎるくらい静かじゃ。たしかに、おまえさんの言っていることはまちがいではないのう。じゃが、このままでは、ほんとうにこのまちは死んでしまうような気がしておる」

 ぼくは黙り込んでしまった。死にゆくまち。吹き溜まりのまち。あるものは、発電所、海、崖、それだけ。少し歩いただけでもなんとなく感じるほどに潮間の景色は切実さをものがたっていた。だけれど、ひるがえって、ぼくはそもそも生きてさえいただろうかと考える。少なくとも今までのぼくは、そうだと胸を張ってはいえない。

「もう少し、若い力があればのう。なんというか、こう、ロックなものというか、少し真新しいものがあれば変わるかもしれんがのう」

 葦山氏は声を落とした。確かに、行き交うひとびとはみなぼくより明らかに年上に見える。学生とわかるほど若いひとたちは千歳とくらべると非常に少ないように思えた。

 ぼくはあることを思い出した。

「ロックというと、サクマソニックという音楽フェスを知っていますか?」

 真夏の夜に有名なロックバンドが集まって徹夜で繰り広げられる、日本で最も有名なロックミュージックの祭典だった。佐久間空港を建設したときの広大な資材置き場跡に作られた公園に現れる、数日限りの巨大なステージは、当然のことながら電気を非常に大量に使用するので関東電力の協力もあおいでいる。実際、その時期になると少なくとも千歳支社は佐久間の話題でもちきりになる。

「さくまそにっく……ふむ、聞いたことはあるが。空港のまち佐久間で繰り広げられる音楽の祭典のようなものじゃとな」

「もし、ここでやるとしたなら、シオマソニックですね」

「シオマソニック、か。ほほ、おもしろそうな名前じゃの。文学青年、いいものを考えるじゃないか」

 葦山氏は愉快そうに笑った。ぼくが見た中で一番愉快そうだった。ぼくもおかしくなって笑った。発電所からの連想でなんとなく言ったことだけれど、だからこそなんとなくおもしろい。

 実はぼくが覚えているのはそこまでだった。気がつくと自宅の床に倒れていた。けれど、なぜそれを覚えているかというと、結論から言えばその「シオマソニック」をほんとうに立ち上げることになってしまったからに他ならなかった。

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